019:タナトス(死、又は死の願望)
「ねぇ。」
夕刻。カーテンの隙間から紅い、血のような光が差し込む。薄いシーツを引っかけただけの女は、すぐ傍に背を向けて座っている男の肌に指を滑らせながら囁いた。
「何ですか、姫。」
男は背を向けたまま、感情のこもらぬ声で問うた。
「随分、仲良くなったのね。」
「……?」
男がはじめて振り返る。女の言葉の意味が分からなかった。
「分からないの? それとも、振り……?」
女は蠱惑的に微笑み、唇を吊り上げた。その笑顔は日に日に毒々しくなっていく、そんな気がした。
「あの可愛らしい侍女よ。リィナ、と言ったかしら。」
「彼女がどう―――」
男は背中の引き攣るような痛みに言葉を止めた。
女が爪を立てていた。
「手を繋いでた。どういうつもりなの。」
俯いてしまった女の顔は男の位置からは見えない。彼女がどんな表情を浮かべているのかも。
「姫……。」
呟く男の声に女が弾かれたように顔を上げる。
歪んで、今にも泣きだしそうな顔。それでも彼女の美しさは消えない。だが、かつて、この国に来るまでにあった純真さを纏う美しさはない。
狂気的なまでの、凄惨な美しさだ。
「私には、あなたしかいない……。それなのに……! あなたは、私を裏切るの?!」
背に立てられた爪にさらに力が籠る。薄く滲んでいただけだった血が、溢れるように流れた。
彼女の白い手を赤い血が染め上げる。
だが、それにも気が付かぬように、女は男ににじり寄って、血濡れた手を今度は男の首にまわした。
手に力をこめる。
「あなたに裏切られたら、私は生きてはいけない……。その時には、きっと、こうやって……あなたを殺すわ。」
深窓の姫の力では、男一人を殺すには足りない。
だが、もし本当にその時が来れば、きっと彼女に縊り殺されるのだろう。
きっとこの関係の終わりは、彼女のこの手で下される。
男は、震え力を失ってしまった女の手に自身の手を重ね、そう思った。