父を殺した男

前話「私が救った女

 穏やかな春の日だった。

 部屋で読書をしていたシャティアは、窓を通り白いカーテンを揺らすやさしい風に目を細める。


「ノイエン達は何をしているのかしら……」


 今日の朝方。呼ばれるまで決して来るな、と父は言い残し、ノイエンと共に地下の研究室へと籠っている。

 そこは、今まで一度も足を踏み入れたことのない父の城だ。


「『呼ばれるまで』……」


 その言葉は裏を返せば、父に呼ばれれば入っても良い、ということだ。

 これまで頑として自身の研究に娘を関わらせようとしなかった父がついに、自分を呼んでくれるかもしれない。

 シャティアは知らず知らずに浮き足立っていた。

 いつ呼んでくれるのだろう。

 やはりノイエンが呼びに来るのだろうか。

 部屋の中でそわそわしながら、シャティアは呼び声がかかるその瞬間を待ち望んでいた。


「……っ、――?」


 立ち上がったシャティアが、うろうろと部屋を右往左往している時だった。

 一瞬、ぐらりと視界が揺れて額を押さえる。


「…………急に、なに?」


 眩暈だろうか。

 しかし、そう思った時にはもうなんともない。


「ただの……疲れ、かしら」


 そう結論付けたシャティアだが、何か胸騒ぎのようなものを覚える。

 その時、一際強い風が部屋を通り抜けていった。

 シャティアは顔を跳ね上げる。


「血……」


 その風はたしかに、血の匂いがした。

 シャティアは部屋を飛び出す。

 どこから、というのは分からない。ただ、何故かノイエンに何かあったと確信があった。

 シャティアは一心に、父の研究室の方へ走る。


「……っ」


 そちらに近付けば近付くほどに、血臭が濃くなっていった。

 そして――


「――ノイエン!!」


 名を叫べば、そこに立ち尽くす彼はゆっくりとこちらを向いた。

 不自然なほど、穏やかな顔をしている。


 しかし、彼の全身は血で真っ赤に染まっていた。


 シャティアは怖くなって、次第に足の歩みが遅くなる。

 そして、ノイエンから大きく離れた位置で、それは止まった。


「怪我、したの……?」

「違うよ」


 その返答に少しほっとする。

 だが、胸騒ぎが収まらない。シャティアはきょろりと周りを見渡した。


「……お父様は?」

「死んだ」


 あまりに淡々とした声に、シャティアの理解は追い付かない。


「…………え?」


 自身の発した間抜けな声に、ノイエンは物分かりの悪い生徒へ向けるような笑顔を見せた。


「だから、死んだんだ。……ああ、正確には殺した、かな」

「な、んで……」

「だって、君を殺そうとしたから」

「――っ」


 罪悪感の欠片も感じさせぬ笑顔に、シャティアはゾッとして、身体が反射的に逃げようとする。

 しかし、もつれる足では上手くいかず、側の壁にぶつかって転んだ。

 運の悪いことに、そこの窓辺には花瓶が置いてある。その花瓶が酷い音を立てて落ちてゆき、その破片の上にシャティアは手をついてしまった。


「いたっ――」


 深く切ってしまったのだろう。血が流れ落ちてゆく。

 いつもなら「大丈夫?」と心配してくれるノイエンの声は何故か無く、代わりに彼の影がそこに落ちた。

 すぐ近くに立つ彼はこちらを見下ろしている。


「ノイ、エン……」

「大丈夫、すぐ治るよ。だって、君は不老不死となったんだから」


 その言葉を肯定するように、シャティアの手にはもう、どこにも傷痕など存在しなかった。

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