デンドロビウムの純情

三章ずぶ濡れになって

「ん……」

 目蓋を押し上げる。ぼやけた視界がはっきりしてくると、アイリスはどうやら自分は死んだわけではなかったらしいと悟った。

「目が覚めましたか?」

 穏やかな声。頭上から聞こえるその声に、少しほっとしてアイリスはまた目を閉じる。

「ライル……」

 顔を見なくても分かる。アイリスは常に自分の傍に侍るその男が、また助けてくれたことを知った。

「一緒に飛び込んだの?」

「それしか出来なかったんですよ。」

 助けられなくて申し訳ない。そんな気持ちが言葉の端に滲んでいる。だがアイリスは、小さく肩を竦めて首を振った。

 アイリスはあの後、真っ逆さまに湖に落ちた。湖面までは死ぬような高さではないが、落ちた後泳いで岸まで辿り着けなければ同じ事だ。その上アイリスは落ちる間に意識を失っていた。また仮に意識があったところで、水を吸ったドレスを纏ったままでは、おそらくアイリス一人では助かることは不可能だっただろう。

 ライルがいなければ、アイリスは助からなかった。

 けれど、そのまま放っておいてくれたら良かったのに、そんな気持ちが湧き上がってくる。

 死にたかったわけではない。だけれども、ぐちゃぐちゃの感情を抱いたままいるより、このまま何も分からなくなってしまえば、どんなに楽だったか、と少しだけ、アイリスは思ってしまった。

 だが、そんなことをライルに言えるわけもなく。アイリスは結局、違う事を口にした。

「……戻ったら、フィリアに謝らないと。」

 言葉にしてみれば、湖に落ちる直前に見た、フィリアの傷付いた表情が浮かぶ。

 どうして、あんな事言ってしまったのだろう。アイリスは後悔の溜息を吐く。

 あんな言いがかり、その上八つ当たりして、酷い言葉を投げつけて、どんなにフィリアを傷付けてしまったことか。アイリスが傷つくと分かっている事を、わざわざするような人でないことくらい、この短い付き合いの中でも、よくよくアイリスは分かっていた。分かっていたはずだったのに。

「ゆるして、くれるかな……」

 酷い八つ当たりに、フィリアはきっと腹を立てているだろう。もう、会いたくもないと言われてしまうかもしれない。

 そう思うと、無性に寂しい。

「………っ。」

 あの時涸れたのではとさえ思った涙が、ここにきてようやく零れる。その一粒はほろりと目尻を伝い、流れていく。

「アイリス様―――」

 目の前がふっと暗くなる。アイリスが閉じた目を開くと、ライルが身を乗り出すようにして、アイリスの頭上にいる。ライルは、アイリスの零れた涙を、来ていたシャツの袖で、そっと拭う。

「フィリア嬢は、真剣な方の気持ちを、無下にされる方ですか?」

 アイリスの目尻から頬に流れた、涙の筋も丁寧にライルは拭い去っていく。その真剣な目を、アイリスは見つめながら、首を振った。

 フィリアは優しい。だから、理由なく相手をぞんざいな扱いをする事はないだろうとアイリスは思う。

 ライルはアイリスの涙を拭い終わると、ふっと笑った。

「なら、きっと貴女の言葉も聞いて下さるでしょう。」

「………そう、思う?」

「ええ。」

 迷いなく頷くライルを見ていると、本当にそんな気がしてくるから不思議だった。

「そっか……」

 ライルの手が離れる。だが、その気配はいまだ傍にあって、アイリスを不安にさせる事はなかった。

「どのくらいで、帰れる?」

「そう時間はかかりませんよ。」

 そう、と言ってアイリスは目を閉じる。確かに、アイリスが湖に落ちたとき、フィリアやユーフィス、他にも数人の護衛がいたのだから、すぐに探してくれるだろう、アイリスはそう思うと一気に気が抜けてしまった。今は季節も春で、多少濡れた服でいても、凍死することはない。

