デンドロビウムの純情

一章恋いこがれて

 馬車が山道を駆ける。深い森を抜け、視界がひらけてくると眼下に小さく街並みが見えてきた。

「あ! ライル、見て!」

 馬車の扉に嵌められたガラス越しに、少女、アイリスははしゃいで声をあげる。ライルと呼ばれた彼女の護衛は、アイリスの指差す方へと目を向け、同じ様に小窓から景色を見た。

「ああ…、王都が見えてきましたね。」

 はしゃいで頬を上気させるアイリスとは対照的に、ライルは何の関心もなさそうに、すぐに視線を外す。

 反応が悪い。

 アイリスは、そんなライルに対して、不満げにぷくと頬を膨らませる。だが、彼の反応が悪いのは今にはじまった事ではない。アイリスは彼をむうと軽く睨んだだけで、文句を引っ込めた。アイリスは大人しく馬車の柔らかい座席に身を戻すと、すぐに機嫌をなおして、今度は一転してふふと楽しそうに笑った。

「やっと、ユーフィス様にお会いできるわ……!」

 アイリスは今、母国リヴィリアの使節として、隣国アヴァランシアの第二王子の成人祝いに向かっていた。リヴィリアの第一王女であるアイリスが、成人後初めて一人で公務へ他国へと赴く真っ最中だ。

 交友深い二国。アイリスもアヴァランシアの王子達と勿論親交があり、いわば、幼馴染と言う間柄だ。一つ年下の第二王子にも、会うのは久方振り。当然楽しみにしていたアイリスだが、それ以上に心躍るのは、第一王子と会える事の方だ。

 アヴァランシアに行けば、彼と会える。アイリスは第一王子、ユーフィスの事を思い出し、始終ご機嫌だった。

「……あまり、はしゃぎ過ぎないで下さい、アイリス様。」

 呆れたような視線を送るライルの言葉を、軽い相槌で聞き流し、アイリスはるんるんと肩を揺すっている。

 アイリスが前にユーフィスと会ったのは、もう一年程前の事。アイリスが成人を迎え、今とは逆に、ユーフィスがリヴィリアへと訪れた。だが、アイリスは準備やら何やらで忙しく、ユーフィスもユーフィスで、アイリスの兄とばかり喋っていた。

 次期国王同士、何か大切なお話をなさっているのだろう。

 そう、理性では分かっているものの、それで割り切れるほどアイリスは大人ではなかった。

 恋とは、まこと厄介なものだ。

 そんなわけで、今回こそはユーフィスと沢山喋るのだ、とアイリスは意気込んでいるのだ。

 アヴァランシアへの滞在日数は半月程を予定している。式典への出席のみが目的のわりに滞在時間が長いのは、アイリスの事を娘のように可愛がっているアヴァランシアの国王夫妻の、暫く遊んで帰れば良いじゃないか、という申し出に甘えた結果だった。

 ユーフィスとどれほど一緒にいられるだろうか、とにこにこしているアイリスだったが、勿論、今回の役目を忘れたわけではない。山を下り、王都を目前とするころには、アイリスもいくらか落ち着きを取り戻す。馬車の窓に掛かったカーテンを閉め、だが、好奇心は抑えられずに、その端から外を覗き見る。

 田舎の小国であるリヴィリアとは違い、アヴァランシアの王都は随分賑やかだ。アイリス自身が街に降りた事はさすがにないが、窓からその様を眺めるだけでも、とても楽しい。往来を行く人々の顔は明るく華やかで、活気に溢れている。

 リヴィリアが寂れている、というわけではないが、行き交う人の数が桁違いだった。人の多さもアイリスの受ける印象に大きな違いを与えている。

「アイリス様。」

 街を抜け、小高い丘の上に建つ王城が迫ると、ライルが静かにアイリスの名前を呼んだ。そろそろ着くぞと、注意の視線を感じる。アイリスも分かってはいるのだが、子供扱いするようなその視線に、むむっと口を尖らせる。

「分かってますぅー」

 アイリスは席に座り直し、姿勢を正す。

 それでも、ユーフィスと会えるという嬉しさが堪えきれないのか、口元は自然と緩んでいる。そして、堪りかねたように、ふふふっと笑うアイリスを、ライルが冷めたような呆れたような目で見ていた。




 アヴァランシアの王都は丘の上に建った王城を中心に、その周囲に家々が連なっている。放射状に走る目抜き通りの内の一本を抜け、城下と王城を区切る高い城壁の門を、アイリスの乗る馬車が潜り抜けた。

 事前に到着を知らされていた城内では、アイリス達リヴィリアからの使者を迎えようと人々が並ぶ。

 アイリスは先程までの緩んだ顔を引き締め、対面のライルに小さく頷いた。その視線を受けて、ライルは先に馬車から出ると、アイリスが降りるための準備を整え、恭しく手を差し出した。

 アイリスはその相貌に薄く笑みを刷き、その手に自身の手を重ねる。握る、とも言えぬほどライルはやわらかくアイリスの手を包む。互いに手袋越しの今、体温までは伝わってはこなかった。

 壊れものを扱うかのようなその手つきに、アイリスはいつも少しだけドキリとする。だが、それを表情に出すことはなく、アイリスは地面に足を下ろすと、正面を見る。

 その先にはアイリスを出迎えるために、一人の男が立っていた。

 ユーフィス様……!

