第一話
終章それぞれの決意と
「ミルチェ様、行かなくてよろしいんですの?」
午前の陽も高くなってきた時、アイミティアが部屋の戸を開いて入ってきた。ミルチェはそれに、目を瞬かせる。
「あれ? アイムこそ、行かなくてもいいの?」
「私は、昨日に別れを済ませましたもの。」
「…そっか、わかった。行ってくるね、アイム!」
ミルチェはいつかしたように、窓から身体を躍らせた。呆れ顔のアイミティアを視界の端に捉えつつ、ミルチェは事もなげに木に掴まると、するりと地面に下りて、走り出す。
あれから、一週間が過ぎた。
あの日以来、ミルチェはキースに会うこともなく、ただ漫然と大神殿の自室で日々を過ごしていた。あの事件をどう収めることにしたのか、ミルチェは多くを聞かされてはいない。ただ、そんなミルチェにも分かる変化はあった。
アイミティアが、導師付きの侍女に任命された。
何があったの、とミルチェはアイミティアに聞いてみたが、
『私が、陛下にお願いいたしましたの。』
という、俄かには信じられない返答を聞かされる羽目になった。
それならば、とミルチェはハンナに聞いてみる事にした。すると、
『陛下、直々の御指名だそうで。』
という、正反対の答えを聞いた。
全く、謎ではある。
だが、おそらくあの事件と無関係ではないのだろうと、ミルチェは予想していた。
まあ何はともあれ、アイミティアは大神殿所属の人間となった。
そんなわけで、それとなくあの事件のその後について聞いてみたのだが、あまり得られた情報は多くはなかった。
そもそも、ハンナが口を堅く閉ざしていた。そのため、言わぬようにと命じられているだろうアイミティアから、ミルチェが多少でも聞き出す事ができたのは、それだけで僥倖と言うべきなのだが。
ともかく、ミルチェが何より気になっていたハーディルの処遇については、聞くことができた。
アイミティアによると、そもそもあの日の出来事は事件化されていないらしい。
あの場にいたのは、ハーディル、アイミティア、キース、ミルチェの四人だけだ。そして、それ以外であの日の事について知らされたのは、片手で数えられるくらいの人間だけ。そのため、箝口令が敷かれ、表面上は何もなかった事にされたのだった。
だが、何の沙汰もなく、という訳にはいかない。
ハーディルは王都を追放、という事になった。対外的には、遊学すると理由をつけて。
そして、今日がその旅立ちの日だったのだ。
ミルチェが目指すのは、ハーディルがいるはずの港ではない。
キースのところだ。
ミルチェはばれないようにそろりと、大神殿の裏門を抜けた。
そして山の中へと入り、ミルチェは方向を確かめる。
アイミティアによると、この場所から下方にある展望台のような所に、いるのではないか、ということだった。そこは、王宮を出て少し馬を駆ければすぐに辿り着く。通常の順路で行くならば、一度城下の方へと降りる必要があるところだ。
だが、ミルチェの立場上それは無理だった。城下の方へと出るならば、ミルチェは馬に乗れないため、誰かに馬車で送ってもらう必要がある。しかしそれでは、こっそり行くというのは不可能になってしまうからだ。
ミルチェは山中でしっかりと両足で立ち、目を閉じ集中する。そして、目を開けて叫んだ。
「風よ、私を運んで!」
ミルチェの身体がふわりと持ち上がり、木々を上空に抜ける。その最中ミルチェは、もう一言付け加えた。
「水よ、私の姿を隠して!」
水の薄い膜、その反射で遠目ではミルチェを視認できなくなる。ミルチェはそれを確認すると、目的の場所まで、ふわと飛んで行った。
ミルチェがこうして空を飛ぶのは、初めてではない。魔法の練習のためにと、昔は頻繁に行っていたミルチェだが、ここ暫くはご無沙汰だった。久しぶりだった為に上手くできるか少々心配だったミルチェだったが、何事もなくほっとした。
今回は目的地があるので、悠長にはできないが、ミルチェはこうして空を飛ぶのが好きだった。地面を跳ねるのとはまた違う、無重力のような感覚。天地さえも分からなくなるようなそれが、ミルチェは気持ちよかった。
