デンドロビウムの純情

五章誘拐

 ガタゴトと音を立てて地面が揺れる。道が悪いのか、御者の操縦が下手なのか、時折身体が跳ね上がるほど揺れた。

「ん………」

 あまりの寝心地の悪さに、アイリスは身動ぎし、うっすらと瞼を押し上げた。寝起きでぼんやりする目をこしこしと擦る。

「どこ、ここ……」

 そう呟いた自分の声で、アイリスははっと我に返った。

 私、一体―――

 気を失う前の記憶が蘇る。

 フィリアとの待ち合わせ場所へ行った事。そこに見知らぬ男達がいた事。ぐったりとしたフィリアが男達に抱えられていた事。そして、自分も気絶させられた事。

 思い出すごとに、アイリスの顔色は青褪めてゆく。

 じゃあ、ここは……

 アイリスは辺りを見渡す。

 古そうな床板に、上には幌。ガタガタと揺れる事からも察しはついていたが、やはり馬車、荷馬車のようだ。アイリスは荷物らしき木箱の隙間に放り込まれたのか、身動きがとり辛い。幌で陽光が遮られており、辺りは薄暗いが、そこに映る日の色は少々赤みを帯びていて、夕方近いようだった。

 男達の姿は無い。ここは荷を積む場所で、他に乗る所があるのだろう。もしかすると、商隊などを装うために、何台かに分かれているのかもしれない。

 アイリスはもう少し読み取れる事はないだろうかと、ぐるりと辺りを見渡す。そして、ちょうど背後に視線を移した時。

「!」

 薄暗い空間で、一際目立つ淡い金髪に思わず声を上げそうになる。だが、すんでのところで、誰がどこにいるか分からないと思いいたり、アイリスは自身の口を慌てて塞いだ。

 そして、そろそろと方向転換をして、そこに倒れる女、フィリアに近寄った。幸い、手も足も拘束されていなかったアイリスは、比較的自由に動く事が出来た。

「………フィリア?」

 フィリアもアイリスと同じように、拘束などはされていないようだった。アイリスはそんな彼女の耳元に口を寄せ、そろっとその名を囁く。

 だが、応答がない。

「―――っ」

 一瞬浮かんだ嫌な予感に、アイリスはぞっとして、フィリアの口元に手をかざす。

 微か、ではあったが、フィリアは呼吸していた。

 アイリスはそれにほっと胸を撫で下ろして、今度は彼女の身体を軽く揺する。

「フィリア。起きて、フィリア。」

 何度か揺さぶると、ようやくフィリアが、ん、と声を漏らす。

「フィリア。」

「………あい、りす…さま?」

 フィリアが少し掠れた声で呟く。うっすらと開いたフィリアの目が、アイリスを映す。

「フィリア、起きられる?」

 アイリスはフィリアをころんと仰向けにして、彼女の顔を覗き込んだ。暫くぼんやりとアイリスを見上げていたフィリアだったが、次第に頭が回りだしたのか、ぱっと目を見開いた。

「ア、アイリス様?!」

「フィリア! しーっ!」

 がばっと身を起こしたフィリアに、アイリスは人差し指を立てて黙らせる。フィリアもあわわと自身の口を覆った。

「す、すみません……。あの、それで、ここは一体……」

 フィリアはきょろきょろと辺りを見渡す。尋ねられても、アイリスにも詳しい事は分からぬので、アイリスは肩を竦めた。

「さぁ……。あなたこそ、心当たりは?」

 何の気なくフィリアに尋ね返したアイリスだったが、フィリアはその言葉にサッと顔を青褪めさせる。

「わ、私…、また、アイリス様を巻き込んで……」

 フィリアはしゅんと項垂れる。ここ数日の出来事から考えても、狙いはフィリアで間違いないだろう。そのため、アイリスがあの場に居あわせなければ、きっとアイリスまでこんな所にいるはずはなかったはずだ。