 思わず浮き足立つ心を抑え、アイリスは平静を装って微笑んだ。

「お久しゅうございます、王太子殿下。」

 ドレスのスカートを摘まみ、軽く膝を折る。

 一年振りのユーフィスは、相変わらず格好が良い。

 流れる銀髪を後ろでゆったりと結わえ、顔の周りに零れ落ちるその銀糸のような髪は、日の光を受けてキラキラと輝く。宵の口のような紫の瞳は、見つめられるとぞくりとするような、妖しげな色合いがあると、妙齢の女性達を卒倒させているとか、いないとか。

 だが、アイリスを見る時のユーフィスは、いつも優しげな光が湛えられていた。アイリスはそれを見ていると、安心して優しい気持ちになる。

 今日も、それは変わらない。

「一年振り…ですね、王女殿下。」

 優しく微笑むユーフィスに見惚れそうになりながら、アイリスはこくりと頷く。

「会わぬ間に、一段と綺麗になりましたね。」

 もう妹とは呼べませんね、と片目を瞑るユーフィスに、アイリスはからかい交じりのそれだと分かっていても、頬が赤らむ。

「あら……」

 照れる頬を隠すように、アイリスは口元に手を添え楚々と微笑んだ。

 そんな風な会話を終え、アイリスはユーフィスに先導されるまま、王城内へと足を踏み入れる。

 その中に入る時、アイリスはいつもちょっぴり緊張した。普段アイリスが暮らしている場所とは全く違うその場所は、大きく、豪華で、訪れる人々を圧倒させる。

 リヴィリアにあるアイリスの生家は王族の住まう場所として、王城、宮殿、などと呼ばれてはいるものの、規模としては一貴族の邸宅とそれほど変わりはない。元々、とある貴族が所有していた領地を国として独立したのがリヴィリア。その貴族の邸宅がそのままアイリス達リヴィリア王家に受け継がれているのだから、無理もなからぬ話だったのだが。

 それに引き替えアヴァランシアでは、小高い丘の上、「城」という呼び名に相応しい壮麗なそれが、王都のどこからでも見えるその場所に鎮座している。その内装も外から見た印象を覆す事無く、細部まで美しい。

 相変わらず綺麗だな、と辺りにちらりと視線を投げながらアイリスは歩く。そうして少しばかり歩き、ユーフィスとアイリス、それから互いの護衛などの付き人しかいなくなった頃、ユーフィスがふっと息を吐いた。

「さて、もうそろそろ堅苦しいのは無しにしようか、アイリス。」

 その言葉に、アイリスもようやく身体から力を抜く。

「ああ、よかった…、これ以上大人しくしなければならなかったら、どうしようかと……」

 先程までアイリスが纏っていた、凛とした空気はあっという間に霧散する。それまでの姿が大人びていて大層美しかったことに、アイリスばかりが気が付いていない。今ここにいる人間は、皆幼少期からアイリスを知っている面々のため、その様子を少しばかり残念なような、微笑ましいような気持ちで見ていた。

 そんな周りの内心には気付く事もなく、アイリスは大きく息を吐いた。

 外行きの言葉や振舞いは大層疲れる。リヴィリアという小国で、おおらかに育ったアイリスにはどうにも慣れないのだ。その事を、ユーフィスも勿論知っている。

「私、上手く出来てましたか……?」

 いつもは父母や兄の後ろにくっ付いていただけのアイリスだったが、今日は違う。今日はまさしく、リヴィリアの代表として、国を背負ってこの場所に立っている。

 知らぬ仲ではないアヴァランシアだから大丈夫。そう言われて送り出されたアイリスだったものの、本当は内心びくびくしていた。

 少し不安に眉をひそめてそう問うアイリスに、ユーフィスは優しく笑む。

「大丈夫。さっきの調子なら、陛下…君のお父上も鼻高々だろう。」

 その言葉に、アイリスはほっとして胸をなでおろした。

「よかった。ユーフィス様にそう言っていただけるなら、きっと心配いりませんね。」

 そう言って笑ったアイリスに、ユーフィスも笑顔を返す

「あの、ユーフィス様、この後は―――」

「アイリス。」

 時間があるのならお話がしたい。そう思って口を開いたアイリスだったが、ユーフィスの穏やかな声に口を噤んだ。

「私はそろそろ行かなければ。ここのところ、少し忙しくてね。」

 ごめんね、と言って、ユーフィスは踵を返す。そして、肩越しに手を一度小さく振ると、あっという間に彼はその場を去って行った。

 お忙しいならば、仕方がない。

 そう思いつつも、アイリスはやっぱり肩を落としたのだった。




 案内された部屋は、客室の中でも特に見晴らしのよい、アイリスの気に入りの部屋だった。窓の外には城下街の屋根が連なり、その向こうには大きな湖。そして、その更に向こうには、山の端が見える。大きな窓辺に寄り、アイリスはその景色を見つめていた。