こんなに楽しいのに、ハンナは怖いと言って、一度も付き合ってくれなかった。きっとアイミティアも同じだろうな、とミルチェは口を尖らせる。
ああ、それならキースはどうだろうか。
そう考えてミルチェは、はた、と我に返った。
ミルチェは、胸に手を当てる。
驚いた。
キースが傍にいる事が自分の中で、当り前の事になっている、その事に。
ミルチェは、ふっと口元を緩めた。
そうしている間にも、目的地らしき場所が見えてきた。
アイミティア曰く、山を削ったような平たい土地があるとのこと。そして、そこに目印のように一本の木が立っていると。
「あれかな?」
アイミティアが言っていた木から、ミルチェは少し離れた所に下りる。そして、魔法を解いた。
その木の傍には、その木に寄り掛かるようにして、一人の男が立っていた。
「まったく…、窓から出るのは止めて下さいって言ってるのに。聞いてくれませんね。」
ミルチェがいなくなった部屋に、ハンナは溜息を吐きながら入ってきた。
「ハンナ様、……ミルチェ様は、いつもこのような事を?」
「ああ、アイム。貴女は初めて見るのね……」
つい数日前から働きはじめたばかりのアイミティアに、ハンナは肩を竦める。その新鮮な驚きを、ハンナは少し羨ましく感じた。
「今後もこういう事はあると思うから、……次は頑張って引き止めてね。」
「え、えぇ…はい。」
戸惑いつつも頷いたアイミティアは、どうやらこの数日で既に、ミルチェが少々、規格外の主であることを悟ったらしい。いつか動じなくなるのかな、とハンナは早くも新人の成長を寂しく思った。
「まあ……、でも、今回は大目に見ましょうか。」
アイミティアも関係ない立場とは言えないからか、彼女は苦笑を漏らす。彼女は彼女として引け目を感じているのかもしれない、とハンナはそんな彼女を見て思った。
だが、気にする必要など無い。ハンナはアイミティアの肩にぽんと手を置いた。
あの一連の事件は彼女の罪ではない。それにハンナとしては、ミルチェの為にしっかりと仕事をしてくれれば、過去の事など全く問題ないと思っている。
以前までの印象としては、少しばかり高飛車な印象だったアイミティアだが、仕事を任せてみれば、存外真面目に働いて、ハンナは良い人材が手に入った、とむしろ満足していた。
「さ、ミルチェ様が帰ってくるまでに、出来ることをしておきましょう。」
「はい。」
昨日までに、あの事件に関することは大方終わっているが、彼女たちの仕事は勿論それだけではないのだ。
「でも、ハンナ様。」
「はい?」
アイミティアはハンナの腕を取って、ハンナの歩みを止めた。ハンナが振り返ると、アイミティアは少しだけ眉根を寄せている。
「ハンナ様は少し休んでいて下さいませ。ここ数日、殆ど寝てらっしゃらないでしょう。」
後は私だけで出来ますわ、と言うが早いか、アイミティアは部屋を出て行った。
呆気にとられたままアイミティアを見送ったハンナは、何故バレているのかと溜息を吐いた。
確かにアイミティアの言う通り、ミルチェが戻って一週間、ハンナはあまり睡眠時間がとれていなかったのだが。
ハンナは仕方がない、と肩を竦め部屋を出た。
勿論、このまま仕事に行ってはアイミティアに怒られるので、少しだけ休むためだ。
ハンナは道すがら、この数日間の事を思い出した。
時は一週間前の夕刻に遡る。
素知らぬ振りをして戻ってきたミルチェから、ハンナは事の次第を聞いた。何も知らぬまま全て終わっていたことに、ハンナは愕然とした。
だがその後、まるで天啓のように、とある事をハンナは思い出したのだった。
「そういえば、ミルチェ様。前に、彼が誰かと口論していたのを覚えていますか?」
「ん? ああ、あったね、そんなこと。」
ハンナに問われ、ミルチェも大きく頷く。
王宮からの帰りが遅くなったミルチェを、ハンナが迎えに行った日のことだ。暗い中庭の木陰に隠れるようにして、ハーディルと誰かが何事かを言い争っていた。