 だが、アイリスはぷるぷると首を振った。

「いいの、仕方ないし。それに私も迂闊だったから……」

 思えば、フィリアと初めて会った日の晩、襲撃者と思しき人物と、アイリスは庭で遭遇していた。それをもう少し早く思い出していれば、湖で襲われてすぐの今この時に庭へ出ようなどとは、さすがのアイリスも思えなかっただろう。それに、浮かれて周囲の状況判断を怠ったのもアイリス自身だ。

 すぐに殺されなかっただけ、御の字だろう。

 その時、アイリスははたと思い返す。

 どうして、ライルがいなかったのだろう。

 だが、少し考えて、これも自分が悪かったのかも、と思いなおす。

 ユーフィスと別れてからフィリアと会うまで、通常ならば、余裕持って到着できたはずだった。だが、実際アイリスがあの場所に着いたのは、予定時刻の直前。

 要するに、アイリスは途中何度か道を間違えていた。普段ならその前にそれとなく、ライルが忠言するのだが。それが無かったということは、大分前にはぐれていたのだろう。

「………。」

 多分、知らず知らずにライルを撒いてしまったんだわ……。

 今までに、何度か前科があるアイリスだった。

 アイリスは仕方ないと肩を竦める。ここにいるのは、非力な女二人。迂闊に動かない方がいいかもしれない、とアイリスは結論付けた。そう決意してアイリスは一つ頷くと、フィリアに向き直った。

「とりあえず、状況が整理できるまでは、大人しくしていましょう。」

 フィリアもアイリスの提案に大きく頷いた。




 日が次第に傾いてゆく。アイリス達から外の様子を窺い知ることは難しかったが、それでも外の陽の色で、夜が近付きつつあることは分かった。

 勿論、アイリス達もただただ事態が変わるのを待っていたわけではない。何とか外の様子を知ることが出来ないかと、試してはみたものの、どうにも出来なかった。

 荷馬車の幌からこっそり顔を覗かせ、辺りを窺ってはみても、山道にいるのか、見えるのは土の道と木ばかり。馬車から飛び降りる事も考えないではなかったが、アイリスもフィリアも御令嬢らしく、そういったことは得意ではない。降りる、というよりは、落ちる、といった形になるだろう事は容易く想像できた。何より、後続に同じような荷馬車があり、それに轢かれてしまう事だろう。

 そして、どこへ向かっているのかもよく分からない。だが、王都を離れようとしているらしい事は嫌でも分かった。フィリアは不安そうに顔を歪めて、時折アイリスの服を縋るように握る。

 アイリスはそんなフィリアを慰めつつも、不思議と不安は無かった。

 だから、フィリアを勇気づけるように微笑む。

「大丈夫。今生きてるんだから、すぐにはどうもされないわ。だから、大丈夫。」

 アイリスの口から幾度となく発せられる「大丈夫」という言葉に、フィリアは、はい、と小さく答えはするが、なおも不安げだった。アイリスとて不安が一つもないとは言わないが、それでも心細く思わないのは、確信があったからだ。

 きっと、すぐにライルが助けてくれる。

 そう思うと、心に湧き上がる不安が、吹き飛んでいくのだった。

 その時、ガタン、と音がして、馬車が動きを止める。

「アイリス様……」

 フィリアの、アイリスの服を掴む手に力がこもり、小刻みに揺れる。アイリスは彼女を宥めるようにその肩を抱いた。

 辺りは静かだった。

 一瞬、助けが来たのかと期待したが、どうやら違うらしい。

 夜に備え野営でもするのか、それとも、アイリス達が目を覚ました事を知られたのか。

 アイリスの手にも自然と力がこもる。

「―――っ」

 急に視界が明るくなる。少しして目が慣れると、誰かが二人のいる荷馬車の中を覗いたのだと分かった。逆光で見づらいが、やはりその人物は、アイリスが意識を失う直前に見た男の内の一人だった。

