デンドロビウムの純情

二章婚約者

 次の日。

 予想とは裏腹に、気絶するように眠ってしまったアイリスが目を覚ましたのは、結局昼過ぎの事だった。

 起こしてくれたらよかったのに。

 そう思ったアイリスだったが、おかげで頭は少々すっきりしていた。昨夜の事を思い出せば、多少気分は沈む。だが、それを気にせぬように、アイリスは頭をふるりと振り、雑念を追い払った。それが上手くいったかはさておき、そうして目を覚ました後、アイリスは遅い朝食をとっていた。

「それで、昨日はあれから?」

 アイリスは傍らのライルに尋ねる。

 彼もアイリスと同じだけ起きていたはず。いや、もしかしたら一睡もしていないのでは、と思うが、彼の顔は平素と変わらない。起きてから今日はじめて会った時の、お早う御座います、という挨拶も、アイリスの耳には普段と何ら変わったようには聞こえなかった。

「昨晩の出来事については、後で王太子殿下から御説明に伺うと。」

 アイリスは昨日と言ったが、夜が明けはじめていたところからして、おそらくは今朝の事だったのだろう。普通はすっかり寝静まっている時間。そんな時間に突然襲われて、どれほど怖かっただろう。

 相手が恋敵ともいえる、ユーフィスの婚約者と知ってもなお、アイリスは同情せずにはいられなかった。

 ぼんやりとその時の事を思い出しつつ、アイリスは食後のお茶を飲み干す。

「……、ユーフィス様自ら?」

「はい。王太子殿下、自ら。」

 いくらアイリスがリヴィリアの王女とはいえ、事情説明や聞き取り程度の事、ユーフィス自ら来る必要性はない。

 そんなに、婚約者が大事なの……

 空になったカップを見下ろし、アイリスは胸に込み上げる苦い気持ちを噛み締める。

 ぐと押し黙ったアイリスに、ライルも何も言わない。奇妙な沈黙を破ったのは、扉を叩く音だった。

 ライルが来客を迎えようと、アイリスの傍から離れた。そして、誰だろうとぼんやり思ったアイリスは、唐突に気が付いた。時間と時期から考えて、訪ねてきそうな人物など一人しかいない。

「まっ……」

 顔を跳ね上げ、思わず立ち上がったアイリスの言葉が、ライルに届く前に彼はその扉を開けた。

 ライルと何言か言葉を交わし、訪問者が扉を潜った。

「……っ」

 思わず息を飲み、顔を強ばらせるアイリスに気付くことなく、その人物は言った。

「やあ、アイリス。」

 柔和な笑み。流れる銀髪。

 アイリスが、今、一番会いたくなかった人。

「ユーフィス、様………」

 アイリスの思い人、ユーフィスその人だった。




 私は上手く、笑えている……?

 アイリスは震える足を叱咤して、ユーフィスの前に立つ。

「ユーフィス様…。わざわざ来て下さらなくても、私の方から伺いましたのに。」

 アイリスはにこりと微笑んで、彼にソファへ座るよう促す。アイリスも対面に座ると、ライルにお茶の用意を頼んだ。

「いや、昨日は君に色々と面倒をかけたようだからね。」

 ユーフィスの笑顔はいつもと変わらない。ただ、アイリスの心だけが、寒々しく冷え切っていく。

「面倒なんて、そんな……」

 程無く戻ってきたライルに、アイリスは言いしれぬ安堵を覚えた。

 少しだけ、口元の引き攣るようなものが解ける。

「昨夜の、あれは何だったのですか?」

「ああ、あれは―――」

 ユーフィスの語った内容は、アイリスの予想から大きく外れたものではなかった。

 とある貴族の娘が命を狙われた。物音に気が付いた侍女が様子を見に来て騒いだため、事無きを得たのだ。とはいえ、城内に賊の侵入を許した事は由々しき事態だと、ユーフィスの表情は暗かった。その賊、もしくはその一味にアイリスが襲われかけた件も、ライルが事前に話していたらしかった。

「危険な目に合わせてしまった。すまなかったね、アイリス。」

「いえ………」

 アイリスは小さく首を降る。ユーフィスと目もろくに合わせられず、アイリスは押し黙った。いつもと違い、ひどく大人しいアイリスに、ユーフィスは労しげな視線を送る。

「やはり…、昨日の一件は君にとっても辛い出来事だったのだね、アイリス。いつもより、口数が少ない。」

「………。」

 アイリスは小さく首を振る。昨日の庭での出来事は、確かに恐ろしかったが、それは独りきりだと、助けはないと思ったからだ。ライルの背中を見た時、全ての恐怖が消え去ったのを、アイリスはよく覚えている。