「その時の、もう片方の男……、どこで見たのか、思い出しました。」
「思い出したの?」
目を瞬かせるミルチェに、ハンナ頷きを返す。
こうなった今としては、きっとあの日の口論も、この件と無関係ではない。その時いた、もう一人の男も、きっと。
ミルチェも考えは同じで、神妙な顔つきで、ハンナの言葉を待った。
「あれは、ロートレア伯爵家の従僕です。」
何年か前の事。出席したパーティーか何かで、ハンナは確かにあの男を見たのだ。ハンナは彼の家の情報を頭の中で整理していく。
ロートレア伯爵家。当主とその妻、それから嫡男がいた。また、ハーディルのウェルクライン伯爵家と同じく、過去に功績により領地を下賜された家だ。
ウェルクライン伯爵家と同じ、という点で、ハンナははたと我に返った。
ウェルクライン伯爵領と、ロートレア伯爵領は隣同士に位置している。故に両家は交流があったのだが、ここ十代ほど、折り合いがよろしくなかった。
その発端は、ロートレア伯爵家が、ウェルクライン伯爵家の領地ほしさに、兵を仕掛けた事にはじまる。
昨年、今年と食糧難が続いているウェルクライン伯爵領だが、本来は肥沃な大地を持ち、国の中でも比較的豊かな土地に当たる。一方で、ロートレア伯爵領は、急峻な山々が多く、人が住むのに難がある土地で大半が占められていた。
それ故の暴挙。ここ何年かは大人しくしているロートレア伯爵家だが、未だにウェルクライン伯爵領を狙っていると言われていた。
そこまで考えて、ハンナは思った。
まさか…、いや、でも……。
浮かんだ可能性を打ち消そうと、ふるりと頭を振る。だが、神妙な顔で考え込むハンナを前に、ミルチェも同じ結論に至ったらしかった。
「ロートレア伯爵家、ってことは、まさか、ウェルクライン伯爵領を狙って、今回の事件を……?」
あり得ない、とハンナは言えなかった。
例えば、ハーディルが暗殺を成功させていたとして、その捕縛に関与し功績を挙げたとすればどうだろう。おそらく取り潰しとなるだろうベルリーズ家に代わって、ロートレア伯爵家がウェルクライン伯爵領を賜ることは十分考えられる。
その上、ロートレア伯爵家は現在あまり王宮の中枢に入り込めていない状況からか、表立って口にこそ出してはいなかったが、現体制に不満を抱いている事は知られていた。
王が代わって、不利益にはならないということだ。
「ひとまず、あの夜の事。陛下にお伝えした方が、良さそうですね。」
それにミルチェが頷くのを確認して、ハンナはキースの側近たるエルム宛てに手紙を出したのだった。
その手紙が出された数日後。
夜半に一人の男が歩いていた。
場所は王都のうら寂しい路地裏だが、その男の装いは、その場所に似つかわしくない程に上等な仕立てだった。
一目で金持ちと分かるこの男が、この場所で身包みを剥がされず歩けているのは、単なる偶然に過ぎない。普段は屈強な護衛に囲まれて歩いていたために、そのような危機に陥らなかっただけなのだが、その事に男は気が付いていなかった。
そのため、気が急いていた男は、夜に単身でこの場所へと繰り出すという愚かな行為が出来たのだった。
一人歩く男は、苛立ちも露わに早足で、そして何事かをグチグチと言いながら歩いている。
聞く人もおらず、すっかり油断していた男は、その声が少々大きくなっていても気にしなかった。
「くそっ、もう少しで上手くいきそうだったのに!」
怒りをぶつけるように蹴った小石は、通りの壁に当たって、カランカランと転がっていく。
「いきなり外遊だと?! まさか、計画がバレたのか…? いや、そんなはずはない。あの王は奴を寵愛している。疑われることはまず無い。」
男はぎりりと歯軋りをする。
いつも涼しい顔で己の上に行き、その上、王の覚えもめでたいあの男を、この男は憎んでいた。
この計画が成功すれば、一族の悲願でもある、彼の領地も手には入るだろう。そうすれば、出来損ないと冷たい目をする父にも、初めて褒めてもらえるかもしれない。父も目の上のたんこぶである王が消えれば、きっと喜ぶだろう。
それなのに……!!
