第一話
第六章その真相と思惑
―――キース!
その声が聞こえた。
聞こえた瞬間、ハーディルしか、いやハーディルさえもいなかった世界が開けた。
そしてキースは、今、殺そうとしていた相手の顔が、ようやく見えたのだった。
だから、大きな間違いを犯す、その前に、キースは踏みとどまることが出来た。
キースは振り下ろした剣を、彼の肌に触れる直前で、止めた。
「キース様……」
体勢を崩して、ハーディルは後ろに尻餅をついた。そのまま、首元の、その直前で止まったその刃を見、ハーディルは呆然とキースを見上げた。
「ハーディル。……何故、なんだ。」
ハーディルの首元に、その剣を突き付けたまま、キースは問いかけた。
自分は今、どんな顔をしているだろう。
ハーディルの自嘲するような顔を見ながら、キースは思った。
「それは……、導師を拐かし、貴方に剣を向けた事に対して、ですか。」
「いや。」
キースは静かに首を振る。
ハーディルが言うその理由、キースはもう知っていた。だからキースは、ハーディルの誘いに乗ってここまで来たのだ。
だから、キースが問いたいのは、そんな事ではない。
首を振ったキースに、ハーディルは少し目を見開いた。そしてハーディルは、それじゃあ、何に対してか、とキースに目で問いかける。
何故、分からないのか、と理不尽とも言える憤りが、キースの胸に込み上げる。その怒りをいなすように、キースはギリッと歯を食いしばった。
問いたいのは、一つだけだ。
「何故、死のうとした。」
「………。」
キースが言うのは、あの瞬間。
確かにキースは、ハーディルの隙をついた。あのままその腕を振り下ろしていれば、確実にハーディルは死んでいただろう。
だがそれはハーディルが、抵抗らしい抵抗をその時全て、止めてしまったからだ。彼がその気になれば、傷は負ったにせよ、致命傷を避けることくらいは出来たはずなのに、だ。
ハーディルはキースの視線から逃れるように俯いた。
そして思い出したようにハーディルは、広間の入り口で座り込んでいる妹、アイミティアに視線を向けた。
その視線を受けて、アイミティアはびくりと肩を揺らしたが、ハーディルは彼女にひどく穏やかに微笑んだ。
そしてその顔のままハーディルは、キースをもう一度見上げる。
「私が死ねば、全てが丸く収まると、思っていたんですよ。」
「お前は……」
キースは何を言えばよいのか分からず、口を閉じた。
ハーディルが今回の事を起こした理由、それを端的に言うならば、金が必要だった、ただそれだけだ。
ハーディルの家はささやかな領地を持ってはいるが、決してそれだけで贅沢が出来るほどではない。彼らが王族の傍近くにあれるのは、代々王家に忠誠を尽くしてきた実績ゆえ。王宮に仕える上で、給金なども発生するため、今まで通りの暮らしであれば、金を無闇に欲する必要はなかったはずだった。
だが、今までの生活、それが出来ない事象が発生した。
一つが、昨年の食糧難。それによって備蓄は殆ど底をついており、今年の分も昨年の影響で、それほど穫れなかった。
そして、もう一つがハーディルの母、ウェルクライン伯爵夫人の病気の悪化だ。かの家は必死にその事実を隠そうとしていたが、少し調べれば誰でも分かる話だった。
そして、何故、その事実を隠しているのか。それは、その医療費の為に、多額の借金をしたから、だ。
だが、その借金はどんどんと膨らみ、どうにもならない事態にまで発展しつつある。このままいけば、破産するしかないほどに。
その中でハーディルは、高額の報酬と引き換えに、王の暗殺を請け負った。
はじめの事件も、ハーディルが自ら矢を射かけた。彼は王の側近ゆえに、大神殿への立ち入りが可能な立場だった。結界に阻まれないのは、当たり前だ。
だが、暗殺は失敗した。
それならば、次の手を。その次の手は、今だ。
だがキースは思う。ハーディルは、本当に暗殺する意思があったのだろうか、と。
最初の事件に使われた矢は、ハーディルならば当然、簡単に手に入る軍支給の物。だが、発覚を恐れるならば、違うものを使うべきだし、彼はそれが分からぬ人間ではない。そして、毒も致死毒ではなかった。
これを首謀し、ハーディルに依頼した人間と、どのような契約をしたのか。それはキースには分からないが、成功可否に関わらず、ある程度報酬が得られるという約束なのかもしれないと、キースは思っていた。
だから、キースは誘いに乗った。
死んでやることはさすがにできないが、それでも、せめてと。
だから、キースが今怒りを感じるのは、そこではない。
「お前は、お前が死んでも、平気な人間だと、思っていたのか?」
