第一話
第四章嵐の前の
それから数日は、何事もなく過ぎていった。
王宮に出掛け、キースと共に過ごして帰る。そして、それがミルチェの日常となりつつあった。
キースは少しずつ仕事を始めているようで、書類を読んだり、何かにサインをしたり判を押したり、といったことをするようになっている。
ミルチェは本を読みながら、その様子をチラリと窺った。
どんな内容の事をしているのかは、ミルチェは見ないようにしている為よく分からないが、様々な書類が広がっている。
ミルチェの視線に気が付いたのか、キースが机から顔を上げる。そして、目が合うと、にこと微笑む。
その笑顔に、ミルチェは何だか恥ずかしくなって、ぴゃっと目線を逸らし、本に意識を戻す振りをした。内容はさっぱり入ってこなかったが。
そうして、何故かドキドキと音を立てる胸を押さえながら、なんとか本の内容を頭に入れようとしていると、キースがミルチェの名前を呼んだ。
「ミルチェ。」
「は、はい?」
「休憩しようか。」
キースは散らばった紙類をトントンと机の上で纏めた。
キースが侍女を呼ぶ鈴を鳴らすのを見て、一体どこから読んでいなかったのか分からない本を閉じた。どうせ覚えていないので、ミルチェは栞を挟まなかった。
程なくして茶器が運ばれてくると、キースが当然のように茶を淹れはじめる。
この数日ですっかり慣れてしまったミルチェだが、それを初めて見たときは、何故王が手ずから茶を振る舞うのかと、ミルチェでもさすがに唖然とした。そしてこれがまた、美味しいので、ミルチェはなおの事驚いた。
茶器と共に運ばれてきたお菓子を口に運びながら、キースがお茶を淹れてくれるのをミルチェは待った。暫くしてポットから飴色のお茶が、そのカップに注がれる。
「ありがとうございます。」
目の前に置かれたカップに、ミルチェは口をつける。
普段は砂糖とミルクを入れてからそれを飲むミルチェだが、彼が出すそれはそのままでも美味しかった。
茶葉の違いか、入れる人間の違いかは、その辺りにあまり詳しくないミルチェには、よく分からなかったが。
今日も変わらず良い香りのするお茶を飲んで、並べられたお菓子をつまむ。
一口で入る程度の大きさのクッキーから、小さなタルトのようなものなど、お皿の上にはかなりの品数が乗っている。
どれもこれも美味しくて、ついつい食べ過ぎてしまい、太ってしまわないかがミルチェの目下の悩みだった。
その上。
ミルチェはちらっとキースの様子を窺う。
「ミルチェ、これも食べてごらん。」
目が合うと、キースは数あるお菓子の内、まだミルチェが手を付けていないものを取って、差し出してくる。
差し出す、というより、彼女は餌付けされていた。ミルチェは期待するようなキースの視線に負けて、今日もそのままそれを齧った。
小さなタルト生地に、クリームとジャムが入っているもので、大変美味なのだが、ミルチェはいまいち味の方まで気が回らない。
誰かに見られるのでは、と思うと、ミルチェは恥ずかしくて気が気ではなかったのだ。
もうミルチェは、誰かに食べさせてもらうような歳ではない。
ミルチェも決して嫌なわけではないのだが、落ち着かなかった。
はじめの頃、ミルチェはそんな気持ちを、渾身の勇気を出してハンナに相談してみた。
だがハンナからは、もう好きにさせれば良いんじゃないですかね、と何故か虚ろな目で投げやりに返されるのみだった。
「陛下。」
「何? あ、もう一ついる?」
うきうきと目を輝かせ、お菓子を手に取ろうとするキースを、ミルチェは慌てていさめた。
先日、キースとの庭の散歩をした日からというものの、彼のミルチェに対する言動がとても、気安いものに変わった。気安いのはミルチェとしてもありがたいのだが、どうも距離感が近いような。
嫌ではないので、どうしたものかとミルチェは嘆息した。
「そうではなく。………、そうですね、肩の調子は如何ですか?」
本題を聞く前に、まず前段としてミルチェは矢傷の具合を尋ねた。
人より回復が早く、また日常を見ても、彼が痛みに微かに顔が引き攣らせなくなっていたため、かなり良くなっている事はミルチェも知っていた。
