デンドロビウムの純情
四章気持ちの行方
目を覚ますと、夜が明けて間もない、まだ日の昇りきらぬ時間だった。
アイリスは起き上がり、大きく伸びをする。意識を失う前に感じていた、訳の分からぬ熱さも綺麗さっぱり無くなっていて、ただただ清々しい気持ちだった。
そんな気分のまま、アイリスはするりとベッドから降り、裸足のまま部屋を歩いた。窓辺に寄って、窓を大きく開け放つ。
朝の清涼な空気が部屋に入って、とても気持ちが良い。
「あ……」
窓の外、遠い空を、アイリスは見つめる。
日が昇りはじめ、街の屋根が日に照らされ黄金のようにも見える。だが、そのずっとずっと先の遠い空には、まだ夜の残滓があった。
淡い紫色のその空は、とても愛おしく、アイリスの目に映る。
その様にアイリスが目を細めていると、部屋の扉が控えめに叩かれる。どうそ、とアイリスが答えると、外に控えていたのだろうライルが姿を現した。
「おはよ。」
アイリスがにっこり微笑むと、ライルは安堵の表情を浮かべ、お早う御座います、と挨拶を返した。
「私、どのくらい寝てたの?」
「丸一日程です。」
寝ている最中に、何度か朧げながら意識があったことは、アイリスも多少は覚えていた。だから、一日しか経っていなかったのか、というのがアイリスの正直な感想だった。
「もう、御加減はよろしいのですか?」
「うん、すっきり。」
へへとアイリスが笑うと、ライルもつられたように笑った。
「分かりました。念のため、後で医師に見てもらいましょう。」
ライルは心底ほっとしているようで、表情がとても柔らかい。随分心配させてしまったらしいと、アイリスは少し反省した。特に、刺客に襲われていた最中だったため、毒か何かかといらぬ心配までさせてしまったのだろう。
アイリスは窓の縁に手を置いたまま、ライルの様子を窺う。
ライルは、部屋のクローゼットの方へと行き、中から薄手の上着を取り出していた。それを持って、アイリスの傍までやってくる。
「アイリス様。朝はまだ冷えますので、これを。」
そう言って、その上着を着るようにアイリスに促す。促されるままアイリスも、それに袖を通した。そしてアイリスが羽織るのを見届けると、ライルはアイリスの前へと回り込んで、その上着の釦を一つづつ留めていく。
その指が、微かに震えていた。
「ライル」
「……はい。」
最後の釦まで留め終わったライルが、顔を上げる。
少し屈んでいるライルを、アイリスは見下ろす。アイリスより背の高い彼を見下ろすことはあまりなく、少し新鮮だった。アイリスは、そんなライルの頬に手を伸ばして、撫でる。
やはり、うっすらと目の下に隈があった。少し顔色も悪い。もしや一睡もしていないのではなかろうか。
だがアイリスは、ひとまずそれに関するお説教は脇に置いて、その代わりに困ったように笑った。
「心配かけて、ごめんね。」
ライルはアイリスの顔を見上げながら、動かない。
「………」
暫くの沈黙の後、ライルはふっと視線を下げる。そして、ライルの頬に触れたままのアイリスの手を、ライルの手が上から重ねるように触れた。
アイリスの手の甲を、ライルの指が滑っていく。アイリスの手より一回り大きいそれは、ひんやりとしていた。
「貴女が、もう、目を覚まさないのでは、と思った」
小さな声だった。
だが、部屋に二人きりで、今日に限って朝忙しなく鳴く鳥の声もない。そんな静かな空間に、その声はひどく響いた。
「そう……」
何と言えば良いのか分からない。俯いているライルがどんな顔をしているのか、アイリスの方からは、少しも見えない。
ただ、酷く苦しそうな声だった。
だからアイリスは、自然と空いている方の手で、ライルの頭を撫でていた。
「でも、ちゃんと…目を覚ましたでしょう。」