 そんな安心からだろうか、アイリスは無性に眠たくなってきていた。ライルがいれば、絶対大丈夫だから、余計にかもしれない。

 そんなアイリスの様子に、ライルも目敏く気が付く。

「眠いですか?」

 アイリスはこっくりと頷いて、そろりと目を開けた。

 目の前に、ライルの穏やかな微笑がある。

「………ライル、」

 アイリスは眠気で普段より重く感じる腕を上げて、その指をライルの頬に滑らせた。しっとりと濡れた黒髪がアイリスの指に掛かる。

「?」

 アイリスの常ならぬ行動に、ライルは困惑気味ではあったが、そのまま動かずにいた。

「あなたの紫の目……、少し、ちがうんだね。」

 何と、とは言わなかった。アイリスが比較対象とするような、紫の瞳を持つ人物など一人しかいないから、ライルも言わずとも分かった様だった。

「あなたのは、まるで……、あさのそら、みたい。」

 朝日が昇り始めた時間のような淡い紫。宵闇のようなもう一人の紫とは、同じ紫でありながら、全く印象が違う。

「やさしい、いろ。」

 どこか冷たささえ感じる、あの紫とは全然違う。

 ふふ、とアイリスが笑うと、ライルもつられたように笑う。そしてライルはたアイリスの手をそっと取り地面に降ろすと、寝かしつけるようにアイリスの頭を撫でた。

「暫く寝ていてください。次に起きたときには、きっと全てがよくなってますよ。」

 どこかで聞いた言葉。

 アイリスはそんな懐かしい声に安心して、眠りに落ちた。




 夢を見た。

 懐かしい、懐かしい夢。

 あれは、一体いつの事だっただろう。そう、確か、ライルと出会って間もなくの事。

 アイリスは夢の中で、十年前のその日に戻ってゆく。


 城を出たときには、あんなにいい天気だったのに。

 アイリスは鼻をすんすんと鳴らしながら、少年の首にしがみついていた。

 どうしてこんな目にあわなければならないの?

 アイリスはじくじく痛む足首に顔を顰め、そう思っていた。

 アイリスの育ったリヴィリアは、その国土の大半を森に覆われている。その中には未開の土地も多くあり、あまりに深く入れば危険ではあったが、人の手の入った林は明るく、子供達の遊び場ともなっている。市井の子供達は言わずもがな、であるが、それは貴族の子供達にとっても同様である。

 その中でここ暫く、城の程近くにある洞窟の、その奥まで行って帰ってくる、という度胸試しのようなものが、アイリスと年の近い子供達の間で流行っていた。

 ある日そんな遊びにアイリスも誘われた。とはいっても、度胸試しをする男の子達に付いて行って、その洞窟の前で待っているという程度のものではあったが、アイリスは遊びに行くのを殊更楽しみにしていた。

 だが、その当日になって体調を崩し、結局行くことが出来なかったのだ。

 それが、アイリスは非常に悔しかった。

 だが、一人で行こうとすると父母はじめ、大人達に大反対された。では友人達はというと、アイリスが回復した頃には、もうすっかり飽きてしまったらしく、色よい返事は貰えなかった。

 しかし、それで諦めるアイリスではない。

 アイリスは 数ヶ月前仲良くなった男の子を呼び出すと、彼と一緒に城を抜け出すことにしたのだ。

 アイリスより幾らか年長の少年ではあったが、大人しい性分なのかアイリスに意見するようなこともなく、あっさりとついて来ることを了承した。

 これで一人ではないし、見つかる前に帰れば何の問題もないだろう、そう思ったアイリスは、ついに今日、その計画を実行したのだ。

 はじめは、よかった。

 巡回の兵達に見つからぬように城を抜け出すのは、いたずらをしている時のように楽しかった。森に入れば、アイリスにとっては目新しい物ばかりで、でこぼこして歩き辛い山道も心が踊った。