「やっぱり、リヴィリアとは違うわねぇ……」

 リヴィリアはどこを向いても山、山、山。そんなわけで防衛上は好条件の立地だが、それ以外が何もない、というのも存外つまらないものだ。リヴィリアにも湖はあるが、あんなに大きなものはない。それ以上に広いという、海、というものは、アイリスにとって書物の中の存在だ。もっともアイリスとて、山が嫌いなわけではない。リヴィリアの風景も当然愛している。だがこうして比較してしまうと、山以外無いリヴィリアはつまらない、なんて思ってしまうのも事実だった。

「アイリス様。」

 アイリスが物思いに耽っていると、控えめなノックの音と共に、ライルが部屋へと入ってくる。

「やっぱり、ここは眺めが素敵ね……!」

 アイリスはライルににっこりと微笑んで振り返った。アイリスに笑顔を向けられたライルはというと、上機嫌のアイリスに応えるように、うっすらと口角を上げたものの、そうですね、という返答は落ち着いたものだ。

 二つ程しか歳は変わらないはずなのに、何の差だろうと、アイリスは常から不思議だった。その疑問を本人にぶつけてみた所、「アイリス様は、その明るく朗らかな所が長所でしょう。」と返されて、アイリスは釈然としないながらも、二の句が次げないのだった。

「アイリス様?」

 アイリスがそんな事をつらつらと考えながら、ライルをじっと見ていると、その視線に気が付いたライルが首を傾げる。

 アイリスは何でもない、と首を振って、別の事を聞いた。

「そういえば、この後って…、何かあった?」

 アイリスは何もなかったはずだけど、と思いつつ尋ねる。アイリスの傍に常に侍るこの男は、誰よりもアイリスの予定について熟知している。

「いえ、特には。ただ先程、御夕食の御誘いを王妃殿下から頂きました。」

 それを聞き、アイリスはふむと考える。

 おそらくこれは、会食などといったような堅苦しいものではない。どちらかというと、久し振りに遊びに来た親戚の子をもてなす様なあれだ。アイリスとしても、一人寂しく食事をするのは好まないため、その申し出はありがたかった。

「わかったわ。是非、ご一緒します、と。」

 心得たと頷くライルを見つつ、アイリスは思考を巡らせる。王妃殿下からの御誘い、ということは、その夫妻はいるだろう。ならば―――

「ユーフィス様は、いらっしゃるかしら……。」

 先程、早々にその場を去ってしまったユーフィスを思い出し、アイリスはそのつれなさにしょんぼりする。

 彼が忙しいのは重々承知しているアイリスだったが、それでも寂しいものは寂しい。折角、会えると期待に膨らんでいた気持ちがしゅんと萎んでしまった。

「アイリス様……」

 余程、心細そうな顔をしていたのか、ライルが溜息交じりにアイリスに声をかける。

「……なあに?」

「今日会えなかったから、と言って諦めるんですか?」

 アイリスはライルの言葉にはっとする。

「出発前は、絶対にいっぱいお話ししてもらうんだ、と意気込んでいらっしゃったではないですか。」

 忙しいのではと遠慮して、あまり話しかけることが出来なかった一年前。それを反省し、アイリスはリヴィリア出国前、確かに決意した。

 もう同じ失敗は繰り返さない。絶対にいっぱいお話ししてもらう。

 それをライルの前で宣誓したのは、つい数日前だ。

 その時の気持ちを思い出し、アイリスは拳を握る。

「………そうだったわ。ごめんなさい、忘れていたわ。」

 今回は滞在日数も長い。彼と話す機会など、これからいくらだってあるはずだ。

「今回は、諦めないんだから……!」

 闘志を燃やすアイリスに、ライルは肩を竦めた。




 諦めない、そう意気込んだまではよかった。

 だが、現在アイリスは、仏頂面でお茶を啜っていた。

 その対面にはアヴァランシアの王子。しかしそれは、アイリスの望んでいる人物ではなかった。

 アヴァランシアの第二王子。この度成人を迎える、エイヴィスだ。

「ユーフィス様に会えない………」

 むうぅと眉根を寄せるアイリスに、エイヴィスも呆れ顔だった。

「会えない、ってアイリス……。君、昨日来たばかりじゃないか。」

 昨日のアヴァランシア国王夫妻との夕食会は、アイリスにとっても、とても楽しいものだった。国王夫妻はそれはアイリスに甘く、彼等自身に娘がいない事も手伝ってか、会えば何くれとなく構いたがるのだ。そんな二人をアイリスも嫌うわけがなかった。

 ただ、唯一の不満は、その場に彼等の息子がいなかった事。

 正直に言おう。ユーフィスがいなかった事だ。

 少なからず、会えるのでは期待していたアイリスは、かなりがっかりした。そしてエイヴィスと話している昼近くなった今も、彼の姿を拝む事すら出来ていなかった。

「だって、一年前もお兄様とばかり仲良くされて、帰ってしまったし……。」

 楽しみにしてたんだもん、とアイリスはむくれる。

「そうは言うけど、兄上もお忙しいんだから。」

「………。」

 わかってはいる。

 だが、些か機嫌の悪いアイリスは、当然の指摘に口を尖らせた。

 とはいえ、エイヴィスに怒っても仕方がない。アイリスは肩を竦めると、お茶うけのクッキーを摘まむ。その甘さがアイリスの胸に渦巻く憤りを、多少和らげてくれた。それを飲み込んでお茶を一口啜るころには、アイリスの機嫌もすっかり直ってしまっていた。