「………そうですね。」
ライルは囁く様に答えて、ぽすんとアイリスに頭を預ける。
アイリスもただ、その頭を撫で続けた。
日が昇りきってからやってきた医者は、アイリスの身体が大方治癒したと判断を下し、今日一日は大人しくしているように、と言いつけて帰って行った。
「アイリス様。」
ベッドの上でする事もなく、ぼんやりしていたアイリスは、その若い女の声にハッと我に返る。そして顔を上げて、その姿を確認した。アイリスはいたたまれないような気になる。
「……フィリア」
そこには、湖の上で別れたきりだったフィリアがいた。
あれほど謝らなければ、と思っていたはずなのに。
アイリスはいざ彼女を目の前にして、何を言えば良いのか、分からなくなってしまっていた。
言いたい事、言わねばならない事は沢山あるのに、どれも口から出てこようとしない。
だが、何か言わなければ。
アイリスがそう決心して、気が付くと俯いてしまっていた顔を上げた。
「あの―――」
だが、その言葉は途中で消えた。
アイリスはわけが分からず呆然とする。
フィリアが、アイリスにぎゅうっと抱きついてきたからだった。
苦しいほどではないが、強い力で抱きすくめられたアイリスは、おずおずとフィリアに声をかける。
「フィ、リア……? あの、どうしたの……?」
混乱しているアイリスをよそに、フィリアの腕の力は一層強まる。
「……フィリア?」
「……私、怒ってるんです!」
無言でアイリスを抱きしめ続けていたフィリアだったが、アイリスの二度目の呼びかけに、ようやく口を開く。
その拗ねたような声に、アイリスはドキリとする。
それは、そうだろう。
アイリスは、湖の上でのフィリアとのやり取りを思い出し、目を伏せる。何の落ち度もないフィリアに酷い八つ当たりをして、彼女が怒っていないはずがない。開口一番、そんなことを言うのだから、もう、謝っても許してはもらえぬのだろうかと、アイリスの心は沈む。
だが、怒っている、という言葉と裏腹に、フィリアがアイリスの背に回した手は、驚くほど優しい。
「怒ってるんですよ……」
フィリアはアイリスの背を撫でる。まるで生きている事を確かめるかのように、身体をぴったりとくっつける。
アイリスの方から、フィリアの表情を確認することは出来ない。だが、些か声が沈んでいる様な、そんな気がした。
「……フィリア、私―――」
「アイリス様。―――どうして、私の代わりに落ちるような真似をしたのですか。」
「………え?」
一瞬、何を言われているのか理解できず、アイリスが間抜けな声で聴き返すと、フィリアはバッと顔を跳ねあげる。その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「知らなかったとはいえ、貴女に私は酷い事をしたのに……。なのに、庇って、どうして……」
フィリアがすんと鼻を鳴らす。
アイリスが湖に落ちる寸前の事だ。アイリスは、完全に無意識ではあったが、飛んできた矢にフィリアが当たってしまわぬよう、彼女を突き飛ばしたのだ。
確かに、庇う、といえば庇うなのかも知れない。だが、フィリアの言わんとしている事をようやく理解したアイリスは、ぎょっとして首を振った。
「ち、違うわ! あれは、私が、あなたに八つ当たりしただけ……。あなたは何も―――」
「いいえ! あれは私の無知故に、貴女を傷付けた結果です。」
フィリアがより強い口調で、アイリスの言葉に反論する。
まさか、フィリアにこんな風に言われるなどとは、予想もしていなかったアイリスは、謝らなければと意気込んだ時の勢いが削がれて、呆気にとられる。もはやどうしたら良いのか、アイリスには分からなくなっていた。
「フィリア……」