 だが所詮、アイリスは王女であった。温室育ちのアイリスが、長時間それらの刺激に絶えられるはずもない。その上間の悪い事に、雨までもが降りはじめたのだった。

 だが、城を出た時はあんなに天気が良かったのだ。だから、すぐに止んでしまうだろう。そんな甘い考えのもと、アイリスは山道を突き進んだ。

 だが、雨は止むどころか激しさを増し、そうこうしている内に、アイリスはぬかるんだ道に足を取られた。

「痛っ!」

 べしゃり、と音を立てて転ぶ。激しい雨でぐしゃぐしゃになった地面に、突っ込む形で転んだアイリスは、その時に地面についた手、着ていたワンピース、全てがドロドロに汚れた。そんな我が身を見下ろすと、悲しくなる。だがアイリスは滲む涙を拭って、何とか立とうとした。

 しかし。

 足に激痛が走る。

 声を出すことも出来ず、アイリスはもう一度、地面に尻餅をついた。

「アイリス様……。」

 後ろをついて来ていた少年がアイリスの側に膝をつき、アイリスの足に触れた。

「痛い!」

 アイリスはそう言って騒いだが、彼は落ち着いたままアイリスの靴を脱がせて、腫れた患部を見た。

 赤く腫れ上がった足首に、アイリスはヒッと悲鳴をもらす。

「とりあえず、背に負ぶさってください。……雨をしのげる場所に行きます。」

 彼はそう言いながらアイリスに背を向け、掴まりやすいようにしゃがんだ。

 しかし、雨、どろどろの服と身体、痛む足に苛々としているアイリスは、ぶんぶんと首を振って泣き叫んだ。

「やだ! もう帰る!!」

 早く帰りたい。早く帰って、優しい父と母と兄が待つおうちに帰るのだ。

 アイリスはぼろぼろと涙をこぼしながら、やだ、やだ、と駄々をこねる。

 聞き分けのないアイリスを、彼は根気強く宥めた。何度かの押し問答の末、ようやくアイリスを背に負ぶって少年は歩き出す。

 痛い、痛いと文句を言いながら、泣きべそをかくアイリスに、少年は文句の一つも言うことなかった。ただ、大丈夫、すぐに戻れる、とアイリスを宥めながら、彼は木の窪みのような所に辿り着くと、そこにアイリスを下ろした。そして、着ていた上着を脱いでアイリスにかけると、もう一度、アイリスの痛めた足を見た。

「折れてはいないと思います。…でも、戻ったら医者に診てもらってください。」

 泣き疲れたアイリスは、その頃にはもう力無く頷くだけだった。

 アイリスがそうしている間にも、彼は腰に着けていた小さなポシェットから、丸く平べったい缶を出して開けた。中の緑色のべたべたしたものを指にとって、赤くなった足首に塗った。

「それ、なに?」

「軟膏です。ここでは大した手当は出来ないので…無いよりは、幾分ましでしょう。」

 少年はそれをたっぷり塗ると、彼は着ていたシャツの端を破って、包帯代わりに足首に巻いた。そして、足首を動かさないように靴を履き直させて、そっと手を離した。

「暫く、足に体重をかけないようにしてください。」

 アイリスは肩にかけてもらった少年の上着をぎゅっと掴んで、じっとしていた。

「帰りたいよ……」

 雨のせいなのか、時間のせいなのか、あたりはもう真っ暗だった。心細くて、また涙が出てくる。

 手当を終えた彼がアイリスの隣に腰を下ろした。

 アイリスが疲れでうとうとしはじめている事に気が付いた少年は、アイリスの肩にそっと手を置いて、優しく、宥めるように撫でた。

「暫く寝ていてください。次に起きたときには、きっと全てがよくなってますよ。」

 アイリスは、その言葉に誘われるまま目を閉じて力を抜く。こてんと彼に身体を預けると、優しく抱きとめてくれたのだった。




 ふっと意識が浮上する。

 アイリスがのそりと身体を起こすと、その上にいつかと同じように、ライルの上着があった。温かい気持ちで、アイリスはぎゅっとそれを抱きしめる。

「アイリス様?」

 起き上がって、何も言わないアイリスに、ライルが不思議そうに声をかけた。

「夢を見てたの。ライルが、ほら、懐かしいことを言うから。」

「ああ……」

 ライルもアイリスがどんな夢を見ていたのか、察しがついたらしい。焚火を見ていたライルの目が、懐かしそうに細まった。

 今は湖で、あの時は雨だが、状況は非常によく似ている。

「目が覚めても、良くはなってませんでしたね。」

 アイリスはくすりと笑う。

 あの時は、アイリスが目を覚ますと、すでに城へと戻っていた。だが、良かったのか、と問われると微妙だな、とアイリスは思い返す。確かに帰れたことに関しては「良かった」のだが、その後の両親からのお叱りが、なんとも。