 アイリスは切り替えが早かった。

「忙しい、といえば……、エイヴィこそ、こんな所にいていいの?」

 招かれる側のアイリスは、遊んで帰れば、という事前の申し出通り暇なものだ。だが、招く側はそうはいかない。

 特にエイヴィスは今回の主役だ。

 こんな所で優雅に茶を飲んで、自分の愚痴に付き合う暇などあるのだろうか、とアイリスは首を傾げる。

 だが、きょとんとした顔で首を傾げるアイリスとは裏腹に、エイヴィスは渋い顔をした。

「ど、どうしたの?」

 エイヴィスの眉間の皺は深さに、アイリスはたじろぐ。一体、何が彼にこんな顔をさせるのだろう。アイリスには全く分からない。

 エイヴィスはそんなアイリスの様子を見て、何故分からないのか、と深い溜息を吐いた。

「君も、去年にやったのだから……分かるだろう? 朝から晩まで、やれ採寸だ、やれ段取りの打合せだ、って毎日うんざりしてるんだ。……リヴィリアの姫をもてなさなきゃ、って理由をつけて、ようやく抜け出せたんだから。ここにいる間くらい、忘れさせてよ。」

「ご、ごめんなさい……?」

 エイヴィスの不機嫌は、その忙しさにこそあったらしい。

 アイリスは一年前の自身を振り返り、ううむと唸る。確かに大変だったが、準備中も自分のために集まるキラキラとしたドレスや花々を、嬉しく思ったものだ。リヴィリア王家は代々質素倹約を旨としているため、普段の生活に豪奢さはない。そのかわり、こんな時くらいはと集められたそれらは、アイリスの目を楽しませたものだ。

 男女の違いか、育った環境の違いか。アイリスとは違い、エイヴィスは心底面倒臭そうな顔をしている。

 つい先程までと立場が逆転している。アイリスはくすりと笑った。

 アイリスを宥めていたはずのエイヴィスが、今度はすっかりむくれてしまっていた。アイリスのくすくすという笑い声にも、エイヴィスは大げさなほど顔を顰めてアイリスを睨む。アイリスはそれを見て、さらに笑ってしまうのだった。

「でも、エイヴィス。成人の祝いなんて、一生に一度なんだから、もう少し楽しめばいいのに。」

 エイヴィスはその言葉に、更に憮然とする。

「一生に一度、って言ってもさ。僕が主役の会、ってわけでもないじゃない。それで楽しめ、って言われてもね。」

「………え?」

 肩を竦めるエイヴィスを、アイリスはぽかんと見つめる。

 僕が主役の会、ってわけでもない……?

 エイヴィスは何を言っているのだろうと、アイリスは混乱する。エイヴィスの成人の祝いなのだから、彼が主役に決まっているはずだ。

 何か、妙な胸騒ぎがする。アイリスは震える声でその疑問を口にした。

「僕が主役じゃない、ってどういうこと……?」

「どういうこと、って……」

 エイヴィスはそこまで言って、はっとしたように口を噤んだ。

 不自然な沈黙が落ちる。

 アイリスはやはり、どうにも嫌な予感がするのを感じていた。

「ねぇ、エイヴィス。どういうこと。」

 アイリスの視線から逃れるように、ふいと顔を背けていたエイヴィスだったが、暫くして逃れられないと諦めたのか、溜息を吐いてぼそりと言った。

「誰も言わなかったなんて、残酷な事をする……」

「……?」

 どういう意味か分からず首を傾げたアイリスに、エイヴィスは同情するような視線を送り、そして渋々口を開いた。

「婚約、が………発表されるんだ。」

「………だれの?」

 アイリスは問いかける唇が震えているのを感じた。うまく、言葉が紡げない。「誰の」と聞いておきながらも、頭の片隅でその答えはきっと出ていた。だが、認めたくないという気持ちが、現実から目を背けさせる。

 エイヴィスも、動揺しているアイリスを見て、さらに顔を歪めた。

 そして、大きく息を吐いて、そして、その名を口にした。

「ユーフィス、兄上の……」

「―――!」

 アイリスはひゅっと息を飲む。だが、それ以上言葉が出てこなかった。心が理解を拒んでいるのか、思考が纏まらない。

 いや、エイヴィスが「主役は僕ではない」と言っている時点で、アイリスも察してはいたのだ。それでも、アイリスはやはり、認めがたくて、手の震えを抑え込むように握った。

 アイリスは目の前が真っ暗になった気がした。




 あの後、どうやってエイヴィスと別れたのか。

 アイリスが気付いた時には、既にエイヴィスはおらず、ライルだけを供に廊下をふらふらと歩いていた。

「ライル、私……、ここは……?」

「覚えてらっしゃらない?」

 アイリスは力無く頷いて、それから思い直して首を横に振った。

 いや、少し思い出してきた。

 アイリスは立ち止まって、目を閉じる。

 ユーフィスの婚約発表がなされると聞いた。その後、一人になりたい、と言って外に出たのだ。その後、ライルにだけ付いて来るように言って、城内をあてもなく彷徨い歩いた。

 廊下の窓から外を見れば、日はそれほど動いておらず、時間はあまり経っていないらしい。だが、時間の感覚が消失してしまうほど、聞いた事実に対する衝撃は、あまりに大きかった。

