六章闇色の

 王都はすっかり春の陽気であったが、国の最北に位置するこの場所まで来ると、まだ雪も解け残り、肌寒さが残っていた。こんなに気温が違うのか、と驚いたが、不思議とこの小高い丘まで来ると、日差しが差して暖かかった。

 眼前にあるのは、北の離宮。別名、花離宮とも呼ばれる宮で、その名の通り、辺りには麓の村より一足早く春が訪れ、小花がそこかしこに咲いていた。

 男はふと足を止め、その足元に咲く、蒼い小さな花に触れた。優しく愛撫するように。愛おしげな微笑みすら浮かべて。

 だが次の瞬間には、その一瞬前の表情が幻だったかのように、厳しい表情で再び前を向き、眼前の離宮を目指して歩き出した。


 あの日から、一年。

 この日が来てほしかったのか、それとも、来てほしくなかったのか。

 足取りは酷く重いくせに、心ばかりが逸った。

 会いたいのか、それすらも分からない。

 いや、本当は。

 ただ、あの日拭えなかったあの涙を、拭ってやりたいだけなのかもしれない―――




 初めて会った時の彼女の印象は、後になっても酷く鮮明に覚えていた。


 十歳を迎えたリアンの元にやってきた王の使い。そう名乗った男に連れられ、王城の門を初めてくぐった。そして、初めて「父」と会って、そして、会ったのだ。

 深い海のような蒼玉(サファイア)の瞳に。

 後に「義母上」と呼ぶようになるその女の目を、こわいくらいに美しい、そう思った。

 だが、リアンに目線を合わせるように膝を折って、その女が微笑みかけると、先程までこわいとさえ思っていた美しい蒼が、とたんに優しい色になって、ひどく惹かれた。

 だが、その美しい蒼、それにほだされそうになった時、まるでそれを咎めるかのように、別れ際の母の言葉が浮かんだ。

―――あなたは王の子なのだから。

 もしかすると、何の気なく口にした言葉だったのかもしれない。だが、幼いリアンには、強い意味を持った言葉に感じたのだ。

 王の子、その言葉に相応しい人物たらねばならない、と。

 その思いは、この王都に着くまでの間に、知れずに歪んだものとなっていった。

 王の子、嫡子となれ。

 そういうものに。

 だが、幸か不幸かリアンは聡い子供だった。その「望み」を叶えるには、要求するだけでは無駄だと既に知っていた。

 地方からやってきた、純朴な少年。それが彼に与えられた役割だということも。

 リアンは目の前の義母に照れたようにはにかんで、よろしくおねがいします、と小さく頭を下げた。

 そうしてリアンは、彼らと「家族」になったのだ。




 それから五年も経たぬうちに、リアンは聡明で弟思い、野心の無い理想の王子としての地位を確立し、だが、裏では着々と準備を進めていた。王妃の生家アブミット家と敵対するウィステラーレ家と繋がりを持ち、歳近い彼の家の三男坊ハリルが側につくようになった。

 あとは王太子位を奪う。

 それだけだった。

 計画はかなり前から立てていた。自らが王太子となるには、現王太子であるアザリスの存在が邪魔であった。だが、事はそう簡単ではない。アザリスを害するのは簡単だが、それでは、もしその主犯が発覚した際に面倒な事となる。そうして考えたのが、王妃の権力、及びその父ロドリスの失脚を理由にした、王太子アザリスの廃太子計画であった。

 ロドリスは権力欲を隠すことすら出来ぬ愚鈍な男。標的にするには、この上なくやり易い男だった。それを理由に、リアンや今上の命を狙わせるのは造作もなかった。

 だが、それだけでは王妃の権力は削げても、アザリスを王太子位から降ろすまではいかない。

 そして、リアンは彼女自身に手を打つことにしたのだ。

 だが、そう決めたはところまではよかった。

 しかし、きっかけが掴めず手を出しあぐねていた。


 そんな中でのあの日の出来事。

 それは、本当に偶然だった。


 リアンは既に齢十九を数え、王の侍従として忙しい日々を送っていた。

 その時、彼女の部屋の前を通ったのは、ほんの気まぐれで、意識してこの場所を通ったわけではなかった。

 だが、その時リアンは確かに彼女の部屋の前にいて、そして、ざわりと空気が変わるのを感じたのだ。

 嫌な感覚はなかった。だが何故か無視できずに、リアンはその発生源と思しき、王妃の部屋の戸を叩いていた。だが返事は無かった。

 普通ならばそこで待つなり、出直すなりしたはずである。だがどうしてか、リアンはそのどちらもする気にならず、返事の無かったその扉を開き、部屋へと足を踏み入れた。


 言葉が出なかった。

 これが呪術なのか……。

 それがその時の思った全てだった。

 もちろん、「呪術」の事は知識としては知っていた。何をするものなのか、どういう手順を踏んでするものなのかも。だが、文字で見て得た知識というものは、実際に目にすると、こんなにも矮小なものなのか、と思わせた。

 たしかに、リアンの視線の先に立つ彼女の足元には、大きな印が描かれている。それは術の発動中らしく、発光している。それは、リアンの持つ知識と、何ら変わるものではない。

 だが、空気が違うのだ。

 風が凪いで目の前の義母も動かない。空気は動かず、まるで誰もいないかのようだ。

 そうだというのに。

 たしかに肌で感じる、ざわざわとしたもの。

 これが、呪術というものなのだ、そう否応無く思わせるものだった。

 そしてなによりも、眼前に立つ、赤い光に照らされた女。

 血濡れにも見える彼女は、妖しく、そして、美しかった。

 そうしてリアンが彼女に釘付けになっている間に、彼女のまわりから赤い光が消えて、ざわざわとしたものもなくなっていた。

 再び吹き始めた風がリアンの頬を撫でる。はっと彼女の方を見なおすと、彼女は巻き上がる金髪を押さえながら、リアンの方を見ていた。

「―――。」

 リアンはそれが声になる前に、なんとかそれを喉の奥に押し込めた。

 俺は何を言おうと……?