 アイリスの考えなど、両親はまるでお見通しで、ライルは巻き込まれただけだと、早々にばれており、人様を巻き込むなと、倍怒られたのだ。

 そういえばあの後、挫いた足はどうしたのだったか。

 アイリスがそう思っていると、ふと視界の端に、己の腕が見えた。そこには、あの時のようにシャツの切れ端が包帯代わりに結んである。湖に落ちる前に矢が掠った怪我だが、アイリスがそれを見ている事に気が付くと、ライルはばつが悪そうに言った。

「包帯が、濡れてて使えなかったんですよ。だから、それで。」

 言い訳めいた事を言うライルに、アイリスはまた笑う。

「違うの。懐かしいなぁ、って思ってたの。」

 アイリスはライルの上着を抱きしめたまま、ずりずりと移動してライルの背中にもたれる。

 一瞬、ライルは驚いたように肩を跳ねさせたが、結局はアイリスのしたいようにさせる事にしたようだった。

 それをいいことにアイリスは、ライルの背に垂れた少し長めの黒髪を、指でくりくりといじる。まだ濡れてはいたが、指通りが良く滑らかだった。

「ライル、ありがとね。」

「……? 何がです?」

 ライルは少し振り返って、訝しげにアイリスを見る。アイリスもライルの髪を引っ張ってしまわぬように指を離して、少し身を起こす。

「今日も、だけど。……あの時も、お礼、言えてなかったから。」

 あの山の中でアイリスは、おぶってくれたり、手当てをしてくれた事への感謝を示すどころか、泣いて喚いて、さぞや面倒な子供だっただろう。ライルもそう年は離れていないのに、気の毒な話だと、今更ながらアイリスは思っていた。

 本当に、よく愛想を尽かされなかったものだと、アイリスは苦笑いする。あれ以降も、何かとライルには我儘を言っては困らせたものだ。

 それでも根気強く世話を焼いては、傍にいてくれるのがアイリスは嬉しかった。

「ね、ライル。あの日、足が痛いし、服はドロドロだし、で帰りたいって、言ってたでしょう?」

 アイリスの問いに、ライルもその日を懐かしむような顔で、そうでしたねと頷く。

「痛いし、寒いしで帰りたかったけれど、不思議と…怖くはなかったんだよね。」

 もう日も落ちて、かなり暗くなっていたはず。暗い森の中で二人きりなのだから、相応の恐怖を覚えていてもよさそうなもの。だが、アイリスはあの時、恐怖を一片たりとも覚えはしなかった。