 アイリスは暗い気分のまま、溜息を吐く。

「もう、部屋に戻るわ……」

「はい。」

 自然と人の少ない場所を選んで歩いていたのか、アイリスの周囲に人の気配は少ない。

 今、きっと酷い顔をしている。鏡を見ずとも、アイリスには分かった。そんな今の酷い顔を人に見せたくはない。ましてや、ユーフィス本人と会ってしまったら、と思うとぞっとした。

 そう考え始めると、外にいること自体が非常に恐ろしい。早く戻ってしまおうと、アイリスは踵を返す。

 だが、その足はすぐに止まった。

「―――殿下!」

 可愛らしい女性の声が聞こえた。その声にアイリスはびくりと肩を揺らして、立ち止まる。

 辺りにはアイリスの姿を見咎めたような人物はおらず、すぐに自分を呼んだのではないと分かった。アイリスのいる場所から、ほんの少しの所にある曲がり角。どうやら、その先から声は聞こえたらしい。だからアイリスは、そのまま立ち去ってしまえばよかった。

 だが何故か、アイリスは動く事も出来ずに、その声を聞き続けた。

「ああ、来たのか。」

 その声にアイリスの血の気が引く。

 ユーフィス様………

 ふらりと壁に寄りかかる。壁を背に、アイリスは何とか身体を支え続ける。

「はい。」

 女が嬉しそうに笑う声がする。しかし、会話の内容は今一つアイリスの耳に入ってはこなかった。言葉が理解できなくなってしまったかのように、その言葉であるはずの音が、アイリスの耳を通り抜けていく。

 だが、だというのに、何故か、アイリスには分かってしまう。ユーフィスの声に女を労わるような優しさが滲んでいる事が。嫌になる程に、それだけは。

 理解を脳が拒否している。だが、身体も動かせず、ただただ、アイリスは二人の会話を聞き続ける。

 ユーフィスに会って嬉しそうな女。その女を優しく労わるユーフィス。

 アイリスもその女の正体に気付いている。だが、直接聞かなければ、信じないでいられるのではないか、そんな儚い希望を抱く。

 だが、そんな事を思ったその瞬間、そんな細やかなアイリスの期待すら打ち砕かれた。

「―――婚約発表ははじまりに過ぎませんからね。殿下の妃として恥にならぬよう精進致します。」

「―――っ!」

 アイリスは叫びそうになる己の口を抑え、悲鳴を飲み込む。だが、カタカタと震える身体では立っている事も出来ず、ずるずるとその場に座り込んだ。

 ユーフィスとその婚約者は、そのすぐ近くでアイリスが話を聞いている事など、気付いた様子もない。アイリスが放心している間に、気が付くと二人はその場から姿を消していた。

「アイリス様……」

 跪いたライルが、アイリスの顔を覗き込む。アイリスは、涙を堪えるように唇を噛み締め、ライルを睨む。

「ライルも、知ってたの。」

 思えば、エイヴィスの話を聞いた時から、ライルは痛ましげな顔をするだけで、驚いてはいなかった。エイヴィスが軽く口に出した事から考えても、機密事項であったわけでもなく、かなり広まった話だったのだろう。

 だから、この話を知らぬのはアイリス、ただ一人。

「……陛下から、黙っているように、と。」

「………。」

 お父様が、と内心で呟く。

 ということは、リヴィリアを出る以前から、分かっていた話なのだ。もしかすると、もっと前から話自体はあったのかも知れない。

 もっと早く、言ってくれればよかったのに。そうすれば、きっと辛いけれど、彼を祝福することも出来たのに。

 アイリスは廊下に座り込んだまま、膝に顔を埋める。

「皆、ずっと…、私を騙してたんだ………」

「アイリス様、それは―――」

「だって、そうでしょう?!」

 アイリスは顔を上げると、キッとライルを睨む。目尻には大粒の涙が溜まっている。

 だが、アイリスはそれ以上言葉にせず、目を伏せた。

 本当は分かっている。周りは、アイリスを傷付けまいとして、黙っていたのだということくらい。だがそれでも、八つ当たりせずにはいられなかった。

「アイリス様、お部屋に戻りましょう。」

 ライルもそれ以上は何も言わず、ただ、アイリスの目尻に溜まった雫を、人差し指で拭った。




「はぁ……」

 夜。アイリスはひとり、夜の庭を散歩していた。

 部屋で一人、眠ろうとしていたアイリスだったのだが、どうにも寝つけず、散歩でもして気を紛らわそうと、ショールだけを肩に掛けて出てきたのだった。

 月の綺麗な夜で、雲も少ない。月明かりに照らされながら、アイリスはもう一度溜息を吐く。

「ライルに、八つ当たりしちゃったなぁ……」

 昼間は自分の事ばかりで、いけないと思いつつ、ついライルに当たってしまった。

 よくよく考えれば、ユーフィスはアイリスより五つも年上で、今年二十一になる。今までそういった話が無かった方がおかしかったのだ。年を考えれば、婚約どころかすぐに結婚してもおかしくはない。