奴はあと数日で王都を出るらしい。そうなってしまえば、もう計画は頓挫してしまう。
ならば、と男は思う。
正直、男にとっては、隣の領地も、王の命も、奴の憎さに比べれば二の次、三の次だ。それが、自身では手すら届かない所に行くなど、許せることではなかった。
「ならば、奴が王都を出る前に、俺が……、俺が殺してやる! ハーディル・ベルリーズを抹殺してやる!!」
「その話、詳しく聞かせてほしいね。」
「なっ…!」
男が、何者だ、と誰何しようと口を開いた時には、男はもう既に地面に転がされていた。
男は知らなかったのだ。男がこの場所を歩いていて襲われなかったのは、ただの偶然ではなかった事を。
それは、男の周りを兵が取り囲んでいて、近付けなかっただけだったのだ。
「おまえ、フィーラスの―――」
「だから何?」
取り押さえられる男を見下ろし、彼、エルムは婉然と微笑んだ。
「君には聞きたいことが山ほどあるんだ。ロートレア伯爵家の馬鹿息子くん?」
夜の街に、男の悲鳴が響き渡った。
人知れず大取物があった夜が明け、程なくしてロートレア伯爵家は取り潰しとなることが決まった。
初めの王の暗殺事件に嫡男が関わっていた事が皮切りとなって、伯爵の収賄が明らかとなるなど、色々と重なった結果だった。
伯爵の息子は、我が身可愛さに様々な事を喋り、前々から嫌疑はかかっていた伯爵の汚職を明るみにした。そして、伯爵と懇意にしていた悪徳高利貸しの集団が捕まったのは余談だ。
そうして、突然に領主がいなくなってしまったロートレア伯爵領だったが、あまりに急な出来事であったために、今後どうするかが早急には決まらなかった。そのためひとまずの処置として、領地経営を隣の領主であった、ウェルクライン伯爵家に委託した。
その謝礼として支払われた幾らばかりかの金子により、食糧難に陥っていた領民も、病に喘いでいた伯爵夫人も、峠は越えることが出来た。
また、彼の家が人知れず抱え込んでいた借金の山は、その金を貸し付けていた金貸し達が、何故だか、消えてしまった。
そうして、取り立ても無くなったことで、実質消えてしまったのだった。
以上がこの一週間で起こった事柄の全てだ。
キースはそれらを反芻しながら、乗っていた馬を下りた。
来てしまった。
今キースは王都を見下ろす、高台に来ていた。キースは小さく溜息を吐く。
本当はこうしてその瞬間を見に行くことさえ、彼はしないつもりだった。
あの日以降キースは、その後処理に追われ、遊学の準備という名目で自宅謹慎、となっていたハーディルとは、会っていなかった。ハーディルが来ることはなく、キースも会いに行くことも、呼び出すこともせず、日々が過ぎていく。
エルムは気遣わし気な視線をキースに送るだけで、何も言わず、キースの意思に追従するように、ハーディルと会おうとはしないでいた。
結局、こうして一度も会うことなく、直接の見送りもエルムにまかせた。そうしてキースは今朝の、つい今しがたまで、努めていつも通りに、執務をしようとしていた。
だが今日、仕事がやってくることはなく、キースがハーディルを見送りに行く直前のエルムに尋ねてみれば、
『あー……、今日は一つも仕事はないので。……そうですね、お出かけでもなさったらいかがですか?』
と、言われたのだった。
仕事が一つもないなど、あり得ない。エルムが昨日のうちに手をまわしたに違いないとキースは思った。
急に暇になったキースだったが、それでも彼は、城にいるという選択も出来た。だが、結局キースはエルムの言葉通りに、馬を出して、港が見える展望台まで来ていた。
キースは、この高台に象徴のように生える木に、ふらりと寄り掛かって、また溜息を吐いた。