「私のせいで、アイリス様にこれ以上何かあったらと思うと、生きた心地がしませんでした。―――本当に、ご無事で良かった。」
そこまで言って、気が抜けたのか、フィリアは再びすんすんと鼻を啜って、滲む涙を擦る。今度はアイリスが、フィリアの背を撫で宥める。
「私こそ、あの時酷い事を言ってしまったわ。……ごめんね。」
フィリアはぶんぶんと首を振った。そしてしゃくり上げながらも、フィリアはようやく笑った。
「私も…、助けていただき、ありがとうございました。」
アイリスは、そう言って笑った際に零れた彼女の涙を、寝間着の服の袖で拭ってやった。
暫くして落ち着いたフィリアは、お見苦しい所を、と照れたように笑った。
「いいの、お相子だわ。それよりも―――」
「落ちた後の件、でしょうか?」
アイリスの聞きたかった事を、フィリアは察したらしく、アイリスはこっくりと頷いた。
湖に落ちた後のアイリスの記憶は、曖昧な部分がかなり多かった。熱で朦朧としていたこともあり、大半の記憶に靄がかかっている。だが、それでも何者かに襲われたような事は覚えていた。正しくは、それに相対するライルを、だが。
「そもそもだけれど、あの後どうなったの?」
「ええ、一緒に飛び込まれた護衛の方――ライルさん、と仰ったでしょうか? あの方が、アイリス様を抱えて森を歩いてらっしゃるところを発見されたのですよ。」
その後、意識のなかったアイリスはすぐに城の方へと運ばれた。一方のライルは、昏倒させた襲撃者達の元へと戻って、事後処理をしたようだった。
次から次へと何なのだろうと、アイリスは憮然とする。
「それで、あれは何者だったの?」
その問いに、フィリアの表情が曇った。
「フィリア?」
「あれは、おそらくは私を狙ったものだろう、と……」
アイリスはその答えに納得をする。元はと言えば、湖の上で矢を射かけられた事に起因するのだから、落ちたのがフィリアの方だと勘違いをされたのかもしれない。遠目からならば、二人は背格好がよく似ている。そして、湖に落ちたフィリアと思われた人物、実際にはアイリスだったわけだが、その人物を襲撃したのだろうという話だった。
襲撃者達に関しては、ライルが交戦してからそれほど時間が経っていなかったのも有り、全員捕まえられはしたのだが、下っ端故か殆ど事情は知らぬらしい。
「それで……、どうしてフィリアが暗い顔をしてるの?」
アイリスは俯き加減で口を引き結ぶフィリアに肩を竦めた。
「だ、って、それは……、アイリス様は、私のせいで湖に落ちたのに、その上―――」
「それは、フィリアのせいじゃないでしょう?」
アイリスは苦笑しつつ、宥めるようにフィリアの背をぽんぽんと叩く。
そもそも、湖に落ちた事自体、フィリアに責任はない。言ってしまえば、アイリスが勝手に足を踏み外しただけにすぎない。フィリアが命を狙われている事に関してもそうで、時期から考えて、ユーフィスとの婚約の関係だろうとアイリスも推測していたが、いずれにせよ、フィリアに責は無い。
だが依然フィリアは暗い顔を続ける。
だからアイリスは、思い切って話題を変えてみることにした。
「ね、フィリア。私が外に出てもいい、って言われたら、お庭でも散歩しに行きましょう?」
「え……?」
突然変わった話題に、フィリアはぽかんとするが、アイリスは構わず続けた。
「湖にお出かけ、って話だったのに、全然楽しめなかったでしょう? だから、仕切り直しで。ね?」
あの時はアイリスの心も、随分と荒んでいた。だが、湖に落ちて頭が冷えでもしたのか、今のアイリスからはそういった恨みがましいような気持ちは、綺麗になくなっていた。今ならきっと、庭で日向ぼっこでもしながら、楽しく会話できるだろう。アイリスはそう思ったのだ。
