031:壁
「………。」
暗い部屋で、頬を涙で濡らした女が眠っている。
ハミルは頬が切れて痛むことに今更ながら気が付き、滲んだ血を乱暴に拭った。
今の今まで自身の腕の中で咲き乱れていた女の顔を一瞥する。
頭が痛む。
彼女が眠っていると、ひどく安堵する。
彼女が望む。彼女が望んでいるから、その身体を抱いた。何度も。
でも、背徳感で頭が痛む。触れてはならない花に触れる、背徳で。
眠っていれば、抱かずにすむ。触れずにすむ。
その花を手折らずにすむ―――
昔はこの姫に御仕えできるだけで、幸せだった。
今は、あの頃よりも、近くて、近くて、どうしようもなく、遠いのだ。
ハミルは両手で顔を覆い、空を仰いだ。零れる溜息も、このぐちゃぐちゃの感情も、全て握りつぶすように、手をぎゅっと握りこんだ。
そして、立ち上がる。
踏み出した足で、花瓶の破片が割れた。
振り返ろうかと思って、やめた。
私達の間には、越えてはならないものがある。たとえ、彼女がそう、望んでも。
リィナは震える身体を宥めるように、自身の身体をぎゅっと抱きしめていた。
早く、ここから、立ち去らなくちゃ。
そうは思うのに、足は動かない。
どのくらい時間が経っているのだろう。誰かがリィナが戻らぬのに気が付いて探しに来るかもしれない。
早く、早く………。
だが、やはり身体は言うことを聞いてくれない。
そして。
カチャリ
そう、音をたてて、目の前の扉が開く。
ああ……。
男と目が合う。
「リィナ、殿………?」
私は、どうなるのだろう。