 リアンはなんとか息を吐いて、そしていつも通り「義母上」と呼びかけた。

 彼女の名を呼びそうになった。

 そのことには、気付かぬ振りをして。




「義母上、占いはどうやってするんですか?」

 一通り、彼女から先程行われていた占いの結果を聞いた後、そう尋ねたのは、殆ど世間話に近い気持ちだった。

 リアン自身、父王ほど嫌悪はしていないものの、占いは所詮占い。確かに起こる確率の高い未来を言っているのだろうが、それを知ったところで、どうとなるものではないと思っていた。

 実際、先の占いにしても、彼女が言った「変革が起こる」という言葉は、リアンにしてみれば、嗤いたくなるような言葉だ。この「変革」という言葉は、おそらくは、これからリアン達がしようとしていることを示しているのだろうと思われた。

 たしかに、「変化」はするだろう。

 だが、彼女の言葉の端々に聞こえた、良い事である、というような響きを持った、「変革」という言葉には、リアンはどうしても賛同することが出来なかった。

 これから自分達がしようとしていることは、謀反、とも言える事である。

 やはり、占いは所詮占い、そう思わざるを得なかった。

 だがそれでもそう言ったのは、なぜだったのだろう。

 それは、ただ、妖しく美しいあの女の姿を見たい、ただそれだけだったのかもしれない。

 リアンの直近の未来を占うことにしたらしい義母は、説明を挟みつつ、粗方用意を終え、それじゃあ、やってみるわね、と言って目を閉じた。そして、二言目の呪文を唱えた時、その上にある彼女の手を巻き込んで、紙片が燃え上がったように見えたときには、大層肝を冷やした。

 いや、実際、止めようと手を出しかけるぐらいには驚いた。その黒い炎が彼女の手を焼いていない事に気が付かなければ、本当に止めていたかもしれない。

 何とか気を落ち着け、じっくりと彼女を観察すると、先程の彼女よりは艶めかしさも無かったが、それでも、自分の髪や瞳の色と同じ黒が、彼女の手を染め上げているのには、悪い気はしなかった。

 そして、彼女は三言目の呪文を唱える。すると、燃え上がっていた闇色の炎は、しゅんと消えて、後には何も残らなかった。そして、彼女が目を開け、びっくりした? と、茶目っ気を含んだ顔で笑った。

 彼女の手には火傷などといった変化は見て取れず、また、彼女の様子に何ら変わりが無い事に、リアンは自身でも驚くほど安堵をした。

 占いの結果はさほど驚くものではなかった。「悲願を成し遂げる」それは、先の占いの「変革」が、リアンの思う通りのものなら、予想の範疇であったからだ。

 だが、余裕をもって聞いていられたのは、はじめの半分までだった。

 続きがある、と言った義母に、何の気なくそれを促したリアンは、続く彼女の言葉を聞いて、文字通り、言葉を失った。

「貴方は生涯をかけた恋をする。」

 どこか嬉しそうに笑う義母を後目に、リアンは黙り込む。

 こればかりは外れるだろう。

 リアン自身、容姿と地位もあり女の影が無いわけではない。むしろ、不自由していないと驕ることなく言える。だがこれまで、リアンは特定の女というものを作ったことはなかった。利用したことは数知れないが、誰かを想ったことなど、ましてや溺れた事など、一度だってありはしなかった。溺れるのはいつも女の方で、リアンはそれを、いつもどこか冷めた目で見ていた。

 心から望んだことも、すり抜けるのを惜しいと思ったことも無いのだ。

 目の前の義母は、何も知らず微笑んでいる。

「それとも、もう、そういった人が……、すてきな人がいたりするのかしら?」

 ああ、ほら、今だって。

 そう無邪気に笑う彼女を、自分は利用しようとしているのだ。

「“すてきな人”ですか。そうですね……。」

 そう言って、もったいつけるように、手を顎に当てて考えるふりをした。

 心は酷く冷たい計算で渦巻いているのに。

「………一方的に、想いを寄せている方なら、いますよ。」

 熱を込めて、彼女を見つめる。

「私の、知っている方かしら……。」

 そう言う彼女の頭の中には、歳若い未婚女性の顔が次々と浮かんでいる事だろう。

 だが、そのどれでもない。

「ええ。……とてもよく、ご存知の方ですよ。」

 リアンは彼女の手をそっと掴んだ。どうしたの、と彼女の瞳に動揺が浮かぶ。

 ああ、でも、この瞳だけは。

 リアンは彼女の手を持ち上げ、その指先に口付けた。彼女の手をしっかり掴んだまま、彼女の蒼玉(サファイア)の瞳を見つめた。

 その不安に彩られた色さえも。

「私は……貴女が好きです。」

 その深い海のようなその色だけは、本当に愛せるかもしれない。




「……はぁ、遂に言ったんですか。随分時間、かかりましたねぇ。」

 リアンは山と積まれた書類を決裁しながら、眼前の側近、ハリルの呆れたような視線を受け流す。

 あの日、義母に愛を告げるという勝負に出た日から早数日。事が落ち着くまで黙っているつもりだったリアンは、自分と義母の様子がおかしいとハリルから問詰められ、渋々事の顛末を語ったところだった。