 ユーフィスの婚約者になるらしい女性は、アヴァランシアの高位貴族の娘で、御年十八。月の光のような長い金髪に、海のような深い青の瞳をしている、大層美しい女性らしい。見目だけでなく、優しく気配り上手で、前に出過ぎぬ控えめな性格。家柄もさることながら、その人柄で、彼女を妻にと望んだ青年達は多いのだとか。

 アイリスはそこまで思い出して、むっと眉根を寄せた。

 お似合いすぎる。

 アイリスも決して見目が悪いわけではない。顔もそれなりに整っているし、髪や目の色はその女性と似通ったところがある。だが、髪は月の光、というよりは目に痛い太陽。目の色も話に聞くような海の色というより、真昼の晴れた空の色だ。

 アイリスは胸元に揺れるその金髪を指で弄ぶ。

 性格もどちらかというと、その女性の真逆ではなかろうか。

 アイリスはもう一度溜息を吐く。

 敵いっこない。それならさっさと諦めて、ユーフィスの幸せを祈るべきだ。

「………。」

 アイリスは、弄っていた髪をぱっと放す。

 それでも、そう簡単には割り切れない。

 アイリスが月を見上げて細く息を吐いた、その時だった。


 カシャン


「………?」

 ガラスの割れるような音。

 アイリスは不思議に思い、振り返った。だが、それ以上は特に何も聞こえず、気のせいだったのだろうか、とアイリスは肩を竦めた。

 だが、何となく暗い気分が飛んでしまった。

「そろそろ、戻ろうかな……」

 アイリスは肩に掛けていたショールの前を手繰る。季節は春だが、まだ夜ともなれば冷える。あまり身体を冷やすのも良くないだろう。

 そして、アイリスが踵を返そうとした、その時。

「キャア―――!!!」

「なっ……!」

 耳をつんざくような悲鳴。アイリスは驚きのあまり、足を止めた。

 何があったのだろう。だが、尋常ならざる事であるのは、想像に難くない。

 とりあえず、一人は危険だ。

 そう思ったアイリスは、急いで庭を出ようとした。だが、ガサッという木が大きく揺れるような音に足が止まる。

 おそるおそる後ろを振り返る。

 後ろにあった木の根元、そこに誰かが立っていた。闇に紛れるような黒い装束を来た人物は、幽鬼のように立っている。

「っ―――」

 ぞわりと全身に鳥肌が立ったような気がした。

 見回りの衛兵ではない。おそらくは、先程の悲鳴の原因も―――

 影が動く。その手に持った刃物が、月の光を受けて、キラリを光った。

「―――!」

 殺されるっ!

 恐怖のあまり、アイリスは動く事も出来ず、ぎゅっと目を瞑る。

 たすけて……!

 その願いが通じたのだろうか。

 アイリスが予期したような痛みはいつまでも訪れない。その代わりに、キンッ、という高い音が夜の闇に響いた。

「………?」

 アイリスがそっと目を開ける。

 その前には暗い影。

 だが、不思議と恐怖が消えていく。

「ライ、ル……?」

 ライルはチラとアイリスに視線を走らせ、無事を確認すると、鍔迫りあっていた刺客の小刀を弾き飛ばす。相手はその反動を利用して後ろに跳び、暫しライルと睨み合っていたが、程無くしてチッと舌打ちをし、闇に紛れ消えていった。

 敵がいなくなった後も、暫く辺りを警戒していたライルだったが、その場に二人きりな事を確認すると、ライルは剣を収めた。

 振り返ったライルの顔を見て、アイリスも漸く緊張が解ける。へなとその場に座り込んでしまった。

「アイリス様?!」

 急にへたり込んでしまったアイリスに、ライルは焦ったようにその場にしゃがみ込む。

「だ、大丈夫……、腰が抜けただけ。」

 アイリスが照れたように笑うと、ライルはほっとしたように表情をゆるめた。

 ライルの差し出した手にアイリスは掴まって、何とか立ち上がる。土で汚れたスカートを払っていると、ライルがショールをアイリスの肩にかけた。いつの間にか落ちてしまっていたらしい。

