デンドロビウムの純情
終章少女の想い
ライルに抱き上げられてから、アイリスは眠ってしまったのか記憶はなかった。
ただ、気が付けば全てが終わっていた。そんな印象だ。
アイリスは巻き込まれた、とはいえ他国の客人のため、詳しい事は知らされなかった。だが、ユーフィスならリヴィリアに悪いようにはしないだろうと、アイリスも多くを聞くことはなかった。
とはいえアイリスも何一つ知らない、というわけではない。
アイリスとフィリアを誘拐したあの男達は、アイリスに男が言っていた通り、金で雇われただけの下っ端だった。そのため大元に辿り着くことは出来なかったらしい。
アイリスとしては、茶会の事を思い出し、いかにも怪しいのがいたではないか、と思うところだが、相手も大貴族。そうそう因縁をつけることは出来ない。ユーフィスいわく、フィリアが正式に婚約者になれば、そうそう滅多な真似も出来なくなるから、安心していいだろう、とのことだ。
いずれにせよ、もう放っておくしかなく、アイリスが首を突っ込めることでもない。これはアヴァランシアの問題だった。
では件のフィリアだが、怪我こそ大したことなかったが、精神的には辛いものがあったのか、暫く臥せっていた。二、三日部屋から出ず、食欲もなかった。そしてアイリスの帰国の日も間近となり、まともに話す機会はもう持てないだろうか、と思い始めた頃に、フィリアの方から訪いがあった。
少々顔が青褪めていたものの、アイリスが予期していたよりは、フィリアは元気そうな様子だった。
アイリスの部屋を訪ねて早々に、フィリアは頭を下げた。それに慌てるアイリスをよそに、フィリアは丁寧な御礼と謝罪を述べた。誘拐時にアイリスがいてくれたから、今ここにいるのだ、と。
そして、何と言って良いやら分からず、アイリスが黙っていると、フィリアは不安げな顔でそろりと頭を上げてこう言ったのだ。
『それでその…、アイリス様には、色々と呆れられてしまったかと、思うのですが……。また、これまでのように、仲良くして頂けると、うれしい、です。』
泣きそうな顔をしたフィリアが言ったのは、そんな言葉だった。
アイリスはそれに、思わず笑ってしまった。そして、笑うアイリスに何か失態をしたかと焦るフィリアを、思わず抱きしめた。
『当たり前でしょ!』
そうして二人は、ようやく互いの無事を喜んだのだった。
その後はいつかの約束通り、だが場所は室内に変えて、お喋りを楽しんだ。
そのような風に、アイリスはアヴァランシアに滞在する残りの日を穏やかに過ごした。
精神的には、だが。
では身体的な面では、というとだが、怪我を殆どしていなかったフィリアに対し、アイリスは酷くこそないが、全身傷だらけだった。
張られた頬、顎の擦り傷に、胸の打ち身、手首の圧迫痕等。他にも服から露出していた所を中心に細かい擦り傷、切り傷は後を絶たず、医師の手当てが終わり、全身包帯だらけで現れたアイリスを見て、ライルは渋面になった。
もっと早く助け出せていれば、とまた己を責めているらしい表情に、アイリスは苦笑して、眉間をピンと弾いてやったのだった。
それから、一刻も早くそれらの傷を治そうと、ライルは頻繁にアイリスの包帯を替えたり、薬を塗ったりと、献身的にアイリスに尽くしていた。その甲斐あってか丸二日もした頃には、殆どの怪我が消えてしまっていた。胸の打ち身と手首の圧迫痕は多少残っていたが、胸は服で殆ど見えず、手首もうっすら赤い程度になっていたため、アイリスは殆ど気にしていなかった。
いや、アイリス自身は、どの傷も死ぬようなものでも、痕に残るようなものでもなかったため、然程気にしていなかった。むしろ、それらを気にしていたのはライルだろう。
特に頬の腫れは、顔という事もあってか、より気にしていた様だった。幸いこちらは、比較的早く治ったのだが、治ってからもライルはずっと気にしていた。
そんなに気にしなくても、とアイリスは思ったのだが、こればかりは言っても仕方がないので、ライルの好きなようにさせることにしたのだった。
そんなこんなで、誘拐事件から五日程。