 彼との付き合いは既に五年以上になる。臣というよりは、友人のような存在だが、それ故に遠慮がなく、だが、正論でせめてくるため、言葉も胸に刺さることが多い。

 今回もそうだ。ハリルの言外に潜ませた、今更か、という非難は、全くその通りなのだ。だが、素直に謝る気にもならず、仕方ないだろ、とふてくされた声で返した。

「仕方ない、ってね……殿下。計画の実行決めてから、何年経ってると思ってるんです。父上達はもう、とっくの昔に言い寄ってるって思ってますよ?」

「………。」

 リアンはぐうの音も出ず、押し黙った。それはリアンも承知の上だ。

 ハリルが呆れるのも無理はない。ハリルの父親、つまりリアンの最も強力な支援者である、ウィステラーレ公爵に王妃はいつ落ちそうか、と幾度となく聞かれた。その度に適当なことを言ってごまかしてきたのだから。

 それでも何故、そこかしこの女達にするように籠絡、しようとすら出来なかったのか。

 きっかけがない、既婚者である、義母である。

 そんなもの全て言い訳だった。

 なら、何故。

「まあ、いいです。ようやく、とはいえ、動き出しましたから。」

 そう言ったハリルは、懐から一通の封書をリアンに渡す。

「こちらも。……いい頃合なのでは?」

 リアンは渡された封書の封を切り、中身にさらっと目を通した。差出人はアブミット公爵家にいる間者からだ。

「ああ。裏稼業の人間と接触があったらしい。近々動くだろう、と。」

 リアンは文書を畳み、もう一度封筒にしまうと、それをハリルに返した。だが、ハリルがそれを受け取ると、ちりちりと音をたてて、その封書を燃えていった。そして、あっという間に灰すら残さず、跡形もなく消えてしまった。火の魔術である。

 これで文書の中身を見られることはない。リアンは腕を組んで椅子に深く沈みこんだ。

 これからきっと、一層慌ただしさを増していくだろう。全てが終わるまで。アブミット公爵も動いた。おそらくはリアンの命を狙ってくるだろうが、嫌疑を逸らすため、他をあえて狙わせることもあるかもしれない。今のところ、リアンに何かあった時、一番利を得るのはあの男だからだ。

「俺の警備を少し手薄にしておいてくれ。」

「は?」

 リアンはよっと声を出して、椅子から立ち上がった。ずっと座っていたせいで身体が凝り固まって痛かった。その身体を伸ばすように少し身体を動かしながら、リアンは部屋の扉の方へ歩いていく。

 リアンの言葉に呆けていたハリルは、リアンが部屋から出て行こうとしている事に気が付くと、慌てて声をかけ引き留めた。

「どういうことです、殿下。」

「標的が王族の誰か、となっていた場合、一番手薄なところを狙わせるため。俺なら大方は、怪我しない程度に『襲われた』っていうのを演出できるだろう。」

 リアンはそれだけ言うと、アザリスのところに行ってくる、と言い残し、とっとと部屋から出て行ってしまった。

 あとに残ったのは、何ともいえぬ表情のハリルだけだった。




「はっ……は……」

 リアンは自室の、執務に使っている方ではなく、寝室の戸を後ろ手に閉める。荒い息を吐きながら、ずるずるとその場に座り込んだ。頭を抱えるようにして、その場にうずくまる。部屋には誰もおらず、ただ、空虚な沈黙が、リアンを責めるように満ちている。

 アザリスの部屋から、父に呼ばれている、などと嘘を吐いて出て来たのは、今しがたの事だ。どうやって、自分の部屋まで辿り着いたのか、リアンは全く覚えていなかった。

 アザリスの前では、いつも通りにできていただろうか。変に思い、それを気に病んでいなければいいのだが。

 アザリスとしては、ただ今日見た他愛もない夢の話をしたにすぎないだろうから。

 そう、本当に他愛もない、十四の少年が見るには、あまりに可愛らしい、普段ならばその程度にしか思わぬ内容だった。

 アザリスは夢の中で勇者だったらしい。大切な姫を攫われ、それを助けに行く勇者。何の変哲もない、どこかのおとぎ話にでもありそうな、そんな夢だ。

 だが、リアンにとっては、それだけでは終わらなかった。

 どうしてそう思ったのかも分からない。アザリスの部屋に行く直前にしていた、きな臭い話のせいだろうか。分からない。だが、リアンはたしかに結び付けてしまった。

 勇者をそのままアザリス、姫を義母に、そして、その姫を攫う悪者を、自分に。

 攫うことはしない、いや、出来ないだろう。だが、もうたとえこれからどうなろうとも、アザリスや義母を酷く傷つける、そのことはもう、決まってしまっている。

 その事に気が付かされた。

 いや、分かっていて、見ないふりをしていたものを、認識、してしまったのだ。

 リアンの「悲願」というものが達成された時、リアンは二人を傷付けるだけではあきたらず、地位を奪い、人としての信用を失墜させ、へたをすれば、命までも。

 知らなかったわけではない。分かっていなかったわけではない。理解もしていた。

 だが、心が追い付いていなかったのだ。

「俺は……。」

 ずっと、演技だと思っていた。

 たしかに、はじめは演技だった。

 だが、それはいつしかそれを越えていて。

 実母以外は家族でない、そう思って、思おうと、していたのに。

 いつしか、本当に、彼らを家族として。

 愛していたのだ。

 冷え切った部屋は、今の自分にこれほどなく相応しい、リアンはそう思った。

 「愛する家族」を、裏切る自分に。

 リアンは迫る夜の闇に溶けてしまおうとするかのように、身体をさらに丸める。

 明日になれば、また立てるから。だから、今だけは。

 もう、戻ることも出来ないのだから。




「で、今度は貴方が王妃を避けてるんですか、殿下。」

 仕事が忙しいと伝えてきましたよ、とハリルはリアンに伝えながら、机の整理をしていく。

 数日前から、王妃がリアンを避けていた状況から一転し、逆にリアンが彼女を避けていた。王の帰ってきた日あたりからだが、リアンも、彼女にどういった心境の変化があったのかは、分からなかった。ただ、断られる気配だけはむんむんとした。