 だから、アイリスの口数を減らしているのは、昨夜の出来事ではない。

 ユーフィス様は、隠そうと、している。

 ユーフィスは、貴族の娘が狙われたと、そう言ったが、彼女が何者なのか、その部分を注意深く削った説明をした。

 アイリスがこれ以上口を挟まなければ、きっとこのままユーフィスは出て行くのだろう。

 どうして、隠そうとするの。

 アイリスは膝の上で手を強く握りしめる。婚約者の存在を知れば、アイリスが駄々をこねると、そう思っているのだろうか。

 だからアイリスは、あえて聞いた。

「あの女性は、何者なんですか?」

 何も知らないような、そんな無邪気な笑顔。それを意識して浮かべる。

「………それは、」

 ユーフィスが珍しく言葉につまった。アイリスはそれを意外な面持ちで見つめる。

 何がしか、アイリスを納得させるような理由を言うと、そう思っていたからだ。

 例えば、幼馴染だとか。例えば、母同士の仲が良く、たまたま滞在していた、だとか。

 そう言っても、間違いではないだろうに。

 王家とその嫁に選ばれる様な娘が、幼い時分から知り合いでない可能性は低い。貴族社会は意外にせまく、年が近ければ、話した事くらいはあるはずだ。母同士、というのも仲が良いかはさておき、知らぬ仲ではないだろう。

 アイリスは浮かべていた笑顔をふっと解いて、口籠るユーフィスに重ねて聞いた。

「貴方の、婚約者になる娘……ですよね。」

「知って、たのか……」

「………えぇ。」

 ユーフィスの目が微かに瞠られる。知っていてなお、何も言わないのがそんなに驚きなのかと、アイリスは苦々しく口を歪める。

 ユーフィスは、アイリスが何か苦言を呈すと思っていたのだろうか。

 言えるわけがない、のに

 既に決まっている事に駄々をこねて、自分を見てくれなどと、アイリスにだって言えるわけがなかった。

 だが、いや、だから、アイリスは笑った。

 ユーフィスに何も言えない代わりに。

 本当は泣きたいような、そんな気分だったが、それでも笑った。

 そして、心が叫ぶ言葉とは、正反対の言葉を口にする。

「言い忘れてました。」

「……え?」

 アイリスは立ち上がって、深く頭を下げた。

「御婚約、おめでとう御座います。」

 ユーフィスの顔は見ることなど出来なかった。顔を深く深く伏せて、そう言い切る。

 ユーフィスから、アイリスの表情を見ることは出来ないだろう。それでも、アイリスは口角を上げ続けた。

 それくらいしか、自身の矜持を守る方法が思いつかなかった。




「……………。」

 アイリスはソファに座ったまま、ただただぼんやりと天井を見上げていた。

 すっかり、気が抜けてしまった。込み上げるものも、今はない。

 ただ、ぼんやりしていた。

 ユーフィスが部屋を後にしたのは、もうかなり前の事だ。日が高い時分だったが、今窓から見える空はもう、すっかり空が赤い。

 血を零したような(あか)だ。

 そう思った。

 時間が経てば、黒ずんでいく様も、まるで本当に血のようだと。

「血……」

 そういえば、あの掌の怪我は大丈夫だったのか、とふとアイリスは思った。ユーフィスは婚約者の現状について、取り立てて何も言わなかった。言うほどの事はなかったのだろうと、アイリスは思う事にした。

 目を閉じる。

「ねえ………、―――?」

 返事が無い。

 アイリスは、目を開けて部屋を見渡した。

「ライル……?」

 いつのまにか、部屋にはアイリス一人だった。

「………」

 一言くらい声をかければよいのに、と思いかけて、アイリスはいやと思い直す。

 ライルの事だから、声をかけてから出て行ったに違いない。おそらくは、アイリスが聞いていなかったのだ。

 アイリスは仕方ないと肩を竦め、ようとして、ぱたりという音に首を傾げた。

「………?」

 服のスカートの上には、水が落ちたような染み。

 まさかと、自身の頬に手をやれば、その指は、しっとりと濡れる。

「………」

 なんで……、ないてる、の?