私の事を。
平気なわけがない。
臣下としてだけでなく、ずっと友として隣にいた男が、いなくなる。
それも、自分のこの手で。
それが、平気なはずがないのに。
だが、ハーディルは諦めたような笑顔で、それを肯定した。
「……そうです。貴方はきっと、悲しむでしょう。……でも、それだけだ。」
そんなわけがないだろう、と怒りでキースの頬が朱に染まった。だが、それを見てもハーディルは穏やかに微笑んだままだった。
「陛下。初めて、木刀で模擬試合をした時の事、覚えていますか。」
「あ、ああ……。」
一体、突然何の話を、とキースの怒りに染まっていた心が、少しだけ冷静さを取り戻した。
「あの時、俺は負けたでしょう、貴方に。」
「ああ、だが、それは……」
キースが魔術を使い、少しだけずるをした。だからだ。
「ええ、知ってます。けど……、そんな事、関係なかった。あの時、思ってしまったんです。―――貴方に俺は、必要ない、と。」
「……!」
あの時まで、いずれ、彼を至上の主として、守ってゆくのだと、そうハーディルは思っていた。言葉として自覚をしたことはなかったかもしれないが、ずっと潜在意識にあった。
だが、ああしてキースに負けたハーディルは思った。
この人は、俺が守らなければならない人では、ない。
その気持ちは、ハーディルが成長し、剣の腕でキースがハーディルに敵わなくなった後も、消えることなく、しこりのように残り続けた。
それは、今も。
「俺が死んでも、代わりはいる。」
その言葉にキースは絶句した。
自身にとってのハーディルの価値を、これほどまでに軽んじられていた、憤りか、悲しみか。言葉にならないその思いで、キースは頭が真っ白になった。
だから、キースはハーディルとの間に割って入った、人影に気が付くのが遅れた。
―――パァン!!
空気を切り裂くようなその音に、キースも、そしてその頬を張られたハーディルも、はっとして、その二人の間に立つ彼女、ミルチェに目を見張った。
我慢ならなかった。
ハーディルが生きている事にほっとしたのも束の間、交わされる二人の会話。
ミルチェは黙って聞いているつもりだった。他人の自分が割って入るものではないだろうと、そう思っていたからだ。
だが、気が付けばミルチェは立ち上がっていた。そしてそのまま二人の間に割り込み、その勢いのまま、ハーディルに平手打ちを食らわせていた。
きょとんとしているハーディルを、ミルチェは見下ろす。
「ふざけないで!」
感情の高ぶりからか、ぽろと零れた涙を、ミルチェはぐいっと乱暴に拭った。
だがそれ以上、言葉が出てこない。何を言えばいいのか、何と言えばいいのか、言葉が纏まらない。
色々思う事はあった。そしてそのどれもが、自分が言ってよいものなのかという迷いも。
それでもミルチェは、言わずにはいられなかった。
「どうして、そんな風に、自分が傷付くような言い方をするの?」
ハーディルの言った事は、きっと真実の一端なのだろうと、ミルチェも思う。会って少ししか経っていないミルチェには、それを嘘と断じることも、真実と述べることもできはしない。
けれどこの短い時間の中でも、彼がキースの事を大事に思っているというのは、疑いのない事実として、ミルチェの目に映っていた。
だから、だからこそ、ハーディルはこんな言い方をするのだ。ミルチェはそう思った。
王族に歯向かえば、それは大罪となる。その断罪の時に、キースが気に病まぬようにと。こんなことをしでかした人間に、重い罰を与えるのは当然だと。
でも、こんなやり方では、駄目だ。
ただただ、キースの中にハーディルが金のために裏切った、その事実だけが残る結果にしかならない。
だから、ミルチェは言った。
「ねぇ、これは、ただの推測だから、本当の事は分からない。けど、もしかして……」
ミルチェはそこで言葉を切り、ハーディルから視線を外す。そして、未だ呆然と事の成り行きを見守っていたアイミティアに、ミルチェは目を向けた。
「アイムが、絡んでるんじゃない?」
ハーディルと、そしてキースが息を飲んだ。
ハーディルは何も言わない。だがその表情から、その推測は外れてはいないのだろうと、ミルチェは思った。
「何故、そうお思いに?」
「……ただの勘。」
その言葉に嘘はない。
だが、ハンナと城からの帰りに見かけたハーディルの妙な様子。そこから、ハンナはすぐさま調査を開始していた。その結果、ハーディルと別にもう一人いた男についてはよく分からなかった。しかしあの事件の前後辺りから、ハーディルがアイミティアの身辺に気を使いはじめたらしい、と調べが付いた。