 それにともない、王の行幸の事後処理やら、不在時に溜まっていた書類やらで、仕事が増えているのは確かなのだが、それにかこつけ、彼女と会わぬようにリアンは日々を送っていた。

「殿下、王妃をいつまで放っておく気ですか?」

 呆れの色が混じるハリルに言葉に、リアンは苦笑を返す。そして、冗談めかした口調で返す。

「『愛しい女』から、ごめんなさい、なんて……。聞きたくないだろう?」

 リアンとしては、完全に冗談のつもりで言ったのだが、ハリルは生温い視線を返すにとどめ、何も言ってこなかった。実際、駆け引きのつもりであるのは本当だった。このままでは遠くなく、正面からはっきりと断られてしまうだろう。それを封じなければ。

 リアンはハリルの生温い視線に肩を竦め、仕事を再開した。無言の部屋には、カリカリと紙の上をペンが滑る音がだけが響いていた。

 そして、日が陰りだしてきたころ、なんとか一区切りをつけ、固まった肩をコキコキと動かした。

 その様子に、隣で資料を持って来たり細々と雑用をしていたハリルも、ここ暫くでは珍しく、柔らかく微笑んで、お疲れ様、と言った。

「運んだり、片付けたりはしておきますので、少し外の空気でも吸ってきてはいかがです?」

 そういわれ、リアンは外を窓越しに仰ぎ見た。思っていたよりはまだ陽は高い位置にあり、まだ明るかった。

 リアンは頷いて立ち上がった。

「……そうだな。後は頼むよ。」




 リアンは書類の散らばった部屋を出て、ふらふらと、殆ど彷徨っているともいえるような様子で、城内を歩いていた。中庭の方へと出たのも偶然で、たまたま廊下の向こうに景色が見え、行こうかと思ったからにすぎなかった。

 中庭に面する廊下を歩き、その中ほどでふと足を止めた。左手には中庭と、見上げれば赤く染まりだした空がある。

 その真っ赤に染まりだした空は、どこか故郷の空を彷彿させる。だが、母や友人達と見上げたあの優しい色は、同じ色であるはずなのに、こんなにも寂しく感じるのはなぜだろうか。

 母の温もりと同じように見えた空は、同じ色のはずなのに、冷たい夜への誘いにしか見えない。

 その時、細い声がリアンの耳朶を打った。

「リアン……。」

 紡がれた自分の名にはっとしてそちらを向くと、少し不安げな表情の女が立っていた。いつのまに。今、二人の間には人二人が入れるかどうか、というほどの隙間しかない。そんな距離に近付かれるまで、全く気が付かなかった。

「あの日、以来…ですね。」

 あの日、勿論、リアンが彼女に「好きだ」と言った日だ。もうあれから何日経っただろう。久方ぶりの彼女は、記憶にあるよりも一層儚げで、美しかった。夕日がそう見せているのかもしれない。

「少し痩せた……?」

 心配からか憂いの表情を顔に浮かべる彼女は、大丈夫なの、と言いながら、リアンに一歩近づいた。だが、リアンはそれに反射的に同じだけ後ずさると、それをごまかすように苦笑して首を振った。

 仕事も切りが付く。だから大丈夫だ、と言っても、彼女は一層心配に顔を歪める。

 そんなに、酷いのだろうか……?

 確かに、ここ数日あまり食事や休眠をとっていない。忙しい、そう言って。

 しかし、自分ではわからないが、思っている以上に、顔に出ているのかもしれない。忙しさで食べられなかったのではなく、そもそも食欲自体がわかなかったのだということが。

 だが、彼女はそれ以上は追及せず、代わりに別の事を尋ねる。

「……何を見ていたの?」

 彼女が、たしかに先程まで自分が見ていた庭を、空を見ていた。同じ様に、リアンももう一度、庭を、その先を見た。

 だが自分でも、何を見ていたのか、リアンは分からなかった。

「―――っ。」

 何か言おうとはした。だが、それは言葉にならないまま、リアン自身すらも、何を言おうとしたのか分からぬまま、その言葉にもならなかったそれは、空気に溶けて消えていった。