「お目覚めか。」

 坦々とした声に、身体が竦んだ。だがアイリスは何とか気持ちを奮い立たせ、フィリアを守るように抱きしめると、その男を睨んだ。

「あなたは誰? 私達を、どうするつもりなの。」

「さてな。俺達は頼まれただけだ。」

 男は肩を竦め、そう言った。金で雇われただけということだろうか。

 アイリス達を捕らえた男達の中では、比較的こざっぱりした印象のその男からは、一見して恐ろしさはない。だが、その瞳は冷たく、アイリスはぞっと身震いする。

 だが、ここで怯んではいられない。何とか少しでも情報を引き出そうと、アイリスは気丈にも口を開いた。

「…どこに連れて行くつもりなの?」

 男は肩を竦める。答える気はないらしかった。だが、アイリスもめげずに質問を続ける。

「依頼したのは誰。」

「さあ。どこかの貴族だとは思うが、仲介がいるから詳しくは知らんよ。だが―――」

 男がチラリとフィリアの方へと視線を滑らせる。アイリスの腕の中で、フィリアがビクッと震えた。

 男はそれ以上何も言わなかったが、彼らの目的が、フィリアであるらしいことはアイリスにも分かった。おそらくは、一連の襲撃と関連があるのだろうと推測する。

 アイリスは、本当に自分はただ巻き込まれただけのようだと、内心溜息を吐く。

 しかし、そうなると、とアイリスは思考を巡らせる。

 対象であるフィリアは、現時点まで生かされている事から考えて、暫くは命の危険もなさそうにアイリスには思えた。だが、フィリアが無事だからといって、自身まで安全が保障されている、とは言い難い。

 フィリアが引き渡される時、口封じに消されかねない。

 アイリスは浮かんだ想像に、ぞっとした。

 死にたくないのは勿論だが、アヴァランシアという他国で死ぬのは、もっとまずい。リヴィリアの王女が他国で死ぬとなると、下手をすると国際問題になりかねない。

 これは何としても、自分の安全も確保せねば、とアイリスは再度口を開いた。

「私までここにいるのは、何故?」

「あの場で騒がれては面倒だろう。それに、お前達は仲が良いんだろう? 連れて行った方が、そっちの女が滅多な事をしないだろうと思ってな。」

 男の返答に、思わずアイリスもなるほど、と思ってしまう。か弱い風情のフィリア一人を連れていき、世を儚んで自殺でもされたら堪らんということだろう。仲が良ければ、それを片方が止めるだろうと。