状況証拠とも言えぬような事柄ばかりのそこから、ミルチェが勝手に推測しただけ。だから、ただの勘、だ。
「ディー、それは……」
本当なのか、というキースのその声は、消え入りそうなほど小さく、言葉として届いたのはミルチェくらいだろう。キースはふらりと近付いて、そうしないと崩れ落ちると言わんばかりの様子で、ミルチェの肩を掴んだ。
もう誤魔化せないと、ハーディルは悟ったのか、ふいとミルチェから視線を逸らして、彼は言った。
「たしかに、導師、貴女の推測通り、アイムへの危害をちらつかされてはいました。……ですが、それに屈したのは私です。」
それを言い訳にしたくなかった、ハーディルはそう言った。
「罪を犯したのは私です。陛下、なんなりと罰を―――」
「待って!!」
呆然としていたアイミティアがようやく動いた。
まだ動揺しているのだろう。もつれる足を必死に動かして、アイミティアは転ぶような勢いでハーディルに抱きついた。
「お兄様は、私のせいで、こんな事をしたと……?」
アイミティアは目に涙をいっぱい溜めて、震える声で兄へと問いかける。そんなアイミティアに、ハーディルは困ったように笑いかけ、頭を撫でた。
「それだけじゃない。金が必要だったのは本当だ。」
初めの時、ハーディルは導師を狙った。致死毒にしなかったのは、万が一にも死んでしまわぬようにだ。
アイミティアの命が掛かっているとはいえ、殺してしまう事は出来なかった。その点、導師ならば、王の治癒魔法で傷を負ってもすぐに治せる。
そうして、きちんと狙ったふりをして、少なくともアイミティアだけは、どうにかしよう。ハーディルはそう考えていた。
キースに当たったのは、その矢に気が付いたキースが動いてしまったために過ぎず、ハーディルとしても誤算だった。
だが、どちらにせよ、それで終わりだった、はずだった。
しかし、ハーディルの目論見は外れる。その後もう一度、この計画を立てた人物からの接触があった。もう後がない。ハーディルはそう思った。
「だから、今回はこうした。ここで俺が死ねば、もう…。だから……」
王を狙い、そして返り討ちにあう。そうすれば、全てが終わる。
ハーディルはそう考えたのだ。
ハーディルはひどく饒舌だった。もう全てばれてしまって、隠す必要が無くなったからかもしれない。
ミルチェはそう思いながら、事の次第を話すハーディルを静かに見ていた。
だが、アイミティアはそのハーディルの説明に、眦を吊り上げる。
「私は、お兄様に守ってもらわねばならないほど、やわではありませんわ! それに、お兄様がいなくなった後は、どうするおつもりで……!」
「陛下の護衛を務められる人材はいくらでもいる。ウェルクライン伯爵家にはお前がいる。……、お前がやわでない事は知ってるさ。けど、もう兄妹を失いたくなかった。友を傷付けるのも。」
ハーディルは、アイミティアとキースを見る。ハーディル自身は大変満足そうな顔をしていたが、その視線を向けられた側は心中穏やかではなかった。
そして、アイミティアがふらりとハーディルから一歩距離を取ると、カッと目を開いて、手を思いっきり振りかぶった。
「ディー兄様の、馬鹿!!」
その言葉と共に、ミルチェがぶった所と全く同じ所に、手が飛んだ。
二度の平手打ちを受けたハーディルの頬は、少しミルチェが可哀想に思うほどに、赤く腫れていた。
「どうしてわかりませんの?! お兄様が言ったその言葉、私達が同じように、嫌だと思っているって!! お兄様が死ねば、キース様は友を。私だって、また兄を失うのです!」
「アイム………」
アイミティアがもう一度、兄を抱きしめる。言葉に詰まったハーディルは、ただ、アイミティアの背を撫で続けた。
その後、キースの後を追っていたエルムと、ほんの少数の兵によって、ハーディルは連れていかれた。
連れていかれた、と言っても、縛られたり拘束されたり、といったことはなく、傍目にはただ出て行っただけのように映った事だろう。アイミティアも、兄の傍にくっついて離れず、共にこの場を後にしていた。
そのため、今はこの場所にいるのは、キースとミルチェ。
二人だけだった。
「キ…陛下。」
ハーディルが去った後を、ぼんやりと見つめたまま立ち尽くすキースに、ミルチェがそっと声をかける。その声にはっとして、キースは振り返った。不安げな顔をするミルチェに、キースは笑顔を浮かべる。
「キースでいいよ。さっき、呼んでくれただろう?」
「わかった、キース。……ね、そろそろ戻ろう?」
キースの気持ちに応えるように、笑顔を浮かべたミルチェの言葉にキースは頷いて、彼女の手を掴んだ。