 空を見ていた。だが、それはこの空、ではなかった。なら、故郷の空なのか。それとも。

 彼女がふいにこちらを向く。その気配を感じて、リアンを彼女の方を向くと、彼女の深い蒼の瞳が、夕日の朱にも埋没せず、リアンを見ていた。

 夕日に照らされる彼女は、酷く儚げだというのに。その瞳が宿す蒼だけは、強い輝きを放っている。その瞳に、自身の姿が映っているのを、リアンは見つめる。

 それは、ひどく魅惑的だ。

 その瞳に惹かれるように、リアンは彼女の方へ一歩、足を踏み出しかける。


 だが。


 頭よりも、先に身体が動いた。

 庭の方へ視線を投げ、それが確信に変わる。それと同時に、リアンは目の前に立つ彼女を突き飛ばした。

 何か、叫んだような気はする。

 だが、その瞬間だけ、何故か時間が緩慢に動いているような気がした。

 腕に衝撃が走る。

 それによって、リアンは右方へ飛ばされた。

 倒れた格好のまま腕を見ると、そこには矢が突き刺さり、周辺には赤い血が滲みだしている。

 まずい……。

 身体が動かない。意識が、それに合わせるように、痛みも、身体の感覚さえも、急速に遠のいていく。

 矢に毒でも塗られていたのだろう。閉じかける意識の中、どこか他人事のようにリアンはそう思った。

 もういっそ、ここで死んでしまってもいいかもしれない。

 そうすればもう、だれも、きずつけなくてすむのに。

「―――――リアン!」

 しかし、響いた悲鳴のような、自分の名を呼ぶ女の声に、リアンの意識が少しだけ浮上する。

 声の方を見る。そこには、今にも涙を落としそうな蒼玉(サファイア)の瞳。そして、それを持つ女がいた。

 あぁ……。そんな顔されたら、死ねないじゃないか。

 泣いてほしいわけでは、ないのだから。




 何度も微かな声は聞こえた。それはアザリスの時もあったし、父王の時も。はたまた、馬鹿なことを、と罵るハリルの声である時もあった。それらが現実だったのか、夢が見せた幻だったのかは、判然のしないが、リアン自身、たしかに馬鹿な事なのだろう、と時折浮上しかかってはまた沈んでいく、思考の中で思っていた。

 なぜ、彼女を身を挺して庇ったのか。王妃の死は、こちらの計画に影響を及ぼすかもしれないが、修正できる範囲である。また、家族の情だといっても、自分が死の縁を彷徨っていては、元も子もない。

 自分の死は、もはや自分だけの問題ではない、そう分かっているはずなのに。

 だがリアンはそれだけではく、一時はこのまま眠ってしまいたいとさえ願った。

 愚かな事だ。自分でもそう思う。

 そしてもっと、馬鹿だと自分を嘲笑いたくなるのは、あの涙に濡れた蒼に引きとめられている事だろう。

 そして、今も。

 ぐっと意識が上へ浮上して、身体に感覚が戻るのを感じた。

 そろそろと瞼を押し上げると、辺りは真っ暗な闇だった。だが、視線の先には。

 それをもっと近くで見たかったのかもしれない。だるさを感じる身体を、何とか起き上がらせる。

「―――リアン!」

 そういうが早いか、目の前にいた彼女は、リアンに抱きついて、肩に額を押し付けた。突然抱きついてきた、その柔らかい身体を驚きつつも受け止める。

「―――っ…ぁ、……義母上?」

 「義母上」という呼称に違和感を感じるようになったのは、いつからだろう。

 今だって、彼女の名前を呼びそうになったのだ。

 良かった、そう心から安堵したように呟く彼女を胸に抱いて、怪我をしていない方の手で、彼女の背を撫で、そして、その背にかかる金の髪を梳いた。掬い取ったその髪は、絹のようになめらかで、絡むことなく、手からさらさらと零れていった。

 どのくらいそうしていたのか、彼女はリアンの怪我を思い出したらしく、ごめんなさい、と呟いて、その身を離した。だが、その温もりが離れてしまうのが惜しくて、彼女の髪を離せないでいると、彼女は、無理に離れることなく、ベッドの縁に腰掛けた。

 大丈夫、と言いながら、彼女が逃げてしまわないのを確認すると、髪を抓んでいた手を離して、その手を彼女の頬に滑らせた。

 そうしていると、彼女は涙をほろりと流し、それは後から後から追うように涙の筋を増やしていった。

「そんなに、心配させましたか。」

 結局は彼女を泣かせてしまうのか。リアンは彼女の頬を伝い、そして下へとぱたぱた落ちる涙を見ていた。

 これからきっと、もっと泣かせるような、傷付けるようなことをするのに。

 リアンは顔を上げ、自身の手を彼女の眦までもっていく。

 こんな行為、意味はないのに。

「泣かないで。」

 そう言って、リアンは彼女の次々に零れる涙を拭った。

「貴女に泣かれたら、俺はどうしたらいいか、わからない。」

 拭いきれない涙はリアンの指を乗り越えて流れて行った。それでも、リアンは彼女の涙を拭い続ける。

「泣かないで……。」

 そして、頬に零れる涙を伝うように、彼女の頬をリアンの手が滑り落ちる。そして、こうすることが自然であるように、リアンは彼女の顎を持ち上げた。

 もう……。

「泣かないで、ウェルリーズ……。」

 リアンは名を呼び、その唇にそっと触れた。

 しっとりと甘いそれは、涙に濡れて少しだけ苦かった。




 その日から数日間、父王から直々に休めとの命を頂き、休養に専念させられていた。まだまだ腕は痛むが、動かない事はなく、生活には支障がなくなった頃、リアンは一人の女官を部屋へと呼んだ。

「エレイン、辞令だ。」

 そう言って目の前に建つ女官、エレインに文書を渡した。エレインもハリルと同じく、リアンの側近の一人である。

 その文書を受け取りつつ、エレインも心配げに、体調を気遣ってくる。たしかに、リアンがこうして倒れるなど、王宮に来てからは殆どなかったことである、心配をかけても仕方がない。事実、ハリルにも山のようにお小言を頂戴した。

 身体はもう問題ないというと、一応は納得したのか、頷いて、文書の中身をあらためはじめた。

 内容は、エレインを王妃付きの女官にする、という内容だ。

 先日のリアンの事件で、王族全体への警備を強めることとなった。その関係で、身辺の人間の人事も見なおされ、その結果、エレインも王妃付きとなることが決まったのだ。エレインは、女官としてはかなり身体能力も高く、剣技、魔術などにも精通している。いざとなれば、護衛のようなこともできる、それがかわれたのだろう。勿論、推薦はリアンだ。