 ほろほろと零れる涙は、その指を濡らしていく。

 どうして泣いているのかも分からず、アイリスは困惑したまま、涙を流し続ける。拭うことすら忘れていた。

 その時、控えめなノックの音と共に部屋の扉が開く。振り返ったアイリスと、部屋に入って来た人物の目が合う。

「ライル………。」

 どこへ行っていたの、と聞こうとしたアイリスだったが、ぎょっとしたようなライルに、その言葉は遮られた。

「なっ……!」

 ライルは持っていた盆を取り落しそうになりながら、なんとかテーブルの上に置き、急いでアイリスの元へ駆け寄ってくる。

「何かありましたか?! どこか、お怪我でも……!」

 珍しく取り乱しているライルに、アイリスは思わずくすと笑みを零す。

「アイリス様……?」

 未だ涙を零し続けるアイリスは、泣き笑いの状態になる。ライルが訝しげな顔をしていたが、アイリスは気持ちが言葉にならず、ただただ首を振った。

「お怪我など、されたわけではないのですね?」

 念押しのように聞くライルに頷いて、アイリスはようやく笑いを収める。だが、涙は止まりそうもない。

「私も、なんで泣いてるか、わからないの。」

 困ったようにまた笑ったアイリスに、ライルは痛ましげに眉を寄せた。

「ライル……?」

 ライルは小さく首を振り、宥めるように微笑んだ。

「ホットミルクを、持ってきたんですよ。蜂蜜を一匙落とした。……飲みますか?」

 ライルがアイリスの傍を離れたのは、それを持ってくるためだったらしい。アイリスはこくりと頷く。

 小さい頃、風邪を引いたアイリスに、母がよく作ってくれたものだ。普段は料理などしない母が、その時だけは手ずから作ってこそ意味があるのだと、料理人達を説き伏せて。

 幼い頃の優しい思い出。それを思い出すように、一口、口に運ぶ。

 今度は懐かしさで、涙が零れた。

 ほっと温まるような優しい甘さのミルクが、アイリスの身体に染み渡る。

 だから、自然と言葉が零れた。

「わたし……、しつれん…したんだ―――」

 ライルは何も言わない。肯定もしなければ、否定もしなかった。

 ただ、そっとアイリスの頭を撫でる。

 子供をあやす様な優しいその手を感じながら、アイリスも後はただ無言で、ミルクを飲む。

 胸の中の苦さが少しだけ、やわらいだ、そんな気がした。




「………、っ、や、やっぱり、なし。っていうのは―――」

「御約束、なさったでしょう。」

「………。」

 冷めたライルの返答に、アイリスは項垂れる。だが、どうにも勇気が出ない。

 今アイリスは、ユーフィスの婚約者に会うべく、彼女の部屋の前にいた。事件のあった部屋ではなく、その後別に宛がわれた部屋だ。

 昨日、ライルの前でべそべそと大泣きしたアイリスの目元は、未だ若干赤い。だが、その大泣きしたおかげか、次の日目覚めたアイリスの心は、すっかり落ち着きを取り戻していた。

 扉の前で、その扉を叩くための拳をつくったまま、アイリスは口をへの字にする。

 落ち着いてはいたが、そのまま思い人の婚約者に面と向き合えるほどではない。その心は、未だ失恋の痛手を抱えていた。

 それでもアイリスがその彼女に会わんとしているのは、あの晩から丸一日、彼女の様子がどうしても気になったからだ。

 朝、落ち着き、比較的晴れやかな気分だったアイリスは、今行かねば二度と行けるまいと、ライルに面会の許可を取らせた。ライルは相変わらず何も言いはしなかったが、その目は明らかに、このお人好しめがと言っているのを、アイリスは見逃さなかった。もっとも、自覚があるため、反論も出来なかったのだが。

 しかし昼を過ぎ、約束の時間。アイリスの勇気はすっかり萎んでしまっていた。そうして、今このように彼女の部屋の前で、ひたすらにうろうろとしているのだった。

「行かなきゃ……、でも……、うぅ………」

 先程からこの調子で、ずっとうんうんと唸るアイリスに、ついにライルが溜息を吐いた。

「もう時間です。行きますよ。」

 そうして、アイリスが制止する間もなく、ライルが部屋の扉を叩く。

「ラ、ライル…!」

 慌てるアイリスなど、なんのそのとライルは飄々としていた。そして中から、どうぞという声がしては、さすがのアイリスも覚悟を決めぬわけにはいかなかった。

 開いた扉を抜けると、その正面に一人の女性が座っている。月の光のような金の髪と深い青の瞳。ユーフィスの婚約者だ。

 分かっていたはずなのに、アイリスの足が竦んだ。

 だが、そんなアイリスには露ほども気付かず、彼女はぱっと立ち上がって、喜色満面の笑みを浮かべた。

「殿下! 申し訳ありません、わざわざ足をお運び頂いて……!」

 さ、お座りください。とアイリスは促され、部屋の奥へと通された。

「あの晩以来ですね。……改めて、はじめまして。私はアイリスと申します。」

 アイリスは平静を装って微笑む。

 出されたお茶は香り高く、湯気がふわりと二人の間でくゆる。

 よく見ると、そのお茶を出す侍女は、あの日泣いていた侍女のようだった。こちらも元気そうで、アイリスは安心した。

「はい。あの時はありがとうございました。満足にお礼も言えず、ご無礼を致しました。…私は、フィリア・ルーデンスと申します。」

 そうして笑った彼女は、あの日の青白さもなくなり、一層その美しさに磨きがかかっている。優しくお淑やかに見える彼女は、つくづく自分とは正反対だとアイリスは思った。

「いえ、あの時は皆、慌てていましたから。……それで、手の怪我は?」

 フィリアの手には未だ包帯が巻かれている。美しく、聖女のようにも見える彼女の、そこだけが異質で痛々しい。

「大したことはありません。痕も残らないそうです。」

「そう…、よかった。」

 フィリアはその手を包帯越しにそっと撫でていた。だがその手を持ち上げる時、彼女は微かにその眉を顰めた。まだ痛みはあるようだった。だが大事ないと聞いて、アイリスはひとまず胸を撫で下ろした。嫁入り前の、それも王太子との婚約が決まっている彼女が、痕の残るような傷を負うのは、あまりに不憫だ。

「―――殿下のおかげです。」

「え?」

 目をぱちくりさせるアイリスに、フィリアは微笑む。宗教画の女神も裸足で逃げだすだろう微笑みだとアイリスは思った。

「殿下が来て下さらなかったら……。いつまでだって、あそこにいたかもしれません。」

「………。」

 アイリスは困ったように笑った。そんな風に感謝されるつもりでしたことではなかったから、どことなく面映ゆかった。

 いいひとだなぁ……。

 アイリスは素直にそう思った。部屋に入るまで、あれほど構えていたのはなんだったのかと思うほど。

 こうも何のてらいもなく感謝を述べられる人は、そういない。特に高位貴族の娘ならなおさら。

 その上、素直で愛らしい性格のようだ。この短いやり取りで分かる程に。

「………。」

「―――殿下?」

 アイリスが肩を竦めると、フィリアが不思議そうな顔でアイリスを見る。

 これは、敵わない。

 アイリス少し笑うと、フィリアに何でもないと首を振った。




 フィリアとの会話は、意外にもアイリスにとって楽しいものとなった。

 嫉妬のような、羨望のような気持ちは未だ心の奥にはあったが、それも鳴りを潜めてゆく。アイリスはいつの間にか、張り付けたような笑みではなく、心からの笑みを浮かべていた。

