012:曼珠沙華
「かけてくると思わなかった。」
将人が部屋に残していた書置き。その端に小さく書いた数字の羅列。気が付くかどうかも分からなかった。携帯電話の番号であることも含めて。まして、かけてくるなんて。
七恵は気が付かれないように頬を拭う。
名前を呼んだきり、何も言わなくなってしまった将人に、七恵は努めて明るくいった。
「どうしたの?」
「七恵、その……。」
将人は歯切れ悪く、何か言いかけた口をまた閉じる。
ああ、やっぱり後悔してるのかな……。
姿が見えない。だから、将人が今どんな顔をしているのか、想像するしかできなかったが、声には迷いを感じた。
七恵は携帯電話を持つ手をぎゅっと握って、再び涙が零れそうになるのを堪えた。
ないたりなんかしたら、ひきょうだ。
「何かあった? 鍵はポストに入れたよ。入ってなかったとか?」
「や、鍵は、あった。そうじゃなくて……。」
どうして顔を見て話せないんだろう。
七恵は携帯電話を持つ手に、一層力を籠めながら、将人の言葉を待った。
待って、待って、もう切ってしまおうか、そう思いさえしたとき、将人がぽつと呟いた。
「――泣いてるのか?」
手から電話が滑り落ちて、ぽすりと音をたてて、布団に沈んだ。手を目元にやると指先が濡れた。雫が伝って、手首まで濡れる。
「将人……、私……。」
七恵は落ちた携帯電話を取り上げる。
手が震えて、上手く掴めなかった。
ようやく耳元まで持っていくことに成功して、切れてしまってはいないかと不安になった。
だが電話口は、沈黙したまま、しかしその先からは、男の微かな息遣いを感じた。
そしてその一瞬後には、七恵は布団から跳ね起きると、家を飛び出した。
いつの間にか外は雨が降り出していて、小雨が薄着のままの七恵の身体を冷やしていった。
しかし七恵はその事にも気が付かぬまま、水溜まりにも気を留めず、ただひたすらに駆けた。
都心の真中で木々に囲まれた、自然公園。その木々を縫うようにして走る。
「七恵。」
七恵は足を止める。
繋がったままの電話、そして、そこから聞こえる声は、前方からも聞こえてくる。
目の前の男も、また、傘も差さずに雨に濡れるに任せていた。
「濡れてる。」
将人は手の届く位置まで歩み寄ると、七恵の髪に指を通した。
「将人も。」
七恵はもう一歩近づいて、そっと彼の方へと手を伸ばした。将人はその手を掴み、彼女を引き寄せて、その胸に抱いた。
七恵もそろそろと彼の背に手をまわす。
夜の雨降る公園には二人にしかいない。次第に強くなる雨が、より二人を世界から孤立させていく。
七恵は自身を抱く冷たい腕を感じながら、視界の端に移る、血の色の花を見た。
フェンスの端から一輪だけ、はぐれた様に咲く真っ赤な彼岸花は、七恵の心に侵食していく毒のように思えた。