 もっとも、リアンの本当の目的は、ウェルリーズとの逢引の手引きや、二人の関係性を醜聞にするための布石を打ってもらい、今後動きやすくするためである。

 そのために、ウェルリーズを自分の女として傍に置くことを決めたのだ。決して好きになったからではない。

 そういったことも勿論エレインも承知の上だ。文書を読み終えると、心得た、と頷いて、エレインは部屋を出て行った。

 部屋に一人となったところで、リアンはふっと息を吐いて、裸足のままベッドを下りた。ぺたぺたと窓際まで寄って、窓ガラスに手をつく。

 空はよい天気だった。あの日の夕暮のように冷たさもない。だが、この日の空はあまりにも似ていた。それは、あの日の、あの言葉を思い出させる。

「よく空を見ているわね。」

 一人だと思っていた部屋に突然聞こえた声に驚いて振り返ると、そこにはウェルリーズの姿があった。

「リーズ。」

 リアンはそう、彼しか呼ばぬ愛称で彼女を呼ぶと、ウェルリーズは少し恥ずかしげに、だが嬉しそうに目を細める。

「返事が無かったから……。勝手に入ってしまって、ごめんなさい。」

 ウェルリーズの手には、新しい包帯や軟膏、薬の類と思われる小瓶が入った籠を持っていた。腕の怪我はまだ塞がっていないため、その包帯を変えに来たのだろう。

 かまわないよ、と言いながら、リアンは彼女の方へと歩み寄った。そして、彼女の頬に口付けると、自身はベッドの縁に腰掛ける。ウェルリーズも手近な椅子を引き寄せ、リアンの怪我を正面に座ると、手当の用意を始めた。

 それを横目で見つつ、リアンは上衣を脱いで、腕に巻かれた包帯をとっていった。まだ治りきらない傷口は、赤黒く、痛々しげに引き攣れていた。

 ウェルリーズはそれを見るといつも、悲しげな顔でその腕に触れて、ごめんね、と言うのだ。今日も例に漏れずそう言う。

 ウェルリーズはきっと、自分がいたせいでこうなっている、そればかり思っているのだろう。だが、リアンからすると、あの場に彼女が居合わせなければ、初期治療が遅れ、今頃自分はこの世にいなかっただろうと思っていた。

 それだけではない。きっと彼女の濡れそぼつ蒼が無ければ、戻ってこようと心から思えなかったに違いないのだ。

「もう謝るのはやめて、リーズ。」

 だから、謝ってほしくなどないのだ。

 リアンは俯くウェルリーズの頬に手を添えて上向かせる。そして、その頬に口付ける。

「笑って。」

 ね、とリアンがウェルリーズに微笑むと、ウェルリーズもはじめはまごまごとしていたが、次第に微笑みを返す。

「そうね。……生きててくれて、ありがとう、リアン。」

 花が咲いたような笑顔を浮かべる彼女は、本当にきれいだ。

 リアンは堪らず彼女の瞼に口付けて、次第にそれを唇へと移していった。

 離れる唇から漏れる、艶めいた吐息をもう一度塞ぎたくなる衝動を、何とか受け流して、リアンはもう一度だけ、軽い口付けを彼女の頬に落とした。

 そのあとようやく傷の手当てをするに至ったウェルリーズの頬は、ほんのり赤らみ、なんとも愛らしかった。


「終わりよ。」

 ウェルリーズは最後に、傷の治りを速め、加護の力も持つ呪術を患部にかけおわると、そう言ってリアンの腕から指を離した。腕から離れる彼女の温もりを、少しだけ寂しく思いながら、リアンは脱いでいた上衣を傷に触らぬように着なおした。

「リーズ。」

 リアンはそう、彼女を呼んでその手を取った。軽く引くと、ウェルリーズはそれに素直に従って、リアンの隣に腰を下ろした。リアンは隣に座った彼女の肩を引き寄せて、自分の方へともたせかける。

 二人の間には沈黙がおりることが多い。決して不快な沈黙ではないのだが、そこには、九年もの長い間、義母と義息として過ごしてきた関係に生じた突然の変化、それによる多少のぎこちなさもはらんでいる。

 だがそれでも、リアンがウェルリーズの手を引けば、彼女は自然とすり寄るように傍へと来る。あの蒼い瞳に、嬉しさを混ぜながら。

「空には何があるの?」

 突然の問いにリアンがウェルリーズの方へ視線を向けると、彼女は窓の方へ、恐らくはその先の空へ視線を向けていた。暫くするとリアンの視線に気が付いたらしく、リアンを見て、困ったように笑った。

「さっきも見てたから……。」

 も、きっとそれはあの夕暮れの空の事も言っているのだろう。

 リアンはどう答えたら、と思った。空を見る時、リアンが抱えていた想いは複雑すぎて、空を見ていたわけではない、とも言えるからだ。

「故郷、かな……。」

 だが、難しく考える前に、その答えは自然と言葉となって、口から零れ落ちていた。

 ウェルリーズは目を瞬き、ぽかんとしている。

 驚くのも無理はない。リアン自身、可笑しなことを言っている自覚はあった。「空に故郷がある」など、伝えにあるような月の姫でもあるまい。だが、ある意味では似たようなものかもしれない。リアンの中で故郷とは、月よりもさらに遠くにある存在だった。そして、彼の姫とは違い、迎えの使者など来るはずもない、もう二度とは帰れぬ場所。

「ここはあまりにも、あの場所とは違うから。空の色を見ると、少しだけ、あの頃を思い出すんだ。」

「……少し、分かるわ。」

 寂しげに微笑む彼女を見る。リアンは知れず、彼女の肩を掴む手に力を籠めた。

「私がとても小さかった頃、一年中見ていた雪の日の空。灰色で白い雪だけがほわほわと降る、あの静かな空気。それを感じると、ね。」

 リアンは彼女の幼少期について詳しいことは知らない。五歳の頃には呪術寮被官であったことは確実なようだが、それ以前は、アブミット公爵領にいた、という記録しか残っていない。