 勝手な話だ。アイリスは思わず渋面をつくる。

「それで? 私を巻き込んで、もっと面倒なことになるとは思わなかったの?」

「面倒なこと?」

「国が動くわよ。」

 男は言われた事があまりに意外だったのか、きょとんと目を瞬かせる。

「国? どうして?」

 嘲るように男は笑った。

 今を時めく伯爵令嬢であっても、正式な婚約者にすらまだなっていない現状では、フィリアの為には一国が動く事は無い。それなのに、なぜお前が、と男の顔には書かれている。

「勘違いしないで。動くのはアヴァランシアじゃないわ。―――リヴィリアよ。」

「………お前が今、この国に訪問しているリヴィリアの第一王女だとでも?」

 さすがにリヴィリアの第一王女が、アヴァランシアを訪問中、というのは知っていたらしい。王宮内にまで忍び込む必要から、その辺りの情報は大方得ていたのだろう。

 その事を知っているのなら話は早い。アイリスが、その通りだと大きく頷く。これを言っておけば、そうそう無体は働かれないのでは、とアイリスは思っていた。

 もっとも、誘拐を働くような人間にどこまでこの脅しが有効なのかは、悩ましい問題なのだが。

 しかし、男はアイリスの予想外の反応を見せた。

 それを見て、男はぶはっと吹出した。

 まさか笑われると思っていなかったアイリスは、ぽかんと相手を見上げる。

「そんな…見え透いた嘘、言うなよ!」

 男はまだくすくすと笑っている。

「う、嘘じゃ――― !」

「見たところ、その女の取り巻きの下級貴族といったところだろう? 一貴族を庇う王女がいるかよ。」

「………。」

 言われてみれば、そうだ。

 アイリスは未だフィリアを抱きしめていた己を見下ろし、押し黙った。嘘と断じられ、憤りを覚えたアイリスだったが、そう考えると、この状況では説得力がなかった。

 アイリスの冗談、ではないのだが、それに少々気をよくしたらしい男は、へらと手を振って言った。

「そんな事言わんでも、暫くはどうもしない。―――まあ、大人しくしていれば、だが。」

 そう言うだけ言って、男は再び姿を消した。

「……………。」

 ひとまず、安全は確保されたと思っていいのだろう。

 だが、何というか、釈然としないアイリスだった。




 辺りが随分と暗くなってきていた。

 あれから馬車は再び動き始め、もうすぐ夜になろうかという時間だが、それが止まる事はない。

 アイリスはフィリアと二人、どうすべきか頭を悩ませていた。自力で逃げるのはやはり難しく、だからといって辺りに人の気配もない。外の暗さも相まって、本当に助けは来るのかと、フィリアはじりじり追い詰められている様だった。

 身体を縮こまらせ震えるフィリアは、アイリスの目から見ても可哀想になる程に憔悴を見せている。

「フィリア……」

 大丈夫か、と目で問えば、一応は小さく頷いて応えるものの、その表情は決して、大丈夫、には見えない。しかしどうすることもできず、アイリスはフィリアの背を宥めるように撫でた。

 もっと明るいうちに、逃げた方が良かったのか、とも考えたが、きっとすぐ捕まってしまっただろうと、アイリスは首を振ってその考えを打ち消す。

 いずれにせよ、もう幾許しないうちに夜になる今、逃げ出せたところで、遭難するのが落ちだ。

 馬車は男が顔を見せたあの時を除いて、止まる事はなかった。ならおそらくは、もう王都からもかなりの距離、離れていることだろう。だがそれだけ走っていても、大きな街にあるような関所のような所を通った形跡がないのが、アイリスには不思議だった。人のいない所を縫って進んでいるのかもしれない。そう思うと、やはりアイリスは自力では逃げ出そうという気にはならなかった。

 そうこうしている内に、夜になる。いや、もしかするとまだ日はあるのかも知れなかったが、アイリス達からは分からない。ただ、荷馬車の中が一層暗く沈んで、少し先も見えなくなった。

 辺りが暗闇に支配されると、さすがのアイリスも恐怖を覚える。フィリアはより一層怖い思いをしているのではないかと、彼女の方にアイリスは目をやった。

 だが意外な事に、フィリアの様子は先程と変わっては見えなかった。

 アイリスがその様子を訝しみ、首を傾げる。だが、フィリアにどうしたと尋ねる前に、再び馬車が動きを止めた。

 周りが少しガヤガヤと騒がしくなる。

 今度こそ夜に備え、野営でもするのかもしれない。止まった隙にアイリス達が逃げ出すとは考えないのか、と少し思うアイリスだが、逃げようとしたところで、すぐに押さえる自身があるのだろうと溜息を吐いた。

 だが、野営をするということは、目的地まで相応の距離があるに違いない。ならば、そのうちに追手が辿り着くだろう。アイリスはそう思って、少し安堵した。

 そうなれば、ここで下手に逃げて道に迷うよりは、大人しく助けを待つ方がいいだろう。アイリスは腰を据えて、悠然と待ちの体勢に入る。

 だが、状況を楽観視していたアイリスは、フィリアが追い詰められつつある事に気が付きながらも、未だ彼女が冷静な判断力を失ってはいないと思っていた。

 だからその時、突然すくっと立ち上がったフィリアを、アイリスはただぼんやりと見上げるだけだった。

「フィリア?」

 立ち上がったきりのフィリアに、アイリスは首を傾げた。

 だが、フィリアは何も言わない。

 暗い顔で俯いているフィリアに、ようやく異変を感じたアイリスは、そろっと立ち上がって、フィリアの顔を覗き込んだ。

「どう、したの?」

 そこにあったフィリアの表情に、アイリスは少し怯む。

 フィリアは、酷く虚ろな目をしていた。

 アイリスはそんなフィリアを宥めるように笑顔を浮かべたつもりだったが、口元が引き攣っている気がしてならない。

 フィリアは虚ろな表情のまま、ぽつりと言った。

「もう、むりです……!」

 それだけ言うと、フィリアはアイリスの制止を振り切り、外へと飛び出していった。




 外へと逃げ出したフィリアだったが、当然といえば当然の結果で、すぐに拘束されていた。アイリスが慌てて彼女を追い外に出たときには、既にフィリアは男の一人に羽交い絞めにされていた。