アイリスは随分久しぶりに感じる、豪奢なドレスを着て、人の溢れる大広間にいた。
第二王子エイヴィスの成人の祝い。
「―――の、はずなんだけどなぁ……。」
アイリスは誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
今日の主役であるはずのエイヴィスより、確実にユーフィスとフィリアの方が目立っている。
それもそのはず。
つい先程、二人の婚約が発表されたからだ。
エイヴィスは二人におめでとうと、笑顔を贈っているが、アイリスには分かる。
彼はちょっぴり拗ねている。
勿論、兄を祝う気持ちに偽りはないのだろうが、それでも、少しだけ。
「………。」
アイリスはそんな彼らに苦笑して、そっとその場を離れようとした。だが、その直前にフィリアに見つかってしまい、来てほしそうな目をされた。捨てられた子犬のような目に、さすがのアイリスも無視できず、人のごった返す中へと足を踏み入れたのだった。
何とか人を押しのけ、フィリア達の元へ辿り着いたものの、殆ど会話らしい事は出来なかった。だが、フィリアに言いそびれていた、婚約おめでとうの言葉だけは、何とか伝える事が出来、アイリスは満足だった。
その時のフィリアの笑顔は、出会ってから今まで、アイリスが見た中で一番嬉しそうな笑顔だった。
後は拗ねているエイヴィスを少しからかって、アイリスはようやく人がひしめく中からの脱出に成功した。人々がお祝いを述べようと、我も我もと詰めかける部屋は、楽しい雰囲気ながらも、少々熱気が籠っていて暑苦しい。
広間から通ずるバルコニーに出て、アイリスは大きく息を吸った。バルコニーの欄干に軽くもたれて、広間の方を見る。
ユーフィスとフィリアが仲睦まじげに寄り添っている。
「………。」
不思議だった。
あんなに二人が寄り添うのを見るのが辛い時もあったのに。
今はただ、微笑ましく、心が温かかった。
二人には幸せになって欲しい。
アイリスは心からそう、思った。
一度広間から抜けてしまうと、アイリスは戻る気にもならず、バルコニーの欄干に身を預け、ぼんやりと庭を眺めていた。
少し離れただけだというのに、喧騒からは遠く、アイリスの周りはとても静かだった。人々が未だ、未来の王太子夫妻を囲んでいるから、アイリスの周囲には殆ど人がいない。
リヴィリアという小国で育ち、こんなにも大勢の人間をそうそう見ないため、一人息をつけるのは、アイリスとしてもありがたかった。
外は月も見えず暗かったが、代わりに明かりがそこかしこにあり、陰鬱さはない。むしろ夜の清々しい空気を引き立てていた。
夜風がアイリスの頬を撫でていく。
アイリスは張られた方の頬が気になって、指でそこを確かめようとした。
だが、その時ふと、反対の頬に付いた泥を拭ったライルの指を思い出した。
「………。」
持ち上げた手が無意識のうちに、その反対の頬へと移る。そして、ライルの指がなぞった場所に、そっと触れた。
ライルの指の感触が思い出される。
「―――。」
それを皮切りに、記憶がどんどんと蘇った。
馬車を降りる時に掴んだ手袋越しの彼の指。
彼の体温の残る上着と、それをかける優しい手。
切れた唇をなぞるガーゼ。
湖で聞いた胸をざわつかせる、ひどく甘い、その声。
そして何より、あのやさしい朝焼け色の瞳―――
「………っ。」
アイリスは頬が赤らむのが自分でも分かった。
ああ、なんで………
アイリスはぎゅっと目を閉じる。
恥ずかしさを何とかしたいが故の行為だったが、視界が閉ざされた分、記憶が鮮明に思い出される。
なんで……
「アイリス様」
なんで、気が付かなかったんだろう。
アイリスはその声に瞑っていた目を開けた。
こんなにも、この声を、この声が自身の名を呼ぶのを、慕わしく想っているのに。
恋をしている。
いや、きっと、ずっと前から、恋をしていたのだ。
自分をずっと優しく見守ってくれていたあの瞳に、恋をしていたのだ。
だから。
「どうしたの、ライル?」
あえていつも通りに。
赤らむ頬を、彼は見逃してくれるだろうか。
くれなくてもいいか。
アイリスはライルのいる方へと振り返って、ふわりと微笑んだ―――