戸惑ったような様子だったフィリアだったが、アイリスがもう一度、駄目? と小首を傾げると、ふっと口元を緩めようやくフィリアに笑顔が戻る。
「はい、是非!」
フィリアの笑顔に、アイリスもほっとして微笑んだ。
それから暫くは、他愛もない会話を二人は交わした。つい数日前が初対面だったとは思えぬほど気兼ねが無く、その時間は和やかに過ぎていった。
だがあまり長い時間いてはアイリスの身体に障ると、フィリアは残念そうに立ち上がった。
「それでは、失礼いたしますね、アイリス様。」
「ええ、また。」
アイリスはベッドの上から手を振って彼女の後姿を見送る。
フィリアが部屋の扉の傍まで来ると、その扉の傍で待機していたライルがフィリアの為に扉を開ける。フィリアはその扉を潜る前に、もう一度アイリスの方へ振り返り、ぺこりと頭を下げた。
そして、フィリアが一歩踏み出す。
「―――!」
フィリアが何かに躓いたらしく、前へと倒れていく。
だが、彼女が床に激突することはなく、その一瞬後には、傍にいたライルに抱きとめられていた。
二人が何言か言葉を交わす。フィリアは頬を少し赤く染めていた。ライルもそんな彼女に穏やかな顔を見せる。
「………。」
きっとフィリアは、躓いてしまった事が恥ずかしく、照れているのだろう。
彼女に他意は、ない。
ライルだって、それに答えているだけだろう。
それなのに
フィリアはライルと喋り終わると、そのまま廊下へと消えていく。
アイリスは、知らず自分の胸を抑えるように、ぎゅっと胸元で拳を握った。
脳裏にフィリアの赤く染まった頬と、彼女がライルを見上げる様がこびりついて消えない。
「―――」
どうして……?
自身の胸に湧き上がる、もやもやとしたもの。それの正体を、アイリスは掴み切れずに、ただドクドクと嫌な音を立てる心臓を押さえつけた。
次の日、すっかり元気になったアイリスは、フィリアとの約束を果たすべく、ほてほてと廊下を歩いていた。目指すは庭にある四阿。そこで女子二人でお喋りでも、という流れだ。
昨日をずっとベッドの上で過ごさなければならなかったアイリスは、その凝りを解そうと、少し早めに部屋を出て城内を散策していた。
後ろにはいつものようにライルも付き従っているものの、二人は特に会話もなく歩く。静かな所を選んで歩いている、というのもあり、時折鳥の囀りが聞こえる以外は、とても静かだった。
「あ……」
ぼんやりと歩いていたアイリスだったが、小さく声を出して足を止める。その廊下の先にある人物を発見したからだ。
「ユーフィス様………」
少し先にある廊下の角から出てきたユーフィスは、アイリスのいる方向へと足を向ける。傍にいた臣下らしき人物と何事かを話している様だったが、ふと視線を正面に向けたユーフィスが、立ちすくむアイリスに気が付く。
ユーフィスは先程まで喋っていた人物と別れると、そのままアイリスの方へと向かってきた。
「アイリス、もう熱の方はいいのか?」
そう言ってユーフィスはにこやかに微笑む。
「はい、もうすっかり。」
「そう、それはよかった。…怪我の方も?」
そう問われて、そう言えば腕に矢傷を負ったのだったと、アイリスは思い出す。とはいえ、掠り傷であったそれは、アイリスが目を覚ました頃には殆ど痛みもなかった。そのためアイリスは、今の今まで忘れていたのだった。
「大丈夫ですよ。ユーフィス様も、お変わりありませんか?」
ユーフィスもあの場に居合わせていたのだったと、アイリスは尋ねる。もっとも、誰の口からも彼の事は聞かなかった為、何も無かったのだろうと思ってはいたのだが。
案の定、大丈夫、とユーフィスは頷く。
「ところで、アイリス。今からどこへ?」
「フィリア、様と、お庭でお喋りする予定なんです。」