「はなしてくださいっ!!」

 泣き叫ぶフィリアは、じたばたとその腕から逃れようともがくが、勿論その程度で拘束が解けるわけもなかった。

 雇い主から危害を加えぬようにとでも言われているのか、男達はフィリアにそれ以上の事をしようとする気配はなかったが、それゆえに扱いかねている様だった。

 男達は、同じく外へと出てきたアイリスに、気が付いていないのか、興味が無いのか、それは分からなかったが、誰も注意を払っていない。

 アイリスは気付かれていないのを良い事に、男達を視認できる、だが飛び出そうと思えばすぐに出来る、ぎりぎりの場所に身を潜めて、様子を窺っていた。

 フィリアは相変わらず混乱していて、何とか掴まれた腕を取り返そうとしている。

「離してください!」

「だから、騒がなければ何もしないと―――」

「いいから、城に戻してください!!」

「おい……」

「こないでっ!」

 取りつく島も無い。

 涙目で叫び続けるフィリアは、おそらく男達の言葉など耳には入っていないのだろう。あまりにフィリアが暴れるため、それを拘束する力も増しているようで、力加減を計る男の顔がどんどん強張っている。

 腕を折らぬように、としてはいるのだろうが、あれではフィリアの白い肌に指の跡がのこってしまうのではないか、とアイリスは眉根を寄せた。

 だが、どうしたものだろう。

 アイリスは一人首を捻っていた。どうにも、まだ助けは来ないようで、まだ暫くは自力で何とかする他ない状況だ。助けが来るまで、五体満足でいなければならないのだが。

 アイリスはチラッとフィリアを取り囲む男達に視線を向ける。

 はじめは恐怖に駆られ興奮したフィリアを、お嬢様はこれだから、という顔で見ていた男達。だが次第に、あまりの暴れように、苛立ちを募らせはじめている。

 再び気絶させられるくらいなら、まだ良いが、本気で殴られでもした日には―――

 粗野な男達の拳を、華奢で可憐なフィリアが受け止められようはずもない。

 だが、アイリスの危惧は現実のものとなる。

 男の一人が、のそりとフィリアの近くまで歩いて来て、止まった。

「ぎゃあぎゃあ、騒いでんじゃねぇよ!!」

「―――っ!!」

 手を振り上げた男に、息を飲んだのはアイリスとフィリア、どちらだったのだろう。

 フィリアが来たる痛みに慄いて、目をぎゅっと瞑った。

 そしてその一瞬後、バシッという頬を打つ音が響いた。




「―――ぃっ!」

 アイリスは地面に倒れ込んで頬を抑えた。痛みで視界がチカチカする。

 だが、泣いてなるものかと歯を食いしばり、顔を上げた。

 周囲の幾人かが、困惑した様子でアイリスを見ていた。

 アイリスがフィリアを庇うかたちで、前に躍り出たからだ。

 フィリアの頬に当たるはずだった男の手は、アイリスの頬を掠め、それに吹き飛ばされて地面に倒れたのだ。

 男も本気でフィリアに危害を加えようとはしていなかったらしく、男は手の甲で虫でも払うようにフィリアを打とうとしていた。そのお蔭で、アイリスも予想していたよりは怪我もないが、それでも痛いものは痛かった。

