044:pathos(パトス。情熱・激情。厳粛な感情興奮の状態)
唇を重ねたのは、どちらからだっただろう。
ハミルの腕から力が抜ける。息苦しさがなくなってふっと息を吐いた。
ほっとした。激情にまかせたように振る舞うハミルを初めて見たから。確かにほっとしたのだ。それなのに、リィナは離れかけた身体をなぜか引き留めるように、ハミルの服を掴んでいた。
無意識のそれにハミルは動きを止める。視線が交差した。後は引かれあうように、唇を重ねていた。
ひどく、冷たい。
まるで死人と口付けをしているよう。そう思った。そして、ああ、そういえば、初めて触れた指もぞっとするほど冷えていたのだったと、頭の端で思い出していた。
何度か触れ合った後、唇が離れる。吐息にぬくもりを感じて、ああ、彼は生きているのだと、リィナは思った。
一瞬目が合う。だがすぐに顔は伏せられて、前髪がハミルの表情をリィナから隠す。それでも、リィナを抱く腕は解かれないままだった。
彼は何を考えているのだろう。何故、口付けを。聞きたいことはあった。だが、リィナも、そしてハミルも声を出せぬまま、ただ座り込んで抱きあったまま動かない。
どれだけそうしていたのか、一瞬だったのかもしれない。だがリィナにはそれが永久の時間のように感じた。互いの息遣いと、それ以外には静かで真っ暗だった。至近距離にいるお互いだけしか見えない。
世界に二人きりしかいないようだった。
リィナはそろとハミルの頬に触れた。滑らかなそれに指を滑らせて、彼の前髪を払いのける。それに導かれるように、ハミルは顔を少しだけ上げた。
泣いているのかと思った。
だが実際、彼は泣いてなどいなかった。
でもそれは、泣くよりも苦しい、泣くことすらできないような。見ているこちらが苦しくなるような、そんな顔をしていた。
「ハミル様……。」
リィナは小さな声で彼の名前を呼んで、そして、その目尻にキスをした。見えない涙の雫を吸い取るように。
「あっ…」
どれが彼の琴線に触れたのかは分からなかった。
だが、彼は再びリィナを強く抱きしめる。そして、涙を堪えるような、そんな震える声でこう言った。
「たすけ、たすけて……。私を、たすけて、ほしい……。」
終わりのない、この地獄から。