「そうだ…、アイリス様。」

 突然、何かを思い出したように手を打ったフィリアに、アイリスは首を傾げる。先程までの楽しげな顔からは一転し、フィリアの表情には陰りが差す。

「どう、したの?」

 アイリスもつられるように不安げな表情を浮かべてしまう。そんなアイリスに、フィリアも困ったように笑う。

「今度に開かれる、王妃殿下のお茶会……、ご出席なさいますか?」

 アイリスはどうだったか、と思考を巡らせる。

 そして、そういえば初日の国王夫妻と夕食を共にした際に、それとなく話題にあがっていた事を、アイリスは思い出した。正式なお誘いの手紙も見たような気がするアイリスだったが、ここ数日それどころではなかったため、すっかり忘れていたのだ。

 たしか日にちは、明日ではなかっただろうか。

「そういえば、気が向いたらおいでなさい、と言われたような……。」

 ついうっかり、まだ返事を出していなかった。

 アイリスは、戻ったら返事をせねばと少し焦る。もっとも、ここ数日のアイリスの様子は、かの王妃も知っているはず。その上、アイリスに殊更甘い王妃は、そう怒ってはいないだろうとも思っていたのだが。

 まだ返事をしていなかった、とアイリスが正直に言うと、フィリアはどこかほっとしたような、だがどこか一層不安げな顔をする。

「フィリア……?」

 アイリスが訝しげに、彼女の顔を覗き込むと、フィリアは意を決したように、アイリスに頭を下げた。

「どうか、私と共に、出席して下さいませ!」

「え……?」

 アイリスが目を瞬かせる中、フィリアはもう一度、お願いします、と頭を下げたのだった。




 聞けば今回の茶会には、フィリアが大層苦手にしている御令嬢がいるとの事だった。

 アイリスは、ずっと情けない顔で頭を下げるフィリアの姿に結局は折れ、茶会への出席を決めた。王妃へは返事が遅れた事への詫びを丁寧にしたため、それを返書として送る。

「只今戻りました、アイリス様。」

 その返書を届けに行ったライルが戻ってくると、アイリスはうんと頷いて、椅子に座ったまま、大きく伸びをした。

「おば様は何か、言ってた?」

 アイリスはアヴァランシアの王妃の事を、昔からの流れでおば様、と呼んでいる。血の繋がりはないが、アイリスにとってはアヴァランシア王家は親戚のようなものだと思っていた。

「ええ。明日、会えるのを楽しみにしている、と。」

「そっか。」

 アイリスはにっこりと笑った。

 たまにはこうしたものに出るのも悪くないかも。

 アイリスが今まで返事を保留にしてきたのには、勿論それどころでなく忘れていた、という理由もある。だがそれと同時にアイリスが、単純にそういった場が苦手だという理由も少なからずあった。アイリスも王妃とは会いたい。だが、他のよく知りもしない貴族の女性達と会うのは気が進まなかったのだ。

 それを知っている王妃は、だからこそアイリスを無理には誘わなかった。そして、今までなら、アイリスも十中八九行かなかっただろう。

 それまでのアイリスならば、その時間にユーフィスを捜して城内を彷徨い歩く。その方が有意義だと思っていたからだ。

「―――そういえば。フィリアの言ってた、苦手な令嬢って……。」

「アレクレシア侯爵家の令嬢の事ですか?」

 フィリアははっきりと名前を言っていなかった。だが、ライルは当然ながら予測がついていたらしい。

 アレクレシア侯爵家、ねぇ………。

 アイリスも聞いた事が無い名ではなかった。いや、アヴァランシアの国内情勢について、多少でも知っていれば、聞かずにはいられぬ名だ。

 昨今のアヴァランシアは、王権が少々、弱まっている。その代わりに台頭し始めたのが、本来王を支える立場であったはずの貴族達だ。その貴族達だが、アヴァランシアでは大きく二派閥に分類される。

 フィリアの生家であるルーデンス伯爵家をはじめとする古参の貴族。それから、比較的近年に爵位を持った新興貴族。その筆頭がアレクレシア侯爵家だ。新興、とは言っても、リヴィリアの成立よりは前に興った家が多いのだが。

 何にせよ、新旧の戦いはいずれの世も起こるもので、ここアヴァランシアにおいても、例の如く二つの派閥は仲が悪い。

「フィリアと…、その、アレクレシア家の子も仲が悪いのね?」

 フィリアの今日の話しぶりからすると、仲が悪いというよりはどこか恐れているような節があったと、アイリスは思い返していた。

 ライルも微妙な顔つきで、言葉を選ぶように言う。

「仲が悪い、というよりは……、アレクレシア家の令嬢が、一方的にフィリア嬢を敵視している、というような様子のようです。」

 なるほど、とアイリスも頷く。それならば、フィリアの反応もどことなく納得できる。だがライルも、ほぼ人づてに聞いた情報らしく、言葉尻が曖昧だった。

「それで……、どうしてあそこまで不安そうなの?」

 アレクレシア家とフィリアのルーデンス家は、新興貴族と古参貴族のそれぞれの代表のような家だ。当然、家同士の仲も悪く、娘同士も仲良くはなり辛いだろう。だからといって、会ったばかりのようなアイリスについて来てくれ、と言うほどだろうかと首を傾げる。