いつものように、フィリア、と呼びかけて、アイリスは慌てて訂正する。彼女の婚約者であるユーフィスに対して不躾ではと思ったからだ。
ユーフィスはそれに気を留めた様子はなかったものの、少し意外そうに軽く目を瞠る。
「彼女と仲良くなったのかい?」
どうしてそんなに驚くのだろうと、アイリスは内心首を傾げつつ、素直に頷く。
「はい、そんなに意外ですか?」
「いや、そういうわけではないが……」
歯切れの悪いユーフィスに、アイリスは一層不思議に思う。
フィリアは明るく朗らかで優しい人だ。彼女を嫌いになる人など、そうはいないだろう。
それこそ、妃の座を狙って争い合うような間柄でもなければ―――
そこまで考えて、アイリスはようやくユーフィスが微妙な表情をしている理由に思い至る。
ああそうか、私にとってフィリアは、いわば恋敵だったから……
アイリスはユーフィスの顔を改めて見上げる。そしてその顔をじっと見つめた。
スッと通る鼻梁に、流れる絹のような銀の髪、女も嫉妬するような肌理の細やかな肌、整った容姿に、均整のとれた身体。勿論、彼は見目だけではない。物腰は柔らかく、知識も豊富で会話は機知に富む。頭も切れて、第一王子らしい風格も備わっている。
素敵で格好いい人。
アイリスはユーフィスの事を、やはり変わらず、そう思った。
だが、何故だろう。
彼への思いは、前と一つも変わらない。素敵で格好いい、故に尊敬出来て、心から慕っている。
そう思える。
思えるのに、何かが以前と違った。
何が違うのか、アイリス自身にも分からない。
「アイリス……?」
不思議そうにユーフィスを見上げるアイリスに、ユーフィスの方が訝しげにアイリスの名前を呼んだ。アイリスはその声にはっとして、ふるふると首を振る。
「何でもないです。―――あ、そろそろ行かなくちゃ。」
遠くで時刻を知らせる鐘の音が聞こえた。まだ余裕はあるが、そろそろ向かわなくては、フィリアを待たせてしまう。アイリスは、ぺこりと頭を下げ、失礼します、とだけ言うと、ユーフィスの隣をすり抜ける。
そして、数歩歩いた所で、また「あっ」と言って、立ち止まった。アイリスがユーフィスの方に振り返ると、ユーフィスはどこか呆けたように、アイリスの方を向いていた。
「ユーフィス様、言っておきたい事がありました!」
「…なんだい?」
アイリスはぱたぱたとユーフィスの方へと戻り、にっこりと微笑んだ。
「フィリア様との御婚約、おめでとうございます。―――フィリアを幸せにしてあげてね。」
「………。」
アイリスは軽く膝を折ってそう言いきると、それじゃあ、と手を振ってその場を後にした。
「おめでとう」というその言葉自体は、以前にもアイリスはユーフィスへ告げた事があった。だが、アイリスは今、本当の意味で、初めてその言葉を口にした。
社交辞令のようなそれではなくて、心から二人を祝福する、そんな気持ちで。
アイリスはユーフィスの方を、もう振り返らなかった。彼がどんな風にその言葉を受け止めるのか興味はあった。だが、それ以上に気恥ずかしくて、アイリスは彼の顔を見ていられなかったからだ。
だから、アイリスの遥か後方で、ユーフィスがどんな表情をしていたのか、アイリスは知らない。
ただ、もう振り返る事すらしなくなったアイリスを、ユーフィスは茫然と見送っていた。
呆気にとられ二の句が告げなかったユーフィスは、同じく呆気にとられていたらしいライルが慌ててアイリスを追いかける足音で我に返る。
二人の後姿を見送りながら、ユーフィスは片手でくしゃりと顔を覆った。
「これは、敵わんな………」
アイリスの後姿にユーフィスは眩しそうに目を眇める。そしてアイリスの姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