 それは―――

「ライルが、いてくれたからだよね。……あの日以来、私、あなたがいれば、何があっても大丈夫だって、思えるようになったの。」

 今だってそう。もし、ライルがここにいなければ、どれほど恐ろしい思いをしていたことか。

 アイリスはにっこりと笑う。ライルも、それは光栄ですね、なんて言って、呆れた様に笑うだろう。アイリスはそう思っていた。

 だが、そう思ったアイリスの目の前には、複雑な表情を浮かべたライルがいる。

「ライ、ル……?」

 笑ってはいない。だが、怒っているというようにも見えないそれに、アイリスは戸惑った。そんなアイリスの声に応えるように、ライルがアイリスをじっと見つめる。

 その瞳に、アイリスは胸をざわつかせる。

 ライルは何か言いたそうに口を開けて、だが何も言わずに閉じる。ただ、言葉を発するかわりに、おもむろにアイリスの頬に手を伸ばした。

 びくっとアイリスは身動ぎする。ライルが理由なく、アイリスに手を触れようとするのは、初めてだった。

 その手はアイリスの頬に垂れた金の髪に触れ、それをアイリスの耳にかける。アイリスに触れるか触れないかの場所を、ライルの指がすべった。

 耳の後ろを通って、頬へ。そして、アイリスの顎先でその指は止まった。

 伏し目がちのライルの視線は、その指の方へと向いている。視線が合わない。アイリスは身動きがとれぬまま、ライルを見ていた。

 朝焼けのようだと思った瞳が、今は瞼が陰って暗い。アイリスには、ライルが何を考えているのか、よく分からなかった。

「あまり…そう言うことを、男に言うものではないですよ」

 ライルの声が近い。

 アイリスが気が付いた時には、ライルは驚くほど近くにいて、触れあいそうなほどに、近い。

 ライルの聞いた事もないような低い声に、アイリスの背筋が震えた。

 怖いわけではないのに、何故?

「ライル……」

 どうしたの。そんな気持ちを込めて、アイリスがライルの名を呟く。

 それにライルは、一瞬だけ、眉を顰める。だが、答える事は無く、ライルは一層アイリスへの距離を詰めた。

 吐息を感じる。

 あと少しで、触れてしまいそうな距離にいる。

 アイリスは避けることも、止めることもせず、ただじっとしていた。混乱した気持ちと、何故だかこのままでいたいような、そんな半々の気持ちで。

 アイリスは自然と目を閉じかけていた。

 だが、その直前で、ライルはぴたりと動きを止めた。

「………?」

 アイリスが目を開ける。

 ライルは再び動く。だが、アイリスには触れることなく、代わりにアイリスの耳元にそれを寄せた。

「誰か来たようです。ただ、捜索隊ではなさそうだ。」

 殺気がある。そう囁いたライルの声は、アイリスのよく知る、いつものものだった。




 壁を背に、離れていて下さい。

 そうライルがアイリスの耳元で囁き、手元にあった剣に触れる。ライルが背を向け外へ出ると、アイリスもふらりと立ち上がって、よろめきながら壁際へとにじり寄る。

 岩のゴツゴツした感触を背に、ずるずるとその場に座りこんだ。

 さっきのは、なんだったのだろう。

 今更のように、アイリスの頬に熱が帯びる。目が潤んで、辺りはよく見えない。

 ただ、ライルが複数現れた敵を、華麗な剣裁きで沈めていくのは、ライルの動きと、音とでアイリスにも分かった。

 敵方はライルを取り囲んでいるようだったが、アイリスは心配することもなく、ぼやけた視界でその様を見つめていた。

 ライルの剣は綺麗だ。

 まるで剣舞でもしているかのように。

 普段のアイリスなら目を背けたくなるような、血や怪我がよく見えないせいかもしれない。

 ライルが敵の最後の一人を倒す。

 剣を払い、鞘に収める。ただそれだけの動作も、逆行になっているから余計に、清廉にアイリスの目には映る。

 ライルが振り返る。

 驚いたような気配。

 何をそんなに驚いているのだろう。アイリスがこてんと首を傾げると、視界がぐわんと揺れる。

 そういえば、頬の熱さは全身にまわってしまったのか、やけに熱い。

 アイリスは次第に思考が纏まらなくなっていく。

「―――アイリス様っ!」

 切羽詰まったようなライルの声。

 それを最後に、アイリスは意識を失った。




 夢と現の狭間を彷徨う。

 意識だけが時折うっすらと浮上して、だが身体は眠り続けている。その中でアイリスは、どうやら自分は春先の冷たい湖で身体を冷やしたために、熱を出して寝込んだらしいという事を知った。

 カーテンが引かれているのだろう、薄暗い部屋で、見舞いらしい人の声を聞く。その中にフィリアの声があったような気がして、アイリスは謝らなければと口を開くが、それは声になる事なく消えていった。しかし口を動かすことには成功していたのか、アイリスの言葉を聞くかのように、フィリアはアイリスの口元に耳を寄せる。だが、やはり声にはならずに、フィリアは小さく苦笑して、その場を後にした。