「それは………、あ、いえ―――」

 ライルがふいと視線を逸らす。理由を知らぬわけではなさそうだ。だが、ライルは一向にその理由を口にしようとしない。

 よほど惨たらしい事なのか、それとも―――

 アイリスは肩を竦めて苦笑した。

「私には言いづらいことなの?」

「いえ、その……」

 これほど口籠るライルも珍しい。ライルは頻りに、アイリスの方を見ては、気まずげに視線を逸らして、を繰り返す。こんなライルは滅多に見ることが出来ない。アイリスはこんな時ではあったが、それが少し面白かった。

 だが、これだけ口籠るという時点で、アイリスは何が彼をそうさせるのか、粗方予測がついてしまった。だから、ずばり言うことにした。

「―――ユーフィス様、の関連かしら?」

「………。」

 ライルは暫く黙っていたが、観念したように小さく頷いた。そして、アイリスは自身の目元に視線が注がれている事に気が付く。

 ああ、そっか。昨日の今日、だもんね。

 アイリスは心配そうにアイリスを見るライルの真意にようやく気が付く。また昨日のように泣くのではないかと、心配されていたのだ。

「………私は、大丈夫だから。」

 だから話して、とアイリスはライルを促した。

 ライルはその言葉をどう受け止めたのか。アイリスには分からない。ただ、話を再開することにはしたようだった。

「ユーフィス殿下の御婚約者が、フィリア嬢に内定する前の事です。殿下の御相手の候補として、アレクレシア家の令嬢の名も挙がっていたそうです。」

 当然、といえば当然の話だ。ユーフィスの妻になる、ということは、いずれは王妃として彼を支え、国母として世継ぎを産むという使命を帯びる。その椅子に座るには、それをやり遂げるだけの気概や教養、だけでなく地位も必要となる。

 地位、例えば他国の姫や、国内の有力貴族の娘。

 アヴァランシア国内の貴族派閥の筆頭家の適齢の娘。二十一歳のユーフィスに対して、フィリアは十八。アレクレシア家の令嬢も同い年らしいため、十八。

 この二人のどちらかが有力視されるのは、想像に難くない。

「それで、フィリア嬢を敵視したアレクレシア家の令嬢が、会うたびに嫌がらせをしはじめたそうです。」

「………、そう、なの。」

 お約束、といえばお約束。なのだが、とアイリスは思わず半眼になる。

 足を引っかけたり、お茶をかけたり、嫌味を言ったりなど、少々目に余るような行為もあったようだ。詳しい内容は、アイリスに聞かせたくなかったのか、ライルは言葉を濁した。

 何をやったのか、アイリスも気にはなったのだが、同時に少々恐ろしくもあったため、結局聞くことはなかった。とはいえ、フィリアの怯えたような表情を思い出せば、中々の事をやってのけたのだろう事は、想像に難くない。

 もしや、とんでもない事に巻き込まれようとしているのでは、とアイリスは辟易する。

 まあ、仕方ないか……。

 了承してしまったのはアイリスだ。後は精々、無事に終わる事をいのるしかない。

 だがきっと、平穏無事とはいかないのだろうな、とアイリスは肩を竦めた。




 そしてお茶会当日。

 ……意外と、何も起こらないのね。

 という些か不謹慎な事を、アイリスが思ってしまうほど、その場は至極なごやかだった。アイリスはお茶を啜り、菓子を摘まむ。

 お茶会がはじまり、もうそれなりに時間が経つが、未だ危惧されたような事は何一つ起こっていなかった。

 ただ、とアイリスは顔をそちらに向けぬようにしたまま、視線を隣に座った王妃の、その一つ隣に向ける。

 燃えるような赤い髪に濃い緑の瞳がきつい印象を与える女が座っている。

 件の令嬢、カテリーナ・アレクレシアだ。

 今は他の令嬢と喋っているからか、その顔はにこやかだが、部屋に入った時のフィリアへの憎しみさえ感じるようなその表情には、さすがのアイリスも驚いた。フィリアと同時にアイリスも姿を現した事に気が付いたせいか、その表情は一瞬だったが、見逃すには強烈過ぎるものだった。

 アイリスは内心嘆息して、今度は王妃と反対隣に座るフィリアに視線を向ける。

 時折他の令嬢に声をかけられて、受け答えをしてはいるものの、不安そうに暗い顔をしたままだ。そしてそんな不安そうな表情で、ちらちらとカテリーナを窺っている事も、アイリスは気が付いていた。

 これだけ意識し合っているのに、一言も言葉を交わしていない事が、逆に二人の因縁の深さを感じさせた。

「………。」

 しかし、改めて見ても、とアイリスは思う。

 この二人が婚約者候補として現れたなら、家の事情を抜きにしてもフィリアに分があるだろう。王妃になりたい一心で嫌がらせをするなど、程度が知れる、というものだ。それに比べて、フィリアはそれを耐え忍び、庇護欲をそそる。