本当に来て良かったのだろうか。
見送る資格はあるのか。
あの日からずっと、キースは考えていた。
悩んで、悩んで、今も答えは出ていない。
この一週間、キースがハーディルと会おうとしなかったのも、後始末が忙しいなどと理由をつけはしたが、結局のところ、会うのが怖かったのだ。
この決断を下した自分をハーディルは、どう思っているのだろう。
彼の望みも、彼の犯した罪も、本来ならその行く末は、死だったはずなのに。
そう思うと、キースはすっかり怖気づいてしまった。
彼を殺すわけにはいかないとキースは思った。
自身の治世に側近として、必要不可欠な存在だと思った。
だからキースは、彼の罪を隠すことに決めた。
それでもキースは、心のどこかで考えてしまう。
これは本当に、客観的な判断によるものだったのだろうか。長い付き合いゆえの贔屓目ではないか、同情心ではないか、と。
そんな気持ちが、ハーディルと向き合う事への恐怖を誘った。今だって、こんな港が見えるか見えないかの所で立って、キースはそれを直視できないでいる。
だが、もうそろそろ出港の時間だ。
エルムは、ハーディルと会えただろうか。
簡素な旅装と、小さな鞄、それから一振りの剣。
それが今のハーディルの全てだった。
大きな河川にあるその港は、船に乗る人と、それを見送る人とでごった返している。もう乗船手続きは始まっている為、いつでもそれに乗り込める。だが都を去る寂しさが、ハーディルの足を引き留めていた。
きっと誰も見送りには来ないだろう。
アイミティアとは昨日の晩に、別れを済ませてきていた。だから、少なくとも彼女は来ないという事を、ハーディルは知っていた。
ハーディルはその時のやり取りを思い出して、ふっと思い出し笑いを漏らす。
昨夜。導師付きの侍女となって以来、あまり帰ってこなくなったアイミティアが、珍しく帰宅した。言葉少なに夕食を共にし、さあ寝ようか、というような時間になって、アイミティアは漸くハーディルに口を開いた。
『ディー兄様。』
神妙な面持ちをした彼女に、あえて今まで通り、どうした、とハーディルは優しく問いかけた。
もう、今生の別れになるかもしれない。
それならせめて、「罪人ハーディル・ベルリーズ」ではなく、「優しいディー兄様」で、最後くらい、いたかったからだ。
『明日、ですわね。』
何が、とアイミティアは言わなかった。
ハーディルも問いかけることはせずに、頷いた。
確認なんて必要ない。お互いに嫌というほど分かっていた。
『ねぇ、ディー兄様。……私たちは、陛下の恩情で生かされましたわ。』
『……そうだな。』
あの時のハーディルは無我夢中だった。自分一人が犠牲になれば、アイミティアも、父も母も、みんな助かる。そうハーディルは、本気で思っていた。
だがこうして、今冷静になって全てを再度考えなおしたハーディルは、それが間違いであった事を悟った。
ハーディルのした行い。それは、一家丸ごと、危険に晒す行為だった。
王の恩情無く、全ての罪が詳らかにされていたとすれば、死罪を賜ったのは、ハーディルだけではなかっただろう。
そんな事にさえ、気が付かない程、ハーディルはおかしくなっていた。
『ディー兄様……。ディー兄様は、全部自分が悪いって、そう、思ってらっしゃいますわね。』
『事実だろう?』
だが、アイミティアはふるりと首を振った。
『いいえ、悪いのは、ディー兄様だけではございませんわ。』
思いがけないアイミティアの言葉に、ハーディルは目を見張る。アイミティアは、静かに言葉を続けた。