それを分かっていたが、ミルチェはあえて確認をした。
「ああ、大分良くなっているよ。」
大丈夫だ、というように怪我をした側の肩をぐるぐると回す。言葉通り、問題はなさそうだった。
「君の薬は、よく効いたからね。」
「……は?」
ミルチェはそれを一瞬、聞き流しそうになった。
薬、薬とは、前に彼にあげたあの薬だろうか。
「あれ、使ったんですか?」
おそるおそる、ミルチェがそう尋ねると、キースはきょとんとして、当り前じゃないか、と言った。
「せっかく貰ったんだから。あ、使ってもよいかは確認はさせたよ。」
まさか、本当に使ってくれていたとは。
ミルチェは嬉しさより、驚きの方が勝っていた。
ミルチェは正規の薬師ではない。半分お遊びのようなものだ。もちろん、気持ちは遊びなどではないが。
まあ、「効いた」というのは、話半分で聞かないと……。
どう考えても、王宮の薬師たちの作るものの方が、効果は高いだろう。だが、病は気からとも言うので、ミルチェはそういう事にしておいた。
ミルチェはきちんと使ってくれていたお礼を述べ、その話題をそこそこに切り上げる。
「それで、なのですが。肩の調子が良いのなら、もうお見舞いの必要は、ない、かと思いますが……、いつまでこちらに来ても良いのでしょうか?」
まだ、キースには執務への完全復帰は認められていない。
仕事中毒気味らしい彼は、こういう時でないと休まない、と侍医からきつく止められているらしい。それでも、仕事の書類を捲っているのだから、始末におえないと今はミルチェも思っているのだが。
いずれにせよ、そういう事情から、ミルチェもまだ数日はこうしていられる。だが、それも時間の問題。ミルチェも覚悟しておきたかった。
「……、このまま居続けてくれても、私は構わないんだけどね。」
キースは大きく肩をすくめる。そのやや芝居がかった様子にミルチェも、ふっと笑いを漏らした。
「ご冗談を。そんな事、許されないでしょう?」
今回の事は特例中の特例。しかも、王の勅命でごり押ししている状態なのだ。それを常態化させるとくれば、貴族達は黙っていないだろう。
ミルチェからすれば、理由も分からない慣習など、荒唐無稽もいいところなのだが、そうは思わない者も多い。
「確かに、許されない。だが、昔に戻るだけだ。」
昔、数百年前、王と導師が分かれて過ごすようになる以前は、多くの導師は王宮で要職に就いていた。
キースが言う昔、それはその時代の事だ。
「それは……」
その通りなのだが、と口ごもるミルチェに、キースは微笑んだ。
「だが、確かに、今、ではないね。もう少し待ってて。」
「え…、何を?」
「何って。……ここにいつまで居られるか、知りたかったんでしょう?」
その日はまだ決まってないから、ということだったらしいと、ミルチェは気が付く。
び、びっくりした。
ミルチェは違う意味で、バクバクと音を立てる胸を押さえた。
あの慣習を無くそうとしてるのかと、思った……。
それはそんなに簡単なことではない、それくらい子供でも分かる。
そうなれたらいいとはミルチェも思うが、最低あと何代かした後のことになるはずだ。貴族達の意識改革からせねばならないのだから。
「と、いうことは、もう少し居られるということですね。」
ミルチェは何とか平静を取り繕って、言葉を繋いだ。キースのそうだね、という声を聞きながら、温くなった紅茶を一口啜った。
キースの目が一瞬、細められたことに、ミルチェは気が付かなかった。
「よく、お出で下さいました。」
ミルチェは苦笑いで、突然現れた珍客を迎えた。
「ええ、ごきげんよう。」
胸を逸らし腰に手を当て、普通ならば偉そうに見えてしまうのだが、彼女、アイミティアの場合、それがとても可愛らしく映る。精一杯背伸びしているように見える彼女に、ミルチェは苦笑していた。
だが、彼女はそれを、突然の訪いに対してのものだと勘違いしたらしく、眉間に薄っすら皺を寄せた。
「突然来た非礼はお詫びいたしますわ。けど、そんな顔、なさらなくてもよろしいんじゃなくて? それとも、来たのは迷惑だったかしら。」