 実際アイリスも、あまりにフィリアが不安そうな顔をするので、放っておけなかったというのが、このお茶会に出席した大きな要因となった。

 フィリアをあんなにも怯えている女、という事で色眼鏡で見てしまう部分があるのはアイリス自身も認めるところだが、それにしても典型的な貴族の娘、というのがカテリーナの印象だった。

 家の権力を使い、着飾り、同派閥の娘達の中心となり、今も王妃に気に入られようと必死の様子だ。

 アイリスとて、それが悪いと言いたいわけではない。

 貴族の家に生まれた以上、政略の道具として自身を磨き、出来うる限り良き男と結ばれ、権力者とお近付きになり、家に利益をもたらすのは最早、義務と言って良いだろう。

 それを押し切って生きる事が出来る者は、そう多くはない。

 とはいえ、だ。

 自身の妻にするならば、野心剥き出しで、かつ他人を進んで貶めようとする人間を好むだろうか、という話だ。

 家格も年齢もそう変わらず、二人とも系統は違うが隣に置いて見劣りするような容姿ではない。

 フィリアが選ばれたのは、当然の結果ではなかろうかと、アイリスはつい思ってしまう。

 だが本人としては納得いかないのだろう。王太子妃位争いが終結してなお、カテリーナはフィリアを憎んでいるようだった。

 馬鹿らしいなぁ……

 アイリスとしては、やはりそう思ってしまう。未来の王妃という地位は、それほど魅力的なのだろうか。その座を目標とする者が多い事は知っているアイリスだが、その気持ちの程は今ひとつ分からない。

 その時、カシャンと音がした。

 まるであの晩に聞いたようなその音に、アイリスはビクリとして、その音の鳴った方を見る。

 音はフィリアの座っている方向からだ。そして、アイリスが状況を理解するより早く、フィリアが口を押え、咳き込んだ。

 身体をくの字に曲げ、苦しそうに目に涙を浮かべる。

「フィリア……?!」

 アイリスの叫び声に、ようやく茫然としていた周囲の人々が動揺しはじめる。

 床に割れたカップが落ちていた。落ちる途中で机の角にでも当たったのだろう。先程のカシャンという音は、その粉々のカップがたてた音らしかった。

 そしてその割れたカップの下には、茶色い染みになって広がる紅茶があった。それは、何の変哲もなく見える。

 だが、噎せたというには、あまりに酷く咳き込むフィリア。

 そこから、導き出せるのは―――

 アイリスは自身の身体から血の気が引いていくのを感じた。

 そしてアイリスははっとしたように、フィリアから視線を外して後ろを振り返った。

 そこには一人、王妃の影で口の端を吊り上げる、女がいた。




「大丈夫?」

 アイリスの心配げな声に、フィリアは頷いて微笑んだ。

 あの後、お茶会はすぐさまお開きとなった。王妃の計らいでアイリスとフィリアは先にその場を辞したため、その後どうなったのか、アイリスは知らない。だが、混乱は必至だろう。

 アイリスも一度自室に戻りはしたが、やはりフィリアが心配だったため、つい先程彼女の部屋を訪ねてきたのだった。

 落ち着きを取り戻したらしいフィリアが、アイリスを笑顔で迎えた。だが、その顔は恐怖からなのか、些か青い。

「フィリア、やっぱり…さっきの―――」

 フィリアは、ふっと暗い顔で俯いた。

 やはり。

 アイリスは、労し気にフィリアの手を取った。

 フィリアのお茶。それに毒が混入していたのだ。

 とはいっても、死ぬようなものではない。軽い痺れ薬、のようなもので、完全なる嫌がらせだ。フィリアは解毒薬を処方され、身体からその毒素は消えたが、起こった事実は変わらない。