アイリスは早足で廊下を抜けてゆく。
不思議と心は軽く、すぐにでもフィリアと会って喋りたいような、そんな気分だった。
会ったら、フィリアにも「おめでとう」と言おう。
アイリスは自然とそんな風に思った。
庭へ降りて、植え込みを曲がり、フィリアと約束した場所までもうすぐの所だ。遠くに四阿の屋根が見えた。
アイリスは逸る気持ちを抑え、歩調を緩める。
改めて、おめでとうなんて言ったら、フィリアはどんな顔をするだろう。驚くだろうか。アイリスはフィリアの反応を想像して、ふと口元を緩める。
自分でも何故、こんなに素直に祝おうという気になったのか、アイリスは不思議だった。つい数日前までユーフィスの婚約決定が、あんなに苦しく悲しかったのに。
前に発した「おめでとう」は、あんなにも苦しかったのに。
相手がフィリアで良かった。今ならそう、心の底から思える。
アイリスはうきうきとフィリアの待っているであろう所へ、歩みを進める。
アイリスは浮き足立っていた。
だから、待ち合わせ場所の四阿の様子がおかしなことに、すぐ側に来るまで気が付かなかった。
「………?」
遠くから見えていた屋根の下。数人の人影が見えた。
「フィリアのお知り合いかしら?」
アイリスはそのまま歩いてゆく。
アイリスは高を括っていた。城の中ならば安全だろう、と。フィリアと初めて会った晩、自分の身に何が起こっていたかも忘れて。
いや、仮に覚えていたとしても、その時のアイリスには慢心があった。
ライルが助けてくれる、と。
だが、アイリスは気付いていなかった。アイリスがこの場所に来るまでの間に、何度か道を間違えた末に、ライルとはぐれてしまっていた事に。
傍にいると思っていた。だから、安心しきっていた。
だから、ほんの近くに来るまで、異変に気が付かなかった。
「フィリ、ア……?」
アイリスはその声に振り返った数人の男達を見て、ようやく足を止めた。
どう見ても、フィリアのお知り合い、という雰囲気ではない。人相が悪く、粗野な風貌。貴族や王宮に仕える使用人達とも思えない。
それに何より、その男の内の一人が小脇に抱えたそれは―――
「フィリアっ!!」
アイリスの側からは、長いスカートくらいしか見えない。だが、見え隠れする淡い金髪は、間違いなく彼女のものだ。
男の一人が舌打ちをする。アイリスはビクッと肩を跳ねさせる。
逃げなきゃ。でも、そうしたらフィリアは……
だが、逃げるにせよ、フィリアを救出するにせよ、竦みきったアイリスの身体は一向に動いてくれない。足がカクカクと震えて、今にも崩れ落ちそうだった。
「どうする、殺すか。」
「―――っ」
アイリスは息を飲んだ。血の気が引いていく。アイリスは非力だ。襲われたら一溜りもないだろう。
だがそれに首を振ったのは、意外な事に別の男だった。
「殺すと何かと面倒だ。二人とも連れていけばいい。……どうせ女一人だ。何も出来はしない。」
どうやらその男がこの中では一番格上の人物らしく、殺すかと聞いた男は、ふんと鼻を鳴らしたが、それに従うことにした様だった。
だが、アイリスにとっては何も事態は変わっていない。その上、アイリスは恐怖で男達の会話など、耳に入ってはいなかった。
男の一人がアイリスに近付いてくる。
「こ、こないで……」
アイリスは震える声で必死に懇願するが、やはり男は鼻で笑っただけだ。
そして、アイリスの鳩尾に衝撃が走る。
「っ―――」
あまりの事に声も出ない。
視界が霞む。
アイリスは地面に倒れ込んだが、最早感覚はなくなっている。
「ラ、イ…ル………」
意識が消えゆく中、アイリスは囁くような声で、彼の名前を呼ぶ。
涙が一筋、アイリスの頬を伝った。