 フィリアを打ち付けようとしていた男を、アイリスは睨むように見上げる。男もアイリスに邪魔されたのが気に喰わなかったのか、鋭い目でアイリスを見下ろしていた。

 そんな中。

「―――アイリス様?!」

 ようやく辺りの異変に気付いたらしいフィリアが、悲鳴のような声を上げた。

 地面に手をつくアイリス。その頬が腫れている。その事に気付いたのだろう。フィリアは顔を青褪めさせ、さらに叫んだ。

「あ、貴方たち、アイリス様になんてことを……!!」

 その時、アイリスの中で何かがぷつんと切れた。

「―――フィリア。」

 フィリアはさらに何かを言い募ろうとしていた。だがアイリスの静かな声がそれを止める。大きな声ではなかった。だが、凛としたその声には有無を言わせぬ響きがあった。

「フィリア。」

 アイリスがもう一度フィリアの名前を呼んで、フィリアの方を見た。静かな眼差しに、何故かフィリアの方がびくっと身を竦ませる。

 その様を、アイリスは感情の籠らぬ目で見つめる。

 フィリアはとても素直な人だと、アイリスは思った。貴族社会で生きてきたはずなのに、他の同じ年頃の娘と違い、擦れたところもなく、まっすぐ。

 怖いから逃げ出して、帰らせてと泣き叫び、アイリスが傷つけられて憤る。

 そんなまっすぐな所がフィリアの美点だと、アイリスも思う。

 ただしそれは、フィリアがただの少女であった場合の話だ。

「貴女は、いつまでそうしているつもりですか。」

「え……?」

 いつにない大人びた口調で、アイリスはフィリアに問うた。

 意味が分からぬ様子のフィリアに、アイリスはもう一度聞く。

「いつまでそう騒いで、醜態を晒し続けるつもりですか、と聞いています。」

「あ………」

 フィリアが言葉を失う。

 アイリスはそんなフィリアを憐れむように、少し目を伏せる。

 アイリスも何も、抵抗をするな、と言いたいわけではない。騒いで事態が好転するならそれでも良い。だが今の状況ではそれも難しく、ましてや事態を悪化させかねない。

 手ではたかれるくらいなら、可愛いものだ。

「貴女はいずれ、王妃となるのでしょう。」

「………。」

「我々王族が後先考えず行動すれば、どこに、どんな風に、飛び火をするか……私達にすら分からない。」

 アイリスはそこで一旦言葉を切って、溜息を吐いた。アイリス自身、それを常に実行できているかは、少し苦しい所がある。

 だが、それでも言わねば、とアイリスはフィリアを真っ直ぐ見つめる。

 それが出来ねば、彼女はアヴァランシアの王太子妃には相応しくない。

「考え無しの行動、それで被害を被るのは民なのです。―――それを、肝に銘じなさい。」

「………はい。」

 フィリアは、先程までの興奮は消え去ったものの、すっかり萎れてしまっていた。

 抵抗する気力まで奪ってしまったやも、とアイリスも少々思わぬではなかったが、少なくとも、無駄に抵抗して傷付けられるという危険は去ったと思ってよさそうだった。

 フィリアからは危険が去った。だがそれは、アイリスからも危険が去ったというわけではないようだった。

「―――話は終わったか?」

 アイリスは剣呑な男の声に、はっとして顔を上げた。

 フィリアに手を上げた男だ。

 フィリアと話す間に、怒りを鎮めてくれていやしないかと、少し期待していたアイリスだったが、その目論見が外れていた事を知る。いや、むしろ、無視される様な形になったことで、より苛立っている様だった。