「いえ、そんなことは。どうぞ、こちらへ。」
そう言ってミルチェが通したのは、彼女の自室。
そう、アイミティアは突然、大神殿まで乗り込んできたのだった。
ミルチェの後に付いて部屋へと入ったアイミティアは、しげしげと部屋の中を見渡す。
「意外ね。もっとキンキラさせてるのかと思ってましたわ。」
「キンキラ……」
落ち着かないから、と早々に入れ替えてしまった、ここに来た当初置かれていた家具を思い出す。あの重厚で端々に金や銀があしらわれていた家具が、王侯貴族としては標準だとミルチェはどこかで聞いた。それを普通として育ったなら、確かにこの部屋は「キンキラ」とは真逆の部屋だ。
「あまりキラキラしていると、落ち着かないので……。」
「ふうん。」
突然お金を持った庶民は、持ち物をキラキラさせたがると、相場決まっている。ミルチェも、それが自分のお金とは思っていないので散財はしないが、使おうと思えば湯水のように使える立場だ。きっとアイミティアは、そのことを言っているのだろうとミルチェは思った。
静々とお茶の準備をするハンナは、部屋を出る直前、大丈夫なんですか、という視線をミルチェに向ける。だがミルチェは彼女に一つ頷いて、大丈夫だから、と伝えた。ハンナはそれを確認すると、貴女がそう言うなら、と部屋を出ていった。
部屋にはミルチェとアイミティアの二人が残され、しんと静まりかえる。
「それで…、今日はどうなされたのですか、アイミティア様?」
「………。」
ミルチェが尋ねるが、反応がない。アイミティアは無言でお茶を啜っている。
何か用があったのではないのだろうか、とミルチェは思う。しかし、何の要件もなく、訪ねてくるとも思えなかった。
ミルチェが彼女と出会ってから今まで、一貫してその視線には敵意のようなものが含まれている。
ただ、敵意といっても、ミルチェに危害を加えたりといった事をしそうにはなかったため、ミルチェも放置していたのだが。
「アイミティア様……?」
なんだか沈黙が怖い。ミルチェは、勇気を振り絞り、もう一度声をかけた。
すると、茶を飲んでいたアイミティアが、ギッと眼光鋭くミルチェを睨んだ。その剣幕に、思わず零れかけた悲鳴を飲み込めたのは、ミルチェ自身、奇跡だと思った。
アイミティアが常にない、荒い動作でティーカップを置いた。カチャンと音がなって、水面が揺れる。
「どうなされた、ですって……?」
アイミティアの顔が怖い。声も怒りを抑えようとしているのか、低く地を這うような声だ。
ミルチェがそんなアイミティアに恐れ慄いていると、アイミティアの我慢も限界だったのか、バァンとテーブルに手をついて立ち上がった。
「どうもこうもないですわ!! 私、貴女に、『陛下に無闇に近付いて、唆さないで』って、言いましたわよね?!」
「は、はい。」
確かに言われた。王宮の庭へと連れ出され、彼女に言われた。
―――陛下に、キース様に、無闇に近付いて、唆さないでいただきたいのですわ。
そうアイミティアに言われたのは、確かだ。確かなのだが、ミルチェは困惑していた。
「そ、そのお話が、何故、今……?」
「誤魔化そうなんて、思っても無駄ですわよ! 毎日、毎日、陛下とイチャイチャされてるのを、皆見ていましたわ!!」
「い、いい、いちゃいちゃ?!」
訳の分からない糾弾の上、身に覚えのない行動を咎められるとは、これはいかに。ミルチェは頭を抱える。
「い、一体、誰のお話をなさっているんですか? 私は、そのようなこと……。」
「しらばっくれる気ですの?!」
しらばっくれるの何も、とミルチェは涙目になる。だがアイミティアは、ミルチェがキースといちゃいちゃしていた、という誰とも知れぬ証言を信じ切っているようで、ミルチェの言葉になど耳もかさない。
「み、身に覚えがございませんもの!!」
なんだかよく分からないが、このままでは無実の罪を着せられてしまう、とミルチェは必死に言い訳した。
冷静に考えれば、そうなっていたところで、誰から罰を受けるという話でもないのだ。だがミルチェの冷静な思考は、もはや彼方へと飛んで行ってしまっていた。