「ついてきてたのね。」

「ええ。声はかけぬ方が良いかと思いましたので、少し離れて。」

 アイリスはショールをぎゅっと握って、俯く。

 昼間、酷い八つ当たりをしたのに。

 アイリスは今更ながら恐怖に震える。

 ライルが来てくれなかったら、どうなっていたことか。

 アイリスはぽすんとライルの胸に頭を預ける。

「………ありがとう。」

 アイリスが震えている事に、ライルも気が付いたのだろう。アイリスを宥めるように、そっとその背を撫でる。

 その手は、アイリスから震えがなくなるまで、途絶えることはなかった。

 ようやく落ち着いた頃、アイリスはそっとライルから身体を離し、彼の顔を見上げる。

「さっき、悲鳴が聞こえた。何があったのか、わかる?」

 まだ少しアイリスの顔は青ざめていた。

 ライルもそれに気が付いている。だからライルはその表情を窺うようにアイリスの顔を覗き込んだ。

 しかしアイリスが、大丈夫と笑顔で頷くと、ライルも頷き返して、口を開いた。

「声は城内からのようです。……行きますか?」

 聞きながらも、アイリスの答えは分かっていたのだろう。大きく頷いたアイリスに、ライルは肩を竦める。

「厄介事に首を突っ込むのが御好きですね。」

「好奇心旺盛、って言ってよ。」

 ライルが差し出した手を取り、アイリスはその場を後にした。




 城内は外と同じように、いや、壁で遮られている分、月の光も届かずより暗い。アイリスはライルに手を引かれるまま進むだけで、どこをどのように進んでいるのかすら、よくは分からなかった。だが、次第にしんとしていた静けさの中に騒ぐような人の声が混じりはじめる。それと同時に、誰かが明かりでも持っているのだろう、明かりのような物がポツポツ見えはじめた。

「あそこのようですね……。」

 アイリスの手を握っていた力が少し強まった。

 ざわざわと混乱するような人々。部屋の扉は開け放たれ、その周りを囲むように数人の男女、侍女と衛兵のような人々がいる。だが、責任者がいないのか、誰も彼もがおろおろしているだけのようにアイリスの目には見えた。

 やはり、先程の悲鳴といい、異常な事態が起きているらしい。

「ライル。」

 アイリスがそっと前を行く彼の名を呼ぶと、ライルは弾かれたように振り返って、そしてアイリスの手をそっと放した。それから、すっとアイリスの後ろにまわり、影に沈むように控える。

 アイリスはごくりと唾を嚥下し、一歩踏み出した。

 一体、何が起きたのだろう。

 そうして近付いて行くと、ようやくアイリスの存在に気が付いたらしい、衛兵がアイリスに声をかける。

「あ、き、危険ですので……!」

 アイリスはその声を無視し、部屋へと足を踏み入れた。

 その部屋は女性の使っている部屋らしい事はすぐに分かった。調度品や壁紙をはじめ、可愛らしい物で纏められている。扉を開けてすぐのそこは、ちょっとした応接の為の場所らしく、ローテーブルとソファ。人気はない。騒ぎがあったのは、その続き部屋にある寝室の様だった。

 アイリスはそちらに足を向けた。

 暗い部屋だった。手元用のランプは灯っているようだが、沈んだように暗い。その中から、微かに女の啜り泣くような声が聞こえる。

 夜中に女の泣き声とはぞっとしない。

 だが、これだけ騒ぎになっているのだから、幽霊というわけではないだろう。アイリスは、さすがに女性の寝室に入れるわけにはいかないと、ライルには扉の前で待つように指示して、一人足を踏み入れた。

 アイリスのいるその場所を、風が吹き抜けた。アイリスはふるりと身を震わせ、ショールを手繰り寄せてから周囲を見渡す。

 寝室の窓ガラスが割れ、外に通ずる扉が開いていた。そこから風が入り、カーテンをはためかせている。はじめに聞いた、何かの割れるような音はこれだったのかと、アイリスは思った。

 そこまで考えて、ようやくアイリスはその部屋の中央に鎮座するベッドの上に人影がある事に気がついた。

 ベッドの上で呆然と座りこむ誰か。そして、その傍の床にへたり込み、ぐすぐすと泣き声を漏らす女を発見する。部屋にいるのは、その二人だけのようだった。

 床で泣いている女は、格好からして侍女らしい。泣いてはいるがザッと見た限りは怪我も見当たらず、アイリスはその傍に屈んで、彼女の肩に手を置いた。

 彼女はびくっと身体を揺らしたが、顔を上げる。

「あちらの方は、この部屋の主?」

 女は声も無く、ただ頷く。

 彼女が話せる状況ではないらしい事を悟ったアイリスは、ライルに目配せして、部屋を出るように言った。

「あの方は私が何とかするから、あっちで落ち着いてらっしゃい。」

 アイリスが笑いかけると、幾分か落ち着いたのか、侍女はゆっくりとではあるが立ち上がって、部屋を後にした。

 さて……

 アイリスは彼女が出て行くのを見送った後、もう一人の方を見た。正面に回り込んで見れば、薄い夜着を着た、アイリスとそう年の変わらない女だった。

 近付いてみるが、顔は青ざめて、目の焦点が合っていない。一瞬不安になったアイリスだったが、息はしているようで、ひとまずほっとする。

 何があったの……?