 取り繕うように浮かべたウェルリーズの笑顔は、とても痛々しかった。きっと、こんな記録では推し量ることが出来ない何かがあるのだろう、そう思った。

 だが、リアンは何も言わない、いや、言えなかった。下手な慰めなど、とても口には出来なかったのだ。

 こんな痛々しい笑顔など、浮かべないですむように、もっと幸せに満ちたような笑顔に、してやりたい、そう思ってしまう。

 そんな資格、ありはしないのに。

「今の空は、あの日の空に似ている。」

 ウェルリーズは、あの日? と聞き返した。今でも鮮明に思い出せる。あの日見た、母の今にも泣いてしまいそうな悲痛な顔、自分の運命を悟った、あの日の事。

「王宮からの使者が来た日。」

 リアンは抱き寄せた腕から伝わるウェルリーズの温もりにほっとしつつ、目を閉じて、あの日、を思い出した。

 突然、家の門扉が叩かれた。そして現れた身なりの上等な男。その男を複雑な表情で迎え、結果やむなく家へと招き入れた母。そして、突然聞かされた、王の落胤だという事実。そして、王宮へ上がるか決めたあの瞬間。そして、家を出る時、母から言われたあの言葉、を。

「故郷から出る時……。母に言われた事がある。『あなたは王の子なのだから。』こう、言われた。」

 その時の言葉は、声の調子すらもまるで昨日のことのように思いだせる。いや、それだけではない。そのときの母の辛そうな表情も、そう言って抱きしめられたときの冷たい身体と震える手、その何もかも。

「酷く辛そうな顔をしていたんだ。だから、思った。王の子として認められなければ、と。そうなればきっと、この辛い顔も止めてくれる、かもしれないって。」

 それが、この歪んだ権力欲となった。最後は口には出さず、口内で留める。自分の想いが歪んでいる事など、もうとっくの昔に気が付いている。そしてその歪がこうして、現れているような気すら。

 ウェルリーズはじっと黙ってリアンの話を聞いていた。そしてリアンがこう話し終えると、リアンに寄りかかっていた身体を起こし、代わりに彼の手をぎゅっと両手で握った。

「貴方は十分立派に、陛下の御子よ。……でもね、きっと、貴方のお母様は、貴方が心配で堪らなかっただけだと思うの。」

 ウェルリーズはそっとリアンの髪に触れ、彼の眼を覗き込むようにしてみる。

 リアンの髪や瞳の色は、王家の中では異質だ。今上やアザリスは銀の髪に紫の瞳。ウェルリーズは金の髪に蒼の瞳だ。闇色を宿すのはリアンのみで、その色は、異国人の血を引く母の色だ。

 王宮に来て、それがこんなにも悪目立ちするものだとは思わなかった。そのくらい、影で様々な事を言われた。特に今上と同じ色でない事で、本当に王の子なのか、と言われた事も数知れない。

 ウェルリーズもきっと、それを思っているのだろう。

 嫌だと、思っている……?

 だがリアンの予想に反し、ウェルリーズは優しく微笑むと、少し腰を浮かしてリアンを抱き寄せた。

「陛下と色が違うから、って心ないこと言う人もいるけれど……。私は、好きよ。」

 リアンは目を見開いて、ウェルリーズの顔を見上げた。もっとも、ウェルリーズの腕に抱きしめられて、身動きがとれない為、結局は諦めて、彼女の胸に頭を預けた。

「本当よ。この優しい闇のような色が。」

 ウェルリーズの唇が、リアンの髪に触れる。それを感じてリアンはそっと目を閉じた。

 嬉しかった。彼女の言葉なら、お世辞ではないと信じられた。

 このまま、彼女とこうしていられればいいのに。

 リアンはウェルリーズに、まるで縋りつくように彼女をかき抱いた。急に動かした腕の片方はピリと痛んだが、そんなもの気にはならなかった。

「好きだ……。」

 消え入りそうな声で呟いたその言葉は、あまりに自然に出たものだった。

 それは本当に偽りの言葉だったのだろうか。




「アブミット公爵ロドリスから、接触があった。」

 季節が冬の終わりにさしかかった頃、執務室へと入ってきたハリルに、リアンはそう言った。正確には、王にロドリスから王妃への面会許可の打診があったらしく、それをリアンが聞いたのだ。まだ、ウェルリーズは返答を保留しているらしく、まだ会うかどうかは決まっていない。

「それは……」

 主の言葉にハリルは表情を引き締める。言葉は途中で途切れたが、その後に続く言葉など、互いに分かっている。

 リアンも、そうだ、とだけ返す。今は部屋に二人きりとはいえ、あまり声に出すのは憚られるものだからだ。

 すなわち、かねてからの計画が最終局面に入ったことを意味していた。

 数か月前のリアンが射られた事件は、公には実行犯死亡で片付けたが、リアンは王からの命令もあり、内々に調査を進めていた。もっとも、事件の起こる前から、おそらくはロドリスの仕業であろうというのは、予測がついていたため、間者も使えば、足を掴むのは容易いことだった。