「身に覚えがないですって? では、ここ暫く、陛下が頻繁に会っておられた女性なんて、貴女以外、誰がいると言うのです?」
「え、あ……、それは………」
ミルチェは思い出していた。
見舞いの許可が出てからというものの、王宮に日参し、今だけだからと常にキースの傍にいた。その中で、同じような行動をする女など、勿論いなかった。
ただ一人、自身を除いて、だ。
ようするに、アイミティアが糾弾したい相手は、間違いなくミルチェ、ということだ。
アイミティアの怒りの矛先が、正しく自分自身だったと気が付き、ミルチェは心なしか青くなった。
「で、ですがアイミティア様。私、陛下といちゃいちゃなんて……!」
「してない? してないと仰るの?! では陛下から、手ずからお菓子を食されていたのは、どう言い訳なさるの?!」
「み、みみみ、見てたのですか?!!」
真っ赤になって顔を隠すミルチェに、アイミティアはどこか楽しそうに、それだけじゃありませんわ、とさらに追い打ちをかけていった。
一しきりミルチェが恥ずかしさに悶え苦しんだ後、ようやく落ち着きを取り戻したアイミティアが、椅子に座りなおした。アイミティアは生き生きとした顔で、すっかり冷めてしまった紅茶を飲んで、ふぅと息を吐いた。
ミルチェは、アイミティアの攻撃に息も絶え絶え、だった。
「ア、アイミティア様が、陛下の事を、よくご覧になっているという事は、理解いたしました……。」
「当然ですわ。」
どこか得意げな様子で、アイミティアはふんと胸を張った。ミルチェはようやくにして復活した後、そんなアイミティアを見て、ふと思った。そして、それがそのまま口について出た。
「アイミティア様は、陛下の事がお好きなんですね。」
ええ、当然ですわ。
ミルチェは、アイミティアがそう返すだろうと思っていた。だが、そんな予想とは裏腹に、アイミティアは何故か、傷ついた顔をした。
「アイミティア様?」
「ええ、そうです。好きですわ。好き…、心からお慕いしていますわ。」
彼女の言葉には、今まであった覇気が全く感じられない。どころか、その声はどんどんと小さくなっていく。
ミルチェは何か、言ってはいけないことを言ってしまったのか、と慌てるが、アイミティアが今何を考えているのか、ミルチェには全く分からなかった。
アイミティアが顔を上げた。そして、苦し気に顔を歪めて、ミルチェを見た。ミルチェが初めて見る表情だった。
「たとえ、振り向いて下さらずとも、私はあの方を、愛しています。」
好きだと言っているのに、何故こんなにも苦しそうなのか。
ミルチェには全く、分からなかった。
ミルチェはキースが好きだ。
けど、ハンナも好きだし、アイミティアの事も出会いはお世辞にも友好的とは言えなかったにも関わらず、好きになってきている。今までは考えないようにしてきたが、それでも両親が好きだし、村の友人達も好きだった。
ミルチェには好きな人がたくさんいて、きっと皆もそうだと思っていた。
だから当然、キースの事を好きな人も一人じゃなくて、ミルチェもアイミティアも、エルムやハーディルもそうだろうし、きっと他にもいっぱいいるはずだ。
ミルチェはそう、思っている
アイミティアはまるで、彼を好きになってはいけなかったかのような表情で、その思いを述べた。
それがミルチェには不可解でならない。
人は誰を好きになってもいいはずなのに、と。
振り向いてくれない、というのもミルチェには分からなかった。
キースはアイミティアの事が好きなはずなのに。そうでなければ、一緒にいたりしないはずなのに。
それきり押し黙ったアイミティアを、ミルチェはただただ困惑しながら見つめていた。
その頃王宮では、キースとエルムが二人、執務室にいた。
静まりかえった部屋で、二人は今朝方上がってきた報告書を睨みつけている。
「陛下……。」
キースは額に手を当てて、大きな溜息を吐く。
どうしてこんなことになったのか。
彼らを渋い顔にさせているのは、勿論、彼らの目の前にある報告書だ。
先日の毒の入手経路から浮かび上がった貴族達、その中から抜粋された者たちの、詳細な報告がそれだ。