「身体は…、大丈夫なの?」

「―――はい。」

 フィリアはアイリスを心配させぬようにか、気丈に微笑んだ。

 それほど強い毒ではなかったのと、解毒もすぐに完了したのとで、もう身体には殆ど影響は残っていないらしい。

 毒を入れたのは、やはりカテリーナ・アレクレシア、なのだろうか。

 だが、憶測でそんな事を言う事も出来ず、アイリスはふるりと首を振って、その考えをひとまず脇にやった。

「大事にならなくて、よかった。」

 アイリスは、握った手に未だ巻かれる包帯を撫でながら、そう言った。これ以上傷が増えるのは、心が痛む。

 フィリアもアイリスの握るその手を見つめ、そうですね、と微笑んだ。そして、自身よりも暗い顔をするアイリスを気にしてか、フィリアはこんな提案をした。

「そうだ、アイリス様。気分転換に、湖に散策でも参りませんか?」

 フィリアは顔を綻ばせる。それにアイリスも、つられたように笑った。

 確かに、何日も続けてこう悪い話ばかりだと気が滅入ってしまう。それは素敵ね、とアイリスは同意しようとした。だが、フィリアの次の一言で、アイリスは言葉を失った。

「ユーフィス殿下が、お誘い下さったんです。アイリス様も是非!」

 フィリアは無邪気に笑った。




 身体が重い。

 一気に地獄に叩き落されたような気分。アイリスは回らない頭で、そう思った。

 フィリアの部屋を退出した後、アイリスは這うようにして自室に辿り着いた。そのまま寝室に直行し、着替えもせずにベッドに身を投げた。

 ベッドがアイリスの体重を受けて沈み込む。アイリスはそのまま、ぎゅっと目をきつく瞑る。

 忘れていた。

 彼女の立場を。フィリアはユーフィスの婚約者だという、動かぬ事実を。

 そして、自分はその恋に破れた惨めな少女だということを―――

 フィリアには敵わない。ユーフィスを奪おうなどと考えたわけではない。

 でも、だからこそ、その事実を再確認させられて、ただ、ただ、辛い。

「………っ」

 零れそうになる嗚咽を唇を噛んで飲み込む。血が滲むほど噛んで、ままならぬ思いを逃がそうとする。

 だが、どうにもならない。

 苦しくて、苦しくて、噛んだ唇を噛み切ってしまうのではないかと、そう思い始めた時、部屋に静かに誰かが入ってくる気配がした。

 ありもしない、愚かな期待が、アイリスの胸を埋め尽くす。

 だが、いや案の定、期待を裏切る、そして、想像通りの声が聞こえた。

「―――アイリス様。」

「………」

 ライルだ。

 分かっていたのに、がっかりする自分がいる。

 アイリスはそんな自分が可笑しくて、いっそ嗤ってしまいそうになった。

 だが、それを実行する気力もなく、ただアイリスはベッドの上で俯せになっているしか出来ない。

「アイリス様、御休みになるのならば御着替えを……。」

 ライルの普段と何ら変わることのない声。静かで、平坦な。

 いつもなら、その穏やかな声に安心する。

 なのに、今日のアイリスはそうではなかった。

「―――ッ、うるさい!!」

 落ち着いた声音が妙に癇に障る。跳ね起きたアイリスは、手近にあった枕を掴み、後ろにいたライルに投げつける。

 ライルならば、軽々と避けられたはず。しかしライルは、立ったままその場を動かず、枕は彼の胸辺りに当たって、床に落ちた。

 アイリスは、はあはあと肩で息をして、ライルを睨んだ。

 ライルの静かな瞳がアイリスを見つめ返す。

 その瞳を見ていると、何の落ち度もないライルにただ八つ当たりをする自分が、酷く矮小な存在に思えた。

 くやしい。

 子供な自分が、とても。

 アイリスは俯いて、唇を噛む。だが、そこに力が加わる寸前に、ライルがアイリスの名前を呼んだ。

「アイリス様。」

 何、と答えられたら良かったのに。

 だがアイリスは憮然と黙ったまま、何も言えなかった。ライルもアイリスの返答を期待してはいなかったのだろう。アイリスに俄に近付くと、その前で膝を折る。

 そして、失礼、と一言声をかけて、アイリスの頬に手を触れた。

「!」

 ライルの手が顎に掛かり、少し上を向かされる。

 ライルはアイリスの顔をまじまじと見て、少しだけ眉根を寄せた。

「やはり、切れてますね。」

「え………」

 ライルはアイリスの顎から手を外し、立ち上がると部屋の戸棚から応急処置の道具が入った箱を取り出す。そして再びアイリスの傍に戻ってくると、アイリスの前に立膝をつく。

「じっとしていて下さい。」

 ライルはそう言うと、箱からガーゼを取出し、切れた唇をそっと拭う。次に消毒薬を新しいものに付けて、それでまた傷口を抑えた。

「いっ……!」

「我慢して。」

 自分で唇を噛んだのだから文句も言えず、アイリスは大人しく消毒の痛みを我慢する。

 消毒が終わると、その薬品を取り去るように、また新しいガーゼが傷口に触れた。

「っ………」

「痛い?」

 アイリスはふるりと首を振った。

 痛かったわけではない。ただ―――

 アイリスはぼんやりとライルの作業を見つめる。消毒薬を拭った後は、軟膏のような物を取り出して、それをガーゼに取る。そしてそれをアイリスの唇に当て、まるで紅でもひくかのように、うっすらとその唇に乗せる。

「………。」

 ライルの真剣な眼差しが、ひどく美しいものに見える。

 ライルはそっとアイリスの唇から手を引く。

 少しだけ、名残惜しいと、思った。

「アイリス様?」

 終わりましたよ、というライルの声にアイリスははっと我に返る。

 酷い八つ当たりをした後だということを思いだし、素直にお礼を言うのも気恥ずかしく、アイリスはぷいとそっぽを向いた。

 ライルは肩を竦め、救急箱を仕舞うために立ち上がった。アイリスは、その背中をただ見つめる。

 戸棚を閉じるパタンという音。それに紛れるような小さな声でアイリスは呟く。

「―――ごめんね。」

 ライルは何も答えなかった。

 けれど、聞こえていないのではと不安になる事も、また無かった。




 アヴァランシアとリヴィリアの間には、多くの湖がある。山の中にあるそれは、透明度に誤魔化され分かり辛いが、水深があり足を滑らせて落ちでもすると、かなり危険だ。そんなわけで、アイリスが今より幼い頃は、山に入っても決して近付くなと、重々言い含められていた。

 そんな湖のうちの一つに、今アイリスは来ていた。

 その湖は、周囲の一部分が崖のようになっていて、その上にいるアイリスからは、反対の湖岸しか見えない。ただそこは、日当たりも良く、そこから見下ろす湖は、日の光がキラキラと反射して大変美しい。散策に来るにはこれ以上ない場所だ。

「………。」

 きっと普段なら、もっと楽しめるだろうに。

 だがアイリスは、そんな美しい景色や澄んだ空気を、何ひとつ楽しめずにいた。意識して笑顔を浮かべていなければ、すぐに顔が曇る。アイリスは同行者達に気付かれぬよう、もう何度目か分からない溜息を吐いた。

 同行者。

 それを思い出す度、どうしてもアイリスは憂鬱になった。

 アイリスは湖岸から視線を外し、ちらりと後ろを見る。

 そこには、仲睦まじい様子の、ユーフィスとフィリア。用意された簡易の椅子に、寄り添うようにして座っていた。

 見せつけているつもり?

