025:心
「ひ……?」
今、「姫さま」と叫んだのは誰だっただろう?
姫はただ青い顔でおろおろとし、侍女は傷の痛みに顔をしかめながら蹲っている。
僕の耳が正しくその音を捕らえていたのならば、たしかこの姫の格好をしている女性から聞こえたような。
内心の動揺は抑えられない。だが、身体はそれとは裏腹に、そんな二人の様子を目の端に捕らえながら、護身用の剣を引き抜いてその場から去ろうとしていた蛇の頭を落とした。
その蛇を見て、少しほっとする。
この蛇は毒の無い種だ。よかった……。
それだけ確かめると、小剣についた血を払い落とし、鞘にしまう。二人の方に駆け寄ると、姫の方が怪我をしたのではないかというくらいに青い顔で、侍女の方に、姫さま、姫さまと呼びかけている。
………聞き間違いではなかったのか。
僕は何とか溜息を押し殺して、姫の肩に手を置いた。
「レミア姫。」
姫は、はっとしたように顔を上げ、泣きそうな顔で僕を見上げた。何とか落ち着かせようと彼女に笑顔を向けつつ、少し離れた所にいた付添いの者達を見た。ようやく異変に気が付いたらしく、わらわらと駆け寄ってきはじめていた。
「先程の蛇、毒蛇ではなかったので御心配なく。」
それを聞いた姫は、安堵で力が抜けたのか、地面にぺたんと座り込んでしまった。
「そう、ですか……。」
よかった、と小さく呟く姫を横目に、噛まれた侍女の方へと視線を向けた。
溢れ出した血は、白い手に酷く映える赤い筋と、地面に黒いシミをつくっていたが、もうそれは止まりかけていた。失血死の心配はなさそうだった。
僕は、もう一度姫の方へ視線を戻し、まだ離れた位置にいる者達に聞こえないように、こそりと声をかける。
「彼女が回復しましたら御聞きしたい事があります、が、今は聞きませんので、今まで通りに行動してください。……いいですね。レミア姫。」
少しは頭が冷えたらしく、最後の念押しには、いささか落ち着いた様子で彼女は頷きを返した。
僕は倒れたままの侍女を抱き上げる。意識は失っているらしかったが、呼吸はしている。
早く医者に見せなければ。
命の危険はないだろうが、跡が残ってはかわいそうだ。
立ち上がった僕に追従するように、姫も立ち上がる。そして彼女は浮かんでいた涙を拭うと、頭を下げた。
「レミア殿下を、宜しく御願い致します。アルティラート殿下。」
それに僕は、頷きだけ返すと自分の乗ってきた馬の元へと急いだ。
先ほどまでの会話は、何とか周りには聞こえていなかったらしいが、何とも面倒な事になったと嘆息して、僕は馬の腹に蹴りを入れた。
思いがけず判明した、本物の妻の心音をききながら。