そしてそこから浮かび上がった、あの日の詳細についても書かれている。
「神殿…、特に導師の住まう大神殿は、警備が強固だ。そこに侵入された時点で、ある程度予測はしていたが……。」
大神殿には、魔法による強固な結界が張られている。あまりに昔に張られたもののため、仕組みなどは不明だが、過去に外部からの侵入を許したことはなく、その結界の効果は確かなものだった。
いや、今も、外部からの侵入を許してはいない。
その調査結果は、あの事件が内部の者によって行われていたという事が、確かに書かれていた。
そもそも入る権利がある者が入った。これは侵入ではない。言うなれば、事前に気が付けなかった、こちらの落ち度だ。
「陛下、どうなさるおつもりで?」
エルムの問いにキースは押し黙った。
王族を害したとなれば、本来なら須らく死罪だ。場合によっては、関係のない一族郎党を全て、という場合すらある。だが、キースは迷っていた。
「……エルム、お前は手を出すな。暫くは、あれの思う通りに動いてみる。」
キースは持っていたその書類をエルムに渡す。エルムはそれを受け取ると、黙って頭を下げた。
あの時、エルムと彼について話した時。彼が話してくれるまで待つと決めたのが、間違いだったのだろうか。問いただすべきだったのか。
キースには分からなかった。
だが今は、立ち止まってはいられない。
キースは執務室の窓辺に寄り、外を見下ろした。
城の裏手にある私室と違い、ここからは人の往来が見下ろせる。キースはそこを行きかう、人々や馬車の中から馬に乗って城門を通った、その人物に目を留めた。
お帰りのようだ。
キースは細く息を吐いて、振り返った。神妙な顔をしているエルムに肩をすくめる。
「戻ってきた。……だから、その顔、普段の顔に戻しておいてくれ。」
何が、とは言わない。だが、お互いにそれを間違えて認識することなどない。些か緊張していたらしいエルムは、キースの指摘にはっとして、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「それから、その書類は燃やしておいてくれ。」
エルムが一つ頷くと、彼の、炎よ、という一言と共にその紙は燃えあがる。
そこに書かれていた、「ハーディル・ベルリーズ」に関する調査も、共に灰も残らず消えた。
「取り乱して、申し訳なかったですわ。」
アイミティアはそっぽを向きながら、ぽそりと謝罪の言葉を口にする。ミルチェは何と答えて良いか分からず、困ったように笑うしかできなかった。だが、アイミティアは何か返答を求めていたわけではないらしく、それを気にした様子はなかった。
現在、二人は馬車の中に場所を移していた。ミルチェが王宮へ向かうのにアイミティアが同行してる形だ。
いつも一人で乗っているこの場所に、他人がいる。ミルチェは少し不思議に感じた。
だが、悪い気はしない。
ミルチェがにこにことアイミティアを見ていると、その視線に気が付いたアイミティアは、一瞬きょとんとした顔をして、またふんと顔を逸らした。
よくみれば、彼女の頬は少し赤い。照れているらしいアイミティアを見て、ミルチェはますますご機嫌だった。
だがあんまり見ていると、じろじろ見ないで下さいませ、とアイミティアにまた怒られてしまうとミルチェは気が付き、視線を外す。そしてそのままミルチェは、何の気なしに馬車の外を覗いた。
「あれ……?」
「どうかなさいましたの?」
アイミティアの問いにミルチェが窓の外を指さすと、彼女もミルチェと同じように窓の外を覗きこんだ。
ミルチェの指が指していたのは、蛇行する道の二段ほど下がった場所。誰かが一人、馬を駆っていた。
「あれ、ハーディル様ではないですか?」
「………そう、ですわね。ディー兄様だわ。」
方向的に、彼が大神殿へと向かっているのは間違いない。もう少しすれば、かち合うだろう。
何の用事だろう。
ミルチェは首を傾げた。わざわざ彼が来ている、という事は、恐らく火急の要件なのだろう。それも重要な。使いに書面を持たせるだけでもなく、ミルチェが王宮へと辿り着くまで待てない用事、ともなると。
どうにも良い予感はしなかった。