 他にも、幾人かが来たように思った。だが、アイリスの意識が比較的はっきりしていたのは、そのフィリアの訪いと、もう一度。

 部屋が一段と暗い頃。おそらく、真夜中。手元の燭台のみを明かりに、ライルの横顔が映し出されていた。

 ゆらめく炎に照らされた横顔を、アイリスは見つめる。

 沈んだような顔をしているライルに、アイリスはどうしたの、と声をかけたくなる。だが、きっと声が出せたとしても、アイリスが声をかけることはなかっただろう。

 それほどに、侵しがたいような、そんな神聖さがあった。

 アイリスの意識が少し浮上していることに、ライルは気が付いているのか、いないのか。ライルがふと、アイリスの顔を見る。

「………。」

 ライルは複雑そうな顔のまま、アイリスを見ていた。何か言いたいことがあるかのような、そんな顔をしているが、結局は何も言わずに、ついとアイリスの方から視線を外した。

 カーテンの向こうを透かし見るかのように、ライルは窓の方を見ている。

「私は………」

 ライルがぽつりと呟く。

 だが、やはり言葉は続かない。

 代わりにもう一度、ライルはアイリスの方を見た。

 ライルの指がアイリスの方へと伸びる。

 あの時と、同じように。

 そしてやはり、アイリスに触れるか触れないかのところで、その指が止まる。そして、アイリスの額にかかる前髪にその指を通し、アイリスの髪を梳いた。ベッドに広がる髪にも、ライルは触れた。

 俯きがちのライルの表情は、アイリスからは窺うことが出来ない。

 あの時も、今も、ライルはどうして……

 アイリスは今、ライルがどんな表情を浮かべているのか、何を考えているのか、とても知りたいと、そう思った。

 だが、未だに身体は眠り続けようとしているらしく、動くことは出来ない。

 もし身体が動けば、すぐにでも彼の前髪を掻き上げて、その瞳に自分が映っているのをみたい。

 そうすれば、ライルはどんな風に反応を返してくれるだろうか。

 アイリスはライルの優しげな髪を梳く手つきを感じながら思う。

 もし、そんな事が出来れば、あの後、もし、誰も来なかったらどうなっていたのか、わかる……?

 あの時走った背筋の震えを思い出す。

 恐ろしくはなかった。むしろ、もっと―――

 ふと、ライルの手が止まる。

「アイリス様……?」

 ライルのやさしい、やさしい声が、アイリスの名前を呼んだ。

 どうして、こんなにも甘やかに聞こえるのだろう。

「目を覚ましたのかと思った……」

 ライルは苦笑して、もう一度するりとアイリスの髪を梳く。金の髪がさらさらと零れ、炎に照らされキラキラと光る。

「アイリス様………」

 ライルがアイリスの顔を覗き込んだ。前髪の隙間から淡い紫が覗いた。

 ああ、やっぱり朝焼けのようだ。

 ライルはアイリスの金の髪を一房掬い取り、そこにそっと口付ける。

「早く、目を覚まして下さい……。」

 軽く触れるだけで、ライルはその手を放す。その髪がぱさりと音を立てて、ベッドのシーツの上に落ちる。

 そしてライルは、アイリスから身を離そうとして、少し逡巡するように動きを止めた。

 ライルは微笑を浮かべる。少しだけ、苦しそうな色を含んだ笑みを。

 そしてライルは、アイリスにもう一度手を伸ばす。

 その指は、アイリスの唇をするりとなぞり、離れていく。

「………おやすみなさいませ、アイリス様。」

 ライルが蝋燭の炎を吹き消す。部屋は真っ暗になって、もう何も見えはしない。

 ただ、ライルが部屋を出て扉を閉める音と、彼の羽根が触れたような指の感触だけが、アイリスの中に残り続ける。

 暗い部屋の中、アイリスは再び眠りに落ちていく。

 その消えゆく意識の中で、まるで、口付けを受けたようだと、少しだけおもった。

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