 思わず、そんな荒んだ気持ちが浮かぶ。フィリアはそんな事をする人ではない、それは分かっているのに。

 アイリスの溜息に混じるのは嫉妬と、そしてそんな事を考えてしまう自分への嫌悪感だ。

 アイリスの視線に気が付いたフィリアが、ぱっと顔を輝かせて立ち上がる。そして、ぱたぱたと小走りでアイリスに近寄ってきた。

 来ないで。

 ついアイリスは、そう口走りそうになった。

 フィリアが悪いわけではない。アイリスは、何度も己の心にそう言い聞かせる。そして、酷い事を口走らないように、アイリスは口を引き結んだ。そんなアイリスには気が付かぬフィリアは、ただただアイリスに慕わしげな笑顔を向けた。

 雛鳥の刷り込みのようだ。

 アイリスの冷めた声が胸の内に囁く。辛い時に現れたアイリスを、それこそ雛鳥が初めて見たものを親として無心に慕うように、フィリアは慕っているのだろうと。そんな穿った見方ばかりしてしまう。

「アイリス様! こちらにいらっしゃいませんか?」

 フィリアは無邪気だ。折角一緒に出かけているのに、離れた所にいるなんて寂しい。そんな気持ちが、フィリアの言葉の端々から感じ取れる。

 アイリスはユーフィスの方を指し示すフィリアの指に視線を滑らせる。

「―――っ」

 そして、ユーフィスと目が合った。アイリスはヒュッと息をのみ、思わず目を逸らす。

「アイリス様?」

 フィリアの輝くばかりの笑顔が、アイリスを追い詰める。

 どうして。

 どうして、彼女なの。

 どうして、私じゃないの。

 どうして―――

 アイリスは、胸が潰れてしまうのではと思うほど、苦しかった。

 仲睦まじい二人を見る事も。

 無邪気に笑うフィリアも。

 そして、それを受容できない自分も。

 だが、どうにもならない。アイリスは伏せた顔を歪める。

「行きましょう……?」

 俯いたアイリスを心配するように、フィリアは優しく声をかける。

 フィリアは何も知らないのだ。それはアイリスも分かっていた。

 それでも―――

 フィリアがアイリスの手を握った。

「―――!」

 その手を振り払う。

 バシッという、乾いた音が響いた。

 その振り払った手が、怪我をしていた方の手だと気付いて、アイリスは少しだけ後悔した。だがそんな気持ちも、湧き上がる激情の前に、すぐに消えてしまう。

「え………」

 フィリアが困惑するように、振り払われた手とアイリスを見比べた。

「知ってて、言ってるの………」

 酷く冷たい声が、自身の喉から出ている。

 その声に、フィリアも当惑する。

「ア、アイリス、様……?」

「私がユーフィス様の事を好きだったと知ってて言っているの、と聞いているのよ!!」

 フィリアは絶句していた。

 彼女を傷付けている。それをアイリスも気が付いていた。

 だが、もう自分では止められなかった。

「仲の良い状況を見せつけて、まだ足りないというの?! これ以上、惨めな思いをしろと!」

 感情が高ぶって抑えがきかない。

「貴女と知り合いさえしなければ! 私はこの気持ちを、穏やかに忘れていくことができたのに! 貴女さえ―――!」

 フィリアの顔がどんどん青ざめていく。

 アイリスはただただ叫ぶ。苦しすぎて、涙も出ない。

 本当はこんな事を言いたいわけではなかった。こんな風に、フィリアを責めたいわけでは。

 でも、止まらない。

「私の心をこれ以上掻き乱さないでよ!! もう、私は―――」

 それ以上は言葉にならなかった。

 言葉にする事が出来なかったのか。それとも、視界の端にキラリと光った違和感に、言葉を押しとどめられたのか。

 ただアイリスは、考える暇もなく、気が付くとフィリアを突き飛ばしていた。

「きゃっ!」

 フィリアがそのまま尻餅をつく。

 その一瞬後、フィリアがいたその空間を何かが切り裂き、そこにあったアイリスの腕をその何かが掠めた。服が破れ、チリと痛みが走った。

 矢だ。

 だが、視界の端でそう確認しただけ。あとはそれがもたらした痛みに気をとられ、フィリアを思いきり突き飛ばした反動で、アイリスはたたらを踏んだ。

 一歩、二歩と後ろに下がる。

 そして、三歩目。

 その足が空を切る。

「え………」

 ガクンと身体が重力に従って落ちる。地面が、そこにはなかった。

 ああ、罰でも当たったのかな。

 何も悪いところのないフィリアに、酷い事を言ったから。

 アイリスは抵抗することもなく、ただ静かに目を閉じた。

Copyright (C) Miyuki Sakura All Rights Reserved.
inserted by FC2 system