ミルチェがいなければ、このまま永遠にでもここに立ったままだったのではないだろうか。キースはミルチェの手を引きながら、そう思った。
ハーディルをただただ見送り、ここから動く事すら考えられぬほど、動揺していた。
突き詰めて言えば、ハーディルはキースを裏切っていたわけではないのだと、キースは思った。
だが、それでもその心情は複雑だった。
何故気が付けなかったのだろう。ハーディルの家の状況も、もっと早くに気が付けば、何か出来たのではないか。
キースの胸を後悔が襲う。
アイミティアの事にしてもそうだ。少し気を付ければきっと、ハーディルの行動の原因に気が付くことができていたはずなのに。
キースは、自分は冷静だと思っていた。
だが、心の奥底では、金と自分とを天秤にかけたハーディルに、キースは憤っていたのだ。その思いに支配されて、気が付いたはずの多くの事に気が付かなかった。
キースはようやく、その事に気が付いた。
ミルチェやアイミティアが、彼を張り倒さなければ、自分が殴っていたかもしれない。
いや、突き付けていた剣を使っていたかもしれない。
その可能性に思い至り、キースは遅まきながらぞっとする。
頭に血が上っていた。
本当に冷静になれた今なら、それがよく分かった。
「ミルチェ、私は…どうしたらよいのだろうね。」
「キース、それは………」
困ったように狼狽えるミルチェに、キースは苦笑を漏らす。
「わかってる。意見を求めているわけじゃないんだ。」
そもそも何について、なのかさえもキース自身、分からなかった。
ハーディルの今後か、彼との関係性か、アイミティアの事か。
今は何も考えられなかった。
ただ何か、心に溜まった何かを、キースは吐き出したかった。
それを、ミルチェに聞いてほしかった。
だからキースは、思いつくままに、口を開いた。
「……私は、次男だった。」
突然、口を開いたキースに、ミルチェは少し困惑したような顔をした。だが結局は、黙って頷き、キースに続きを促す。キースもそのまま話を続けた。
「―――だから、王位は兄が継ぐと思っていたんだ。」
王位継承は、印の発現に全てが委ねられている。そのため、王族なら誰でも、次の王位につく可能性があるのは確かだ。
とはいえ、やはり過去の例を考えると、時の王の長子に引き継がれる事が多かった。
だから、印がキースに引き継がれるその瞬間まで、キースは己が王位につくなど微塵も考えた事はなかった。むしろキースは、いずれは王となった兄を支えていくのだろうと、そう思っていた。
野心はなかった。
だから傍に置くのも、エルムとそして、ハーディル。そして、その兄妹くらいで積極的に貴族の子弟たちを取り込もうとはしなかった。
「だから、王となる以前から傍にいる……、友と、そう呼べるのは、エルムと、ディー……、彼らくらいだ。」
キースはそこで言葉を切って、帰りの馬車に乗り込んだ。
キースは繋いだミルチェの手が離せなかった。
彼女はそれに文句を言う事もなく、馬車に乗った後もその手を離さず、キースの対面ではなく隣に座った。
ミルチェが座席に座ると、ゆっくりと馬車が動き始める。キースはそれに合わせるように、話の続きを再開した。
「だから、腹が立った。」
少しは冷静さを取り戻したキースだが、思い出せば腹が立つ。
金目当てに裏切ろうとしたことではない。自身の状況について何も言わなかったことでも、勝手に死のうとしたことでもない。
いや勿論、全てに腹は立った。
だがキースが、本当に腹を立てたのは、それではなかった。
「私は、あいつが自分を、代わりのきく存在だと思っていた事に、腹が立った。」
ハーディルの言うことも、否定はしない。護衛という職、ウェルクライン伯爵家の跡取り、という役職だけを見れば、代わりはいる。
だが、そうじゃない。
そんなものなど関係なく、代わりのいない人なのに。
「だから、ミルチェ。」
「はい?」
キースは繋いだ手に力をこめて握った。
「ありがとう。」
ミルチェは、何が? という顔で首をかしげているが、キースは気にしなかった。
あの時、止めてくれてありがとう。
あの時、怪我をした私を心配してくれてありがとう。
あの時、私の前に現れてくれてありがとう。
あの時、君が私の導師になってくれてありがとう。
色々な想いが混じりあって、これ以外の言葉が見つからない。
「君に出会えて良かった。」
キースは繋いだ手を持ち上げて、その指先に口付けを落とした。
それに赤くなって慌てるミルチェに、キースはいたずらが成功したような顔で、片目を瞑った。
君がいなければ、ずっと沈んだままだっただろうから。