『直接、罪を行った、という意味ではディー兄様が悪いのでしょう。でもそれは……、何も知らず……、知ろうとせず、ただディー兄様に甘えていた私も、同罪ですわ。』
『アイミティア……。』
違うと、ハーディルはそう否定したかった。
彼女に何も言わず、妹と、庇護すべき対象と侮って、何も言わずに事を起こしたのは自分だと、そう言いたかった。
だが彼女の真摯な眼差しは、ハーディルのその言葉を押しとどめさせた。ハーディルは何も言えぬまま、アイミティアの言葉を聞き続けた。
『だから……、ディー兄様。私は、その罪を償いに行くのですわ。無知は罪です。私は知らなければなりません。―――だから、導師の…、ミルチェ様の元で、働くことを決めたのです。』
今回、アイミティアが導師の侍女に任命されたのは、主に監視の意味合いがある。その事をハーディルは知っていた。
目の届く所にいてもらう必要はあるが、閑職にも要職にも就け難い。
その点、大神殿は都合が良かった。特に、導師付きの侍女となったアイミティアの、直接の上司と言える導師付きの女官は、国の中枢である大臣の娘である。
そこに、アイミティアの意思はなかった。きっと彼女が嫌がれども、結果は変わらなかった。
だが、アイミティアは「自分で決めた」とそう言った。
その言葉は、妹が自身の行いの為に、意に染まぬことをさせられているのでは、というハーディルが抱いていた危惧を、無用のものだと教えてくれた。
『だから、ディー兄様。』
『何だ?』
『ディー兄様が背負わねば、と思っているそれは、私がここで働くことで、償っていくことができますわ。』
―――だから、ディー兄様は、安心して遊学に出ればよいのですわ。
それが、アイミティアと昨夜の交わした会話の全てだ。
「あの子はやさしいな……。」
ハーディルはぽつりと独り言ちる。
自分にはもったいない妹だと、ハーディルは改めて思った。
あの最後の言葉は、こちらは気にせず、ただ旅行を楽しめばいい、そういう意味だ。
きっとハーディルは、そんな風に割り切ることなど出来はしない。だがそれでも、少しだけ心が軽くなった。
さて、とハーディルは眼前の船を見上げる。
もう幾ばくもせぬうちに出港だった。
ハーディルは、足元に置いていた鞄を取り上げ、歩きだそうとした。
その時。
「ハーディル!」
急に名前を呼ばれ、ハーディルはビクリと振り返る。
「エ、エルム……。」
そこには、キースと同じく、この一週間、終ぞ姿を見せなかった友人の姿があった。
「やっと、見つけた! まったく、人が多くてまいったよ。」
からりと笑うエルムは、以前と全く変わらぬ態度でハーディルの肩に手を置いた。
「来ると、思わなかった。」
「まさか。会わせる顔がない、とか何とか、ぼやいてた、キース様じゃあるまいし。……ああ、でも、多分あそこにいる。」
そう言って、エルムは山の方を指差す。その場所からなら、城下とこの港を一望できる。が、遠すぎて、ハーディルにはエルムの言葉の真相のほどは分からなかった。
分からなかったが、何故か、いるような、いてくれるような気がした。
ぐっ、と何かが込み上げる。
そんな感情抱く資格、ありはしないのに。たとえ遠くからでも、見送ってくれているなら、嬉しいだなんて。
ハーディルは滲む涙が零れぬうちに、服の袖で拭う。それを見てエルムが困ったように笑った。
「やっぱり、見送りに来て正解だった。」
「…何故?」
「そんな顔してると思ったから。」
そんな顔、とはどんな顔だ。ハーディルは視線で問いかけるが、エルムは笑ったまま答えなかった。
「ねえ、ディー。君の事だから、すっごく見当違いな反省をしてそうだから、一応聞くけど……。今回の事で、何が一番悪かった、と思ってる?」