ミルチェは、道の正面にハーディルが現れたところで、馬車を止めさせた。それに気が付いたのか、彼も速度を落として、馬車の近くに寄った。
「どうされました?」
馬車の窓から顔を覗かせ、尋ねる。
「導師……」
顔色が悪い。どうしたのだろう。ひとまず中へと入らせて、座らせるべきだろうか。
そう思ったミルチェは、中にいるアイミティアの意見を聞こうかと、少し窓から身を引いた。
その時、ハーディルとアイミティアの目が合う。ハーディルはビクッと肩を揺らし、さらに血の気が引いてしまった。
「お、お兄様?」
そんな兄の様子に困惑するアイミティアを見て、ミルチェは入れるのは駄目かと考えを改める。
「ハーディル様、外でお話を聞きますわ。」
窓を閉め、ミルチェは扉を開ける。
アイミティアに中で待つよう言い聞かせた後、そこからぴょんと飛び降りた。行動を取り繕うのは今更だろう。静々としている所しか見てこなかったアイミティアは、え?! と仰天していたが、ミルチェは無視して扉を閉めた。
そうしている間に、ハーディルも乗っていた馬を下りて、それを御者に渡し、少し離れた所まで歩いていくミルチェの後ろをついて来ていた。
ここならば誰からも聞こえないだろうという所まで歩くと、ミルチェは足を止めた。ハーディルもその傍まで来ていた。
「申しわけありません、わざわざ……」
「いいえ。それより、ご用件は何でしょうか。」
ハーディルの方を向き直り尋ねる。だが、言い辛いのか、言葉を選ぶように、ハーディルは視線を彷徨わせる。
だが、ミルチェも悠長に待つ気はない。
「……陛下に、何か?」
ハーディルが顔を跳ね上げる。そして、小さく頷いた。
アイミティアの顔を見て青ざめていたところから、彼女に聞かれてはまずい話なのだろうとミルチェも予測していた。
だから、取り乱しはしなかった。
それでも、心臓が早鐘を打つように音を立てる。
ミルチェは深呼吸をして、左手の甲を見た。そこには、まだ印が刻まれている。それは、キースは少なくとも現在、生存している、という事だ。ミルチェは少しだけ安堵する。
「何が、あったのです?」
「ええ……、陛下が賊の凶刃に倒れられ、現在、意識がありません。」
「!」
ミルチェは息を飲んだ。叫びだしそうになるのを堪え、きゅっと唇を噛んだ。彼の元へ行かなければ、そう叫ぶ感情を抑え、考える。
今すべきことは何だろうか。
キースの元へ駆けつける事だろうか。それとも身の安全を考え、大神殿に戻ることか。
普通に考えれば、大神殿に戻るのが得策だろうと、ミルチェは思う。あそこは、高位の魔術師が山のようにいる。強固な結界も。
だが何故かミルチェは、神殿に戻る、と言いかけて、結局口にせぬまま口を閉じた。
ミルチェはもう一度左手を見る。そして、目を閉じ、もう一度考えた。
そして、ミルチェは目を開き、ハーディルを真っすぐ見た。
「陛下の元へ、案内してください。」
「いえ、導師。貴女には逃げていただかねば……」
だが、ミルチェは頑なに首を振った。何故か、ここで逃げてはいけない気がするのだ。
それに、このまま陛下に何かあったら、私、自分を許せない……。
ミルチェは決意を新たにすると、ハーディルにもう一度言った。
「いいえ。私は陛下の元へ。……命令です、案内を。」
導師の権限は王の次に高い。その為こう言えば、王、キースからの命令でない限りは、ミルチェの命令が優先される。
ミルチェとてあまり好きなやり方ではないが、致し方ない。
だが、ハーディルが一歩、ミルチェに近付いた。
そして、そのミルチェの手首を掴む。
「ハーディル様……?」
その常ならぬ行動に、ミルチェは不安がこみ上げる。ミルチェは、すぐ近くまで来ていたハーディルを見上げた。
ハーディルは、表情の抜け落ちた暗い顔をしている。反射的に手を引き抜こうとすた。だが、女の細腕ではビクともしない。
ミルチェはとても嫌な予感を感じた。
そもそも、本当に彼は私の保護が目的だったのか、と。
「……!」
首の後ろに衝撃が走った。
「それじゃあ、困るんですよ……。」
その言葉を最後に、ミルチェの意識は暗転した。