 だが、未だ王にそれを奏上していないのは、完全にロドリスを失脚させる機会を狙っていたからである。

 それが来たのだ。

 ロドリスがいずれ娘のウェルリーズと接触しようとするだろうことは、予想していた。いや、それを待っていた、といってもよい。

 これまでロドリスがウェルリーズを個人的に訪ねてきたことなど一度もない。それが訪ねて来たのだ、よほどの理由があると思われるはずである。その理由づけの一つとして、今回の王妃の不倫、という醜聞がある。あの日から早数か月、良い具合に噂が社交界を席捲して来ている頃合だった。その真偽を確かめに来る父親、何の不思議もない。

 そしてそこで、ウェルリーズに王子リアンの呪術による暗殺の依頼をした、ということにするのだ。

 そう、実際依頼したか、したとして受けたのか、そうでないのか、など問題ではなく、その状況をつくるのが目的である。

 合わせて、王を昏睡状態に陥らせることで、関係があるのではないかということを印象付ける。

 そして、後は、先のリアンの事件を理由に、ロドリスを捕縛する。

 それが計画の全容だった。

 まっとうな感性を持っていれば、娘に愛人の殺しなど依頼できぬだろうが、あの男がそんな情など持ち合わせているとは思えず、また、そう思われている人間であるから、何の問題もないのだ。

 それ以外の用意は、もうほぼ全て終了している。あとは、ウェルリーズにロドリスと会うよう仕向けるだけだ。

 それに関しては、リアンから彼女に直接交渉すればいいだろう。

 リアンは、彼女に伝えてくる、そう言って部屋を出ようとした。だが、扉に手を掛けたところで、ハリルに呼び止められた。怪訝に思いながらも、リアンは振り返った。

「いいのですか。」

「何が……?」

 突然何だ、とリアンは思ったが、ハリルのあまりに真剣な顔に、それ以上何も言えずに、ハリルの返答を待った。

 ハリルは、分からないのか、という一種憤りともいえるような表情を滲ませる。

「本当にこのまま進んで、後悔、しませんか?」

 今さら何を言っているんだ。リアンは、そうその言葉を嗤いたくなった。計画は全て順調に進んでいる。仮に、嫌だと言ったところで、もう、止められるものでもないのに。

 もう、ひきかえすことなんて、できないのに。

「今さらだろう。」

 リアンは笑った。少なくとも、笑ったつもりだった。

 だが、本当は知っていた。

 「後悔しない」そう言えない自分にも。

 表情は引き攣って、声も上手く出せていない事も。

 そして。

 胸を刺す、鋭い痛みにも。




 自分でも、驚くほど心が冷たかった。

 ぺたんと床に座り込んだ女を見下ろして、リアンは彼女の部屋に入った。

「リ、アン……。」

 震える唇でウェルリーズはリアンの名前を呟いた。こんな状況でもなお、彼女は美しかった。

 リアンはそう感じる自分への自嘲の笑みを押し隠して、完璧なまでの笑顔を顔に張り付けた。ウェルリーズの前まで歩を進め、彼女の目の前に膝をついた。

 リアンは、自身でもなんと白々しいのか、そう思いながらも、彼女の少し強張った頬に触れた。美しい蒼の瞳に、一抹の恐怖が見え隠れしていた。

「いつから?」

 その問いで、ウェルリーズが全て悟ったことにリアンは気が付いた。

 だというのに、そう問う彼女の声は、ひどく落ち着いていて、怒ることも、詰ることも無かった。

「最初から。」

 リアンはそ知らぬ顔で、残酷な答えを返す。

 何故、彼女は自分を罵らないのだろう。どうして、そんなに落ち着いていられる。いっそ、憎しみをこめた目で見られる方が、きっと楽なのに。

 ウェルリーズの瞳が揺らぐ。

「貴方の望みは、これなの?」

 そして、ほろと涙が零れた。次々に流れる涙は、リアンの手にも伝って、流れて行った。だが、リアンはそれを見ても、その涙を拭うことはしない。否、できなかった。

 もう、動くことも、出来なかった。

「そうだよ。俺は王になりたかった。そのためには、貴女も、王太子も……………邪魔だろう?」

 彼女の耳元で呟くその言葉は、自分の心すらも抉っていく。

 胸が痛くて、仕方がなかった。

 どうして、俺を責めない。どうして、罵ってくれないんだ。どうして……。

 ただ静かに涙を落とす、ウェルリーズを一瞥し、リアンは立ち上がった。

 これ以上は、もう、おかしくなりそうだった。

 そして兵達に、彼女を連れていくよう命じている声を、自分の声ではないように聞きながら、ウェルリーズが兵によって無理矢理立たされ、引き摺られていくのを見送った。

 見送ろうと、した。

「―――――っ、リーズ……!」

 一瞬、自分から発せられた声だと、分からなかった。

 ただ、苦しくて。

 本当は、彼女の腕を乱暴に掴む兵の手を引きはがして、抱き寄せたい。

 それなのに。

 それは、できない。

 名前を呼ぶ以外、何も。

 ウェルリーズが振り返っていた。

 彼女は泣いていた、だが、そこに、精いっぱいの笑顔を浮かべていた。

「貴方を、救ってあげれたら、よかったのに……。」

 リアンは、言葉を失った。

 ウェルリーズは、この期に及んで、リアンの心配をしている。

 母の言葉からの、解放。

 そして、それが、この結末を導いたことも、分かっていたのだ。


 そして、誰もいなくなった部屋で、リアンは、崩れ落ちるように座り込んだ。いつからかきつく握りしめていた手は、自身の爪で掌を破り、じくじくと熱くなっている。

 顔を覆う。

 涙は出ない。

 涙すら、出なかった。

「いつも、俺は……。」

 いつも、いつも、自分は気が付くのが遅すぎる。

 父王や、弟や、義母を、家族として愛していたと気が付いたときも。

 そして、今。

 愛する女を、失ったのだと気が付いた今も―――

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