「そんなの……、陛下に危害を加えようとしたこ―――った!」
ハーディルの額にデコピンが飛んだ。
地味に痛いエルムのデコピンに、目を白黒させながらハーディルは額を抑える。
何が一番悪かったか、なんて、一つに決まってる。ハーディルはその答えに確信を持っていた。だから、何故額を弾かれねばならぬのか、ハーディルには皆目見当がつかなかった。
何故、という顔をハーディルがしていると、エルムがにっこりと微笑んだ。
が、目が笑ってない。
「ほらね、やっぱり見当違いな反省だ。それに関しては、事情を知ってる者は、ある程度同情してるし、あとは、裁かれるべき罪である、という意識だけだ。」
「じゃあ、何が……」
まだ分からないのか、とエルムは肩を竦める。
だが、他に何かあったか、とハーディルは本気で首を捻っていた。その様子に、ついにエルムも大きな溜息を吐いた。
「あのね、これに関しては、僕も怒ってるんだよ? 導師と、特にアイムちゃんにあれだけのビンタ食らっておいて、分からないの?」
ハーディルには、さっぱり分からない。
理解しそうもないハーディルに、エルムは呆れたように小さく首を振って、それから、ハーディルの目を真っすぐ捉えた。
「君が、自分の事、替えのきく存在だと思ってたこと。……これに、キース様も、アイムちゃんも、そして、僕も。―――皆、怒ってる。」
ハーディルは、エルムのその言葉を聞いて、ようやく思い出した。導師に、そしてアイミティアに頬を張られた時の事。
どちらも、自分の命を蔑ろにする発言をした後だ。
「それにね。陛下の護衛は他にもいる、っていう発言についてだけど。そんな事ないからね?」
「え?」
「宰相見習いだけじゃなくて、陛下の魔術師も兼任してる僕が、安心して背中を預けられる人なんて、君以外、いないんだよ?」
わかってる? とハーディルはエルムに睨まれる。
だが、睨まれているにも関わらず、ハーディルは、胸がいっぱいになった。そして、少しだけ悲しくなった。
こんなにも、望まれていた地位を、自ら手放したのか、と。
だが、次のエルムの一言で、その気持ちは簡単に吹き飛ぶ。
「だから、早く戻ってきてよ? 旅先で死ぬなんて許さないから。」
その言葉は慰めだろう。ハーディルはもう二度と、王都の土を踏むことはない。だが、それでも、待つと、その言葉を言ってくれる人がいる事が嬉しかった。
ハーディルは、込み上げる涙をぬぐった。
ああ、もう出港だ。
「だから、また。ディー。」
だから、また、は無いと知りながら、ハーディルもこう返した。
「ああ、またな。エルム。」
そして、ハーディルは振り返ることなく、船へと乗り込んだ。
もし、もしも、もう一度ここに降り立つことが出来たなら、あの方に全てを捧げようと、心に決めて。
「キース。」
突然声をかけたからか、キースはビクッと身体を震わせて、ミルチェの方を恐る恐る振り返った。
「ミ、ミルチェ?」
なぜここに、という顔をしているキースだが、今はそれより重要な事がある。ミルチェはキースに笑顔だけ返して、展望台の落下防止柵の方まで駆け寄り、下を覗き込んだ。
「わぁ、良い眺めね!」
城下と、そこに流れる太い大河が一望できる。その川の一角に、大きな船が泊まっていた。
どうやら、あれが件の船のようだ。
「キース? もっとこっちに来ないの?」
木の傍から離れようとしないキースに、ミルチェは手招きする。だがキースは、いや、だとか、しかし、だとかを、もごもごと言うだけで、一向にミルチェの方へ近寄ろうとはしなかった。
仕方なく、ミルチェがキースの傍に戻る。
「どうしたの? 見送りに来たんでしょう?」
