私が救った女

前話「父の弟子

「ははは……! ついに、ついに完成したぞ!」


 ノイエンは机の上にいる一匹のネズミを見つめながら、師の高笑いを聞いていた。


 まさか、本当に実現できるなんて。


 自身が見たはずの光景が、未だに信じられない。

 ノイエンが見下ろすネズミは、血溜まりの上できょとんとしている。しかしその身体には、傷一つ存在しない。ただ血の上にいるだけに見える。

 しかし、ノイエンはつい先程、そのネズミがズタズタに惨殺される様を見ていた。

 その傷は見間違いなどではなく、ネズミの足元に広がる血はその時に流れたものだ。

 しかし今はそのような傷など、はじめから無かったかのように存在しない。

 ゆえに師の研究が完成したことは、誰の目にも明らかだった。

 師の研究――不老不死の研究だ。


「おめでとうございます」


 ノイエンは淡々と祝いの言葉を述べる。

 すっかり有頂天になっている師は鷹揚に答えるが、ノイエンはそれも冷ややかに見つめた。


「さあ、我が弟子よ。娘を連れて参れ」

「……シャティア様をですか」


 聞き返してくる弟子に苛立ちを覚えたのか、彼の眉間にうっすら皺が寄る。


「以外におるか?」

「いえ……。ですが、何故」


 質問を重ねるノイエンに対し、師の不機嫌は一層高まった。


「知れたことを……。これまでの実験はこの儂が不老不死となるために行ってきたこと。ネズミ一匹に対し、ネズミ一匹の命が必要だった。ならば……わかるだろう?」


 ノイエンは息をのむ。

 ネズミを不老不死とするためには、複雑な術式といくつかの媒介が必要だった。

 他のネズミの命。

 それも必要なものの一つだった。

 ネズミにはネズミを。

 ならば人間には、当然人間が必要だろう。

 ノイエンは魔術素養の高さを買われ、術をかける担当にさせられていたため、その役目を負わされることはない。

 今から人間に術をかけようというところで、わざわざシャティアをここへと呼ぶ理由など一つしかない。


「……っ」


 シャティアは選ばれたのだ。憐れな生贄に。


「彼女に魔術を学ばせなかったのは、そのためですか」

「ああ、下手に理解をされて抵抗されてもかなわん。何も知らず、何も分からんままでいる方があれも幸せだろう」


 あまりに身勝手な言い分に怒りが込み上げる。


 こんな男のために、シャティアを殺させてなどやるものか……!


 激情を胸に押し留め、しかしその勢いのまま気付けばノイエンは口を開いていた。


「わざわざ呼ぶこともないでしょう。こんな……血が飛び散る部屋に呼ばれれば、何か良からぬ事をされると身構えてしまうかもしれません」

「ならばどうするというのだ?」

「このままやりましょう。心配なさらずとも、彼女はこの屋敷にいるのです。そう離れた場所ではない。ここからでも出来ます。僕なら」

「……お前の言うことも一理あるな。よし、やれ」

「はい」


 ノイエンは呪文を唱えはじめる。

 ネズミに唱えたものと、ほぼ同じ。だが、ほんの少しだけ変える。

 今後への期待で頭を占領された師は気付かない。もっとも、ここ数年はノイエンに全てを任せきりだった男だ。しっかり聞いていたところで、分からなかっただろうが。


「ぐっ……」


 男が胸を抑えてよろめく。

 不老不死に近付いていく過程だと信じて疑わない愚かな男は、辛そうにしつつも歯を食いしばって耐えていた。


「あぐっ、から、身体が……熱い……!」


 呪文が後半に入ると、呻き声を抑えられなくなったようだ。

 ノイエンは最後の一言を残して、詠唱を中断する。


「――痛いですか? 苦しい? シャティアに手を出そうとしなければ、そうはならなかったでしょうね、愚かな師よ」


 ノイエンはニィッと口角を吊り上げる。

 それを見て、男は目を見開いた。


「きさっ……! だま、したなっ!!」

「えぇ。では、さようなら」


 ノイエンは最後の――最期の一言を唱える。

 男は声を上げる間もなく、パンッと弾けるように姿を消し、その残り香は血飛沫となって、ノイエンを真っ赤に染め上げた。


「は、はは…ははははは……!」


 込み上げる乾いた笑いが、一人きりになった暗い地下室に木霊する。


「生贄の名と、対象者の名を入れ替えたことにも気付かないなんて……! なんて、なんて愚かなんだ! ハハハハハ!!」


 本来はシャティアの命を媒介にあの男に術をかける手筈だった。

 しかしノイエンはそれを逆にした。

 あの男の命を媒介に、シャティアに術をかけたのだ。


「ハハハ…………」


 ノイエンはひとしきり笑った後、項垂れるように真っ赤になった己の手の平を見た。


「なんて……、愚かな……」


 ノイエンはその手をぎゅっと握り締め、足を踏み出す。

 もうこんな所に、一秒だっていたくなかった。

次話「父を殺した男

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