七章ひととせ
一年ぶりにあった弟はかなり背も伸びて、前に会った時の病弱な様子がさっぱりなくなっていた。
「お久しぶりです、兄上。」
にこりともせずリアンを迎えたアザリスは、そう言ってリアンを中へと招き入れた。笑顔で迎えられるとはさすがのリアンも思っていなかったが、意外な出迎えにリアンは虚を突かれた顔で、それに従って、中へと足を踏み入れた。
「まだ、兄、と呼んでくれるのか……。」
そうひとりごちると、アザリスは心外だというように眉根を寄せた。
「兄上は兄上でしょう。」
アザリスは素っ気なくそう言うと、こっちですとリアンを先導して歩いて行った。
黙ってしまったアザリスにただ着いて行きながら、そっと辺りを観察していた。屋敷は掃除が行き届いていて、過ごしやすいよう整えられていた。アザリスはそう早足ではなかった為、屋敷を見渡す暇は十分にあったが、足を止めることもなく、口を開くことも無く、ある扉の前につくまで歩き続けていた。
本当は、アザリスにも色々と、謝罪だとか、言いたい事もあった。だが、会話自体拒むような彼の様子には、言葉をかけることすらためらわれた。
そして、アザリスが足を止める。この扉の前で止まったということは、きっとこの先に彼女がいる。アザリスと語れる機会もこれで最後か、とリアンは少し寂しく思いながら、その背中を見ていた。
だが、アザリスはその扉を叩こうと手を上げかけた。だが、それは扉に叩かれることなく、その手は下ろされた。
「アザリス……?」
そのまま扉に向かって黙っているアザリスに、一年ぶりにその名を呼び掛けた。すると、アザリスはくるりと振り返って、リアンの目を真っ直ぐと見る。
「リアン兄上。」
覚悟を決めたようなその顔に、リアンも居住まいを正した。
何を言われるのだろう。もしかしたら、殴られるのかもしれないが。もっとも、はじめから一、二発は殴られてやるつもりだった。
リアンが些か緊張しつつアザリスの言葉を待っていると、彼も一度大きく深呼吸して、リアンをもう一度見た。
「兄上にあったらまず、一発殴ろうと思っていました。」
リアンは、ああそうだろうな、と思いながら、ふと違和感が過った。
「……『でした』?」
アザリスは頷く。そう言った通り、アザリスの拳は振り上げられることなく、静かに立ったままだ。その表情も凪いだままで、彼から怒りのような感情は見て取れなかった。
「兄上は母上を傷付けました。それが、貴方を殴ろうと思った理由です。」
それについては、リアンは何も言えなかった。まったく彼の言うとおりだった。リアンの身勝手で、アザリスが失ったものは多い。それは分かっていた事だ。だから、アザリスが殴らせろというのなら、好きなだけさせてやろうとさえ思っていた。
「兄上。」
アザリスが静かに呼びかける。
「どうして、そんな顔してるんです。……そんな、辛そうな顔を。」
リアンは言葉に詰まった。口を噤んだ。
辛そうな顔など、していない。その言葉は言うことが出来なかった。
そして、この一年、ずっと辛かったのだと悟った。
黙ってしまったリアンに、アザリスはもう一度、兄上、と呼びかけた。
「兄上、僕達は今、不幸ではありませんよ。僕達が処刑台に行かなくてすむように、手を尽くしていた事、知ってます。」
「アザリス、俺は……。」
そんな風に言われることはしていない、そう言おうとしたリアンを、アザリスが首を振って押しとどめた。
そして、アザリスはリアンに微笑んだ。
それは、今日初めて見る彼の笑顔だった。あの頃と何も変わらない、リアンを慕っていた弟のものと、全く変わらない笑顔だった。
「でも、母上は少し寂しそうなんです。」
そう言いながら、アザリスは背後にしていた扉を叩いた。
「兄上も同じなんじゃないですか?」
アザリスはリアンの返答を待たず、その部屋へとリアンを押し込んだ。
扉の隙間から見たアザリスは、見知ったものより、少しだけ大人びて見えるものだった。
そうして、閉ざされた扉に救いを求めるかのように見ていたリアンだったが、その扉が再び開く事は無いようだった。
振り返ることは出来なかった。
怖かったのだ。
その時。
「リアン。」
そうして、聞こえてきた声に、リアンは胸が潰れるのではないかというほど、鼓動が打ち付けるのを感じた。
顔など見なくても分かる。
ずっと、ずっと、聞きたかった声。
リアンは恐る恐る振り返った。
「ひさしぶりね。」
一年の時間など感じられない。
どうして。
だけれど、嬉しかった。
彼女は、あの頃と何も変わらない笑顔で、リアンを迎えるのだ。
もう、止められなかった。
「リーズ。」
言いたい事もあったのに。この愛称を呼ぶ資格もないのに。
でも、やはり、それ以外は出てこなくて。
全てが吹き飛んで、零れるように紡がれた。
ただ一人の愛しい女の名前。
じっと部屋で待っていたのは、ただ、彼を迎える勇気が無かったからだ。
だから、遂にその時が来て、扉が叩かれた時、異様なほど心臓がうるさくなって、手も震えた。
興奮か、恐怖か、ウェルリーズには分からなかった。
だが、時間は待ってはくれずに、すぐに扉が開いて、この一年で随分と背が伸びた愛息子のアザリスが、彼を部屋の中へとおしこめ、あっという間に扉を閉めていった。
ウェルリーズのいる場所からは、彼の表情を窺い知ることはできず、そしてなぜか、彼もこちらを向こうとしなかった。
「―――っ」
唇が震える。
上手く声も出ない。
ウェルリーズは自分の喉を抑えた。
ああ、どうして……?
反応が恐くて、あの、ぞっとするほど冷たい目を向けられるんじゃないかって、怯えていたのに。
ウェルリーズは、彼を振り向かせたくて仕方がなくなっていた。
「―――リアン。」
やっとの思いで出した声は、微かに震えが混じっていた。
彼が振り返る。
やっと見れたリアンは、一年前に比べて少しやつれている気がした。
でも、それだけで。
それ以外、何も変わっていなかった。
ひさしぶり、と口では言っても、それに違和感を覚えるほどなのだ。見飽きることのなかった優しい闇色は、何も変わっていない。そして自分のこの気持ちも。
でも、まだ少し怖かった。反応が、怖かった。
けれど。
「リーズ。」
あの頃と、何ら変わらぬ声で、そう、呼ぶから。
もう全て忘れてしまった。拒絶される恐怖、彼の嘘も、全てが。
もう、何も考えられなかったのだ。
ただ、ウェルリーズは走った。
愛しい男の腕に抱かれる、ただそれだけのために。
ウェルリーズは走った勢いのまま、リアンに抱きついた。
リアンもそれが当然のように彼女を受け止めて、後ろの扉に背を強か打ち付けたがそれを気にする素振りもなく、彼女の背に腕をきつく回して、二人はそのまま床へと座り込んだ。
二人は抱き合ったまま動かなかった。まるで少しでも動けば、相手が消えてしまう、とでもいうかのように。ただ、互いにまわした腕に力を籠める。
「ごめん。」
静まり返った部屋の中で、リアンから零れるように謝罪の言葉が落ちた。
その謝罪は何に対するものなのか。
ウェルリーズはただただ頭を振った。
その謝罪の本当の意味は、二人すらも分かっていなかったのかもしれない。
ただ今は、お互いの体温に身を任せて、目を閉じる。
これだけで、十分だったのだ。