もう時間は、出港間近だ。
この木の傍からでは、川の対岸が見えるくらいで、船を見ることは出来ない。これでは、見送りに来た、とはいえないとミルチェは思う。
ミルチェは俯いてしまったキースに、もう一度、どうしたの、と問いかける。するとキースは、観念したのか、ぽつりと呟いた。
「私に、見送る資格があるのか、と考えていたんだ。」
「答えは出たの?」
キースは力無く首を振った。
この様子では、ずっと考えていたのだろうと、ミルチェは思った。
ミルチェはそんなキースに仕方ないな、と肩をすくめて、その彼の手を取った。
「ここまで来て、見送らなかったら、きっと後悔するわ。だから、行きましょ!」
そういって、その手をぐいと引っ張る。
不意を突かれたキースはたたらを踏んで、数歩前に出る。そしてそのまま、ミルチェの手に導かれるままに、彼女を追って走った。
柵まで辿り着くと同時に、遠くでボーッと汽笛の音が聞こえた。
船が港から離れていく。
そして、船はぐんぐんと速さを増して、やがて見えなくなっていった。
船が見えなくなっても、二人は暫く無言でその光景を見つめていた。
「行っちゃったね。」
ミルチェがぽつりと呟くと、キースも頷いた。
「ミルチェ。私のしたことは、正しかったのだろうか……。」
「それは、ハーディル様の罪を隠した事? それとも、生かした事?」
それともそれ以外だろうかと、ミルチェはキースの反応を窺う。
だがそのミルチェの問いに、キースは少し考えるように瞠目して、そして小さく、分からないと首を振った。
「強いて言うなら、全て、なのかもしれない。」
ミルチェは、キースが何を思い、考え、今回の決断を下したのかを知らない。
だが、きっと沢山悩んで、苦しんだのだろう。絞り出すようなその声に、ミルチェはその片鱗を見た。
「私は本当に、王、として…、決断を下したのか。それに自身が持てない。」
「キース……。」
苦し気に内心を吐き出すキースに、ミルチェはただ話を聞くしか出来なかった。
それでもミルチェは、何か、彼が楽になれるようにしたくて、彼女は気が付くと、キースの背中に腕を回し、彼を抱きしめていた。
ミルチェが少し背伸びをして、あやすように彼の頭を撫でる。すると、キースは縋るように、頭をミルチェの肩口に押し付け、その腕を同じようにミルチェの背中へと回した。
「……私には、貴方が正しいのか、そうでないのか。正直分からないわ。」
彼が求めているのは、上辺だけの慰めではないだろう。だから、ミルチェは正直に言った。
キースはそれに何も言わず、ただ小さく頷く。
「でもね、キース。分からない、分からないけど……。ただ、ハーディル様が生きていて良かったと、思うわ。」
はっとしたように、頭を上げたキースに、ミルチェは微笑んだ。
だって、そうでしょう。彼がもし、死んでしまっていたら。こんな風に悩む事さえ、出来なかったのだから。
「良かったか、悪かったか、なんて、ずっと後にならないと分からない…。そうでしょ? だからもし、未来で駄目だったのなら、その時にどうするか、考えればいいの。」
ね、とミルチェが言うと、キースはぽかんと彼女の顔を見つめる。
「……その時は、一緒に考えてくれるか?」
少し不安げにキースは問うた。そんなキースに、ミルチェはにっこり笑った。
「もちろん!」
そう言って、ミルチェは大きく頷く。
キースはそんなミルチェに、ようやく安心したように笑った。そして、ミルチェをぎゅっと抱き寄せた。
「それなら…、きっと大丈夫だな。」
ミルチェもキースを抱きしめ返す。
これからもずっと、彼の傍にいよう。
そう、思いながら―――