 アイリスはとてもまずいような気配を察して、ぐっと息を飲む。

 男はそんなアイリスを鼻で笑うと、口を開いた。

「なあ、手、出しちゃいけねぇのは、そこの女だけだよな。」

 どうやらアイリスに対しての言葉ではないようだったが、男の視線はアイリスからは外れない。そこの女、とフィリアの方を顎でしゃくると、男の後方から返答があった。

「………ああ。」

「なら、こいつは好きにして良いんだよな。」

 返答はなかったが、溜息を肯定と受け取った男は、アイリスににじり寄ってくる。

 アイリスはぞっと身を強ばらせる。男の言うことはよく分からないが、危険だと本能が伝えている。

 アイリスは逃げようとした。

 だが一歩遅く、アイリスは腕を掴まれて地面に引き倒された。

「―――っ!」

 胸を打ち付けて、息が詰まる。アイリスは後ろ手を取られ、身動きがとれなくなった。その上に男が圧し掛かってくる。

 ぞわりと嫌悪感が湧き上る。だが男は意に介した様子はなかった。

「おいおい、そんなのが良いのかよ?」

「女なら同じだろ。」

 後ろから下卑た嗤い声。アイリスの上に膝立ちする男は、後方からの揶揄にふんと鼻をならした。

 何をされるのか分からない。だが、どうしようもない恐怖で身体が竦んで、アイリスは動くことが出来なかった。

 髪を掴まれ、上を向かされる。髪が引っ張られ、頭が痛んだ。

「っ……!」

 男のにやついた顔が近付く。

 あまりの恐怖にアイリスはぎゅっと目を瞑った。

 ―――たすけて、ライル……

 こんな時、浮かぶのはいつも彼の顔だった。




 その顔がそれ以上アイリスに近付くことはなかった。

「―――っ!」

 男が引き攣るように息を飲んだ。

 それが何かに恐怖するようなものだった事に気が付いたアイリスだったが、目を開ける前に髪を掴んでいた手が離れ、突然のそれに対処することも出来ずに、地面に顎をぶつけてしまった。そうしている内に、アイリスの身体はふっと軽くなり、男がどこかへ行った事を知った。

 少々擦りむいてしまったチリチリと痛む顎を、アイリスは擦る。迫っていた危機は脱したようだと悟り、アイリスはようやく詰めていた息を吐いた。

 その時。

「―――――アイリス様!!」

 アイリスはその声に目を見開いた。そして、掴まれていた腕や地面に打ち付けた身体が痛むのも忘れ、ガバッと身を起こした。

 それはアイリスが、今、一番聞きたかった声。

「ラ、イル……!」

 アイリスは声を詰まらせながら、その名前を叫んだ。

 馬を駆っていたライルは、アイリスの姿を認めるとさらに速度を増し、共に助けに来たらしい他の人々を追い抜くと、すぐにアイリスの元まで来る。そして、ひらりと馬から飛び降りると、アイリスの傍に膝をついた。

「遅くなって、申し訳ありません。」

 ライルはアイリスを抱き起して、腫れたアイリスの頬を痛ましげに見る。それに触れようとして伸ばされたライルの手は、その直前でぴたりと止まり、悩ましげに宙を彷徨う。そして彷徨った手は、反対側の頬へ移り、そこに付いていた泥を拭った。

「もっと、早く来れていれば……」

 ライルの視線は、アイリスの腫れた頬から擦りむいた顎、そして掴まれて赤くなった手首へと移っていく。自分を責めるようなライルの苦渋に満ちた顔に、アイリスはふるりと首を振って、そして、ライルの首に腕をまわした。

「いい…、いいの。いま、きてくれただけで……」

 アイリスはぎゅうとライルに抱きつく。そんなアイリスの行動に戸惑ったような反応をしていたライルだったが、そっとその背に手をまわした。

 アイリスはあやすように自身の背を撫でるライルの手に、ようやくほっと息を吐く。そして、今更ながら連れ去られてから今までの恐怖を思い出し震える。

 ライルの腕の中は暖かく、次第にその恐怖も融けて消えてゆく。そして胸に湧いた安堵から、堰を切ったように涙が流れた。

「こわかった……」

「はい。」

「こわかったよぉ……」

「―――はい。……遅くなって、すみませんでした。」

 ぐすぐすと泣きじゃくるアイリスをライルがあやす。

 そして、すんすんと鼻をすするアイリスの涙が収まってくると、ライルは首に巻きついたままのアイリスを抱き上げて、端に移動した。木にもたれさせる様にアイリスを下ろすと、そっとアイリスの腕を擦った。