 アイリスは彼女の周りを見渡した。窓の方に向かって、だがそこから少しでも遠ざかろうとするかのように、ベッドの端の方に彼女は座っていた。ベッドの上には、割れた窓ガラスらしき破片がいくつも飛んでいる。それでどこかを切ったのだろう、ベッドの白いシーツには血のような赤黒い染みが点々と続いていた。それから、先程は泣いていた侍女に気取られて、気が付かなかったのだが、床には矢のような物が刺さっているのを、アイリスは見つけた。

 矢で窓を破壊して侵入してきた暗殺者が、彼女に襲いかかろうとしていたが、侍女に見つかり悲鳴を上げられたので、ひとまず引き上げた、といったところか。

 アイリスは、さぞ怖かったろうと肩を竦める。その恐怖のあまり、彼女は気絶している、わけではないようだが、意識は飛ばしていた。アイリスが手を彼女の顔の前でぱたぱたと振ってみるが、効果は無かった。

 最悪、頬でも打つか。

 そう思いつつ、アイリスは彼女の手を取る。そこにはガラスで切ったと思しき裂傷があった。大きな怪我ではなかったが、赤い鮮血が滲んで痛々しい。アイリスはその傷に障らぬように、その手を握った。

 その手は血の気が引いて、とても冷たい。それを温めるように、アイリスはその手を両の手で包み込んだ。

 掴んだ指が、ピクと動く。

「………っ」

 彼女が短く息を吐く。そして、身体の強張りが解けていった。

「こ、こは……」

 彼女の目が、ようやくアイリスへと焦点を定める。アイリスはほっとする。

 だが、ようやくその顔をまじまじと見て、アイリスは気付いてしまった。

「………まず、傷の手当てをしましょう。」

 アイリスは彼女に笑顔を向けて、部屋を出るように促す。

 不安に色取られた海のような青の瞳を見て、アイリスは宥めるように笑顔を向けた。そして、彼女が薄い夜着一枚だった事を思い出し、自分の肩にあったショールを彼女にかける。

 その温もりに少しだけほっとした彼女の背に、アイリスはそっと手を添える。

 その手をくすぐるように揺れる彼女の長い金髪は、窓辺を離れてもなお、月の光のように輝いていた。




「………ふぅ。」

 部屋の扉がしまり、パタンと音を立てる。アイリスは、その扉を背に溜息を吐いた。

「アイリス様。」

 すぐ傍にはライルがいたが、アイリスは俯いたまま動けない。

 幸い、件の女性の怪我は軽かった。

 元いた部屋から離れた部屋に場所を移し、そうこうする間に医師が現れた。その医師はその傷を洗い、消毒して薬をつけると、包帯を巻く。そうして、ニ、三日もすれば良くなると言った。アイリスの見立て通り、手はガラスの破片で切ったものらしく、それ以外は目立った外傷もない。

 ただ、襲われたショックからか、落ち着かない様子の女を見かね、医師は鎮静剤のようなものを処方して帰っていった。

 そこまでの間、彼女を連れだした手前、放って帰る事も出来ずに付き添っていたアイリスだったが、彼女が眠るのを見届けようやく部屋を出たのだった。

「ライル……、」

 アイリスは言葉を続けようとして、結局言葉にならず口を閉じた。

 海のような青の瞳。

 月の光のような金の髪。

 恐怖からその顔は青白かったが、それでもなお、美しい女だった。

 名前は聞かなかった。だが、周囲の反応から、貴族の娘なのは間違いない。

 それもかなり、高位の。

 アイリスはもう一度溜息を吐く。

 こんな特徴を持ち、こんな扱いを受ける女など、そう何人もいないだろう。

「―――彼女、なの?」

「……えぇ。」

 アイリスが何を言いたいのかなど、ライルにはすぐに分かったのだろう。だが、面と向かっては答え辛いのか、少し間が開いて、彼は頷いた。

「そう………」

 アイリスの声は暗い。

 だが、同時に合点いった。彼女の立場なら、命を狙われる理由など、十二分に存在する。

「……戻りましょう。」

 ふらりと歩き出したアイリスに、ライルがついて来る。少し夜の散歩をするだけのつもりだったというのに、空は遠くが白みはじめていた。いつもアイリスが起きる時刻まで、もう幾分もなかった。

 だがきっと、眠れはしない。

 アイリスは妙に冴える目を足元に落としたまま思う。身体が芯から冷えるように寒い。それは夜の空気がアイリスを取り囲んでいるせいばかりではないだろう。

 ふると身体を微かに震わせると、ライルがぴくりと顔を上げた。

「………」

 何か物言いたげな空気を感じたが、ライルは結局何も言わずに、自身が着ていた上着を脱ぐ。そして、それをアイリスの肩にかけた。

「…気がききませんで。」

 ライルの上着は、彼の体温が残っており、微かなぬくもりを感じる。アイリスはそれの前をぎゅっと握り、小さな声で言った。

「ありがと……。」

 その声にライルは応えるように小さく頷いたが、それ以上はお互い喋ろうとはしなかった。


 あの女性の名は、フィリア・ルーデンス。

 ユーフィス王太子の婚約者となる女。


 アイリスは肩にかかるぬくもりを逃がさぬように、その手に一層力を込めた。

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