「アイリス様、少しだけ…ここでお待ちいただけますか。」

 ライルが離れていく。そう思うと心細さで身が切られるような思いがする。

 だからアイリスは、ライルに抱きついた腕を離さぬまま、ぶんぶんと首を振った。ライルが苦笑して、アイリスの背を撫でる。

「お願いですよ。―――そうしないと……、貴女を傷付けた輩に、地獄を見せてやれないでしょう?」

 ライルの底冷えするような声に、アイリスは我に返って顔を上げた。

「え……?」

 何をするつもりなの、と呆気にとられるアイリスに、ライルは微笑む。だが、目の奥が冷え切っているのは、アイリスの気のせいなのだろうか。

「―――冗談です。」

 だから離してください、というライルの再度のお願いに、アイリスは恐る恐る腕を離した。とても、冗談に聞こえないのだが。

「待っていて下さい、すぐに戻ります。」

 そう言ってアイリスに優しく微笑み、ライルは背を向ける。

 そして、ライルと共に来た兵達が、男達と交戦している中に交じっていった。

 時折チラチラと見える彼の姿は、湖に落ちた日にぼやけた視界で見た時と同じように、いや、それ以上に美しかった。


 結局、ライルはどう「地獄を見せた」のか。

 ライルが来る直前までアイリスの上に圧し掛かっていたあの男は、アイリスが気付いた時には見るも無残な状態になっていた上に、ライルを見ると酷く怯えた。

 しかし、何をしたのかは、アイリスから見ることは出来なかった。




 そんな大取物は、意外な程呆気なく終わった。

 賓客であるリヴィリアの王女と、第一王子の婚約者になる予定の者が攫われたという大事件だからだろう。精鋭ばかりが集められていた為、まさに、赤子の手を捻るよう、だった。

 フィリアも涙の痕こそ痛々しいものだったが、それ以外は大きな怪我もなく、むしろ怪我の度合いが酷いのはアイリスの方だった。

 男達全員が、地面に倒れ伏して意識が無いか、縄で縛りあげられた状態になった後、ライルは約束通りアイリスの元へと戻ってきた。

「ライル。」

「貴女は無茶をしますね。」

 静かに戻ってきたライルに、アイリスがへらりと笑うと、ライルは改めていたるところ傷だらけのアイリスに苦笑を漏らした。

 その時一足遅れて、馬車が到着する。アイリスが普段見る物に比べると、些か簡素ではあったが、この場所には不釣り合いな豪華さだ。

 ライルはそれをチラリと一瞥するが、すぐにアイリスへと視線を戻した。

「ライル、あれ……」

 再びアイリスの傍らに膝をついたライルに、アイリスが正体を聞こうとする。だが、ライルが答える前に、馬車の扉が開いた。

「あ……」

 そこから現れた人物を、アイリスは意外なような、一方で納得したような心持ちで見る。

 ユーフィスだった。

 この場所に馬車で乗り付けてくるあたりが、彼の身分を思えばらしくはあったが、アイリスはてっきり城で待っているものと思っていたからだ。

 ユーフィスは地面に降りると、辺りをきょろりと見渡す。そして、アイリスからは少し離れた場所にいた婚約者を見つけると、そちらへと歩いていく。

 フィリアはユーフィスの出現に、その時漸く気が付いたらしく、慌てて立ち上がろうとしたところを、ユーフィス自身に止められていた。

 アイリスのいる場所からは、二人が何を話しているのかは聞こえない。だが、フィリアは再び、だが今度は嬉しそうに泣いていて、ユーフィスも微笑んでいる。

 涙を流すフィリアを、ユーフィスがそっと抱き寄せるのが見えた。アイリスからフィリアの姿が見えなくなる。

 感動の再会、という雰囲気なのだろう。二人の周囲には幾人かは涙ぐんでいる者もいるようだった。

 大団円でなによりだ。

 二人の世界にいる彼らにアイリスは肩を竦めたが、意外にも心は晴れやかだった。

 そして、ライルに向き直る。

「さ、ライル。帰りましょう?」

「え、ええ、はい。」

 アイリスが抱き上げて、と手を伸ばすと、ライルはひょいと軽々アイリスを持ち上げた。アイリスはまたライルにぎゅっと抱きつくと目を閉じる。

 ライルの体温、それから規則的な心音にほっとする。

 もう、大丈夫だ。何があっても。

 そんな気がした。

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