第一話

第二章導師の王宮訪問

「申し訳ありませんでした、陛下。」

 ミルチェが帰った後、程なくしてキースの元に彼女付きの女官が現れた。彼女はミルチェに兵に引き渡しかけていた二人から事のあらましを聞くと、丁寧に詫びを言い帰っていた。だが帰り際に、「そのまま捕まえて下さってよろしかったのに。」と聞こえたような気がしたキース達だったが、三人は懸命にも気のせいということにしたのだった。

 その女官が帰り、部屋に三人だけになった後、次に頭を下げねばならなかったのはキースの前で固まっていた二人だ。

「エルム、ハーディル……。」

 キースは大きく溜息を吐いて、今更ながら青い顔をしている二人を見据えた。

 ミルチェの動きを拘束していた文官、エルムはもちろんだが、剣を抜いていたもう一人、ハーディルはとくに、顔色が悪い。彼がもし一歩間違ってミルチェを傷つけていれば、さすがのキースも庇うのは難しかったため、当然と言えば当然だった。

 二人は冷や汗が止まらず、キースが叱責をする気にもなれないほど動揺している。

 だが、小言の一つ二つは許してほしい。

 キースはもう一度溜息を吐いた。

「まったく、不勉強が過ぎる。私の側近なら、導師の顔くらい覚えていてくれ……。」

「「はい………。」」

 うなだれる二人に、キースもそれ以上の咎めは控える。そもそもキースとしては、怒りより呆れのほうが大きい。ミルチェ自身が穏便に済まそうとしていたのだから、事を荒立てる必要もなかった。

「分かったなら、ひとまずこの話は終わりだ。」

 キースはそう言ってパンと手を叩き、二人に話題の終了を伝える。二人もまだ引きずってはいるものの、キースのその言葉に頭を切り替えることにした。

「それで、どのくらい経ったんだ?」

 勿論キースが尋ねるのは、自身が射られてからの話だ。

 キースは着ていた服の襟ぐりを開けて、包帯の巻かれたその肩を見下ろす。

 動かすと鋭い痛みが走った。

「丸一日、眠っておられました。」

 怪我と、それから矢尻に塗られていた毒とで、キースは目を覚まさなかったのだ。エルムがそう答えた。

「毒?」

「はい、どうも致死性の低いものだったようで。」

 今は解毒も終わり、もう心配はない。だがその影響で、キースは暫く大人しくしていなければならない、との事だった。

 何故致死毒ではなかったのか。

 その疑問を当然抱くキースだったが、それよりも、ミルチェに当たらずにすみ、本当に良かったと思った。

 だが、導師に当たる方が、まだマシだと人は言うのだろうな、とキースは苦笑する。

 キースは自身の右手の甲に刻まれた印を見つめた。

 王は治癒魔法が使えるからだ。

 魔法、今はもう王と導師の二人しか使えぬようになってしまったものだ。

 それは、エルムをはじめ魔術師達が使う魔術とは、似て非なるもの。

 大昔、まだ魔法を使える者が大勢いた頃に、魔法を体系化し、呪文を介する事で一般人でも使えるようにしたもの。それが魔術だ。

 魔術は魔法よりも威力は多少劣るものの、その殆どが魔術で再現可能になった。だが、それは導師の使う魔法のみ。

 王の使う魔法は、それとは性質が少々異なる。故に、王の魔法、とりわけ治癒魔法は、王以外の誰も使うことが出来ない魔法の一つだった。

 治癒魔法は、多くの傷病を癒やすことが出来る。だが、その魔法は一つだけ難点があった。

 魔法の使用者、つまり王自身の治癒が出来ない点だ。

 だから人々は言う。導師が怪我をしても、王たる貴方が治せば良い、と。

 キース自身、それが最善だという事は、分かっていた。

 だがそれでも、キースはミルチェが無事で良かったと思う。

 たとえ一瞬でも、痛みを、苦しみを、感じさせるのは嫌だったから。

 キースは先程会った彼女を思い出して、ふっと頬をゆるめた。

 キースは彼女の事を、いつも澄ました顔をしているもっと大人しい人だと思っていた。

 まさか、ベランダから侵入するような人間とは、考えた事もなかった。

 その上、あの時彼女が着ていた土に汚れた靴や服から、彼女が山を下ってきた事をキースは悟った。大神殿にも黙って出てきたのだろう、と彼は推測する。

 それらを思い出し、キースは彼女が想像していた何倍も面白そうな人だ、と満足げに頷いた。

 自分の対になる人が、ただ微笑んでいるだけの人間だなんて、つまらないだろう?

 それに―――

「エルム、ディー。お前たち、導師に名前を名乗ったか?」

「え、いえ……?」

 どういう意図の質問かと怪訝な顔をするハーディルに対し、エルムは何か思い当たったように、あ、と声を上げた。

「最後、何故か名前を呼ばれました。」

「言われてみれば……。」

 エルムもハーディルもミルチェに名乗らなかった。二人ははじめ、彼女を不審者だと思い、その後もそれどころではなかった。だから、名乗る暇などなかった。

 だが、ミルチェは最後、確かに言ったのだ。「ごきげんよう。エルム様、ハーディル様」と。

 何故、と頭に疑問符を飛ばしているエルムとハーディルだったが、キースは何となくは察しがついていた。

 王宮に勤める官人には、全員身分証のような物として現在所属している部署を表す紐飾りを腰につけている。下級官人では精々所属を分ける程度のものだが、ある程度位が上がれば、そこでの地位も分かる。

 そしてこの二人は後者だ。

 官人として勤める上では必須の知識だが、大神殿に籠もっているはずの彼女が知っている、その事がキースは意外だった。

 特に彼女は導師という立場上、知っている可能性は限りなく低い。導師である彼女に、正規の教育係はそれを、絶対に教えないからだ。

 誰かが教えたのか、自分で調べたのか。

 どちらにせよ、ただ諾々と周りの言うを事を聞いているだけの人物ではない、という事がよく分かる。

 キースは、もっと彼女を知りたいと思った。

 だから、いたずらを思いついたような顔で彼は笑った。そして、その顔を不思議そうに見ている側近の名をキースは呼んだ。

「エルム。」

「はい?」

「大神殿に伝令を。導師ミルチェの王宮への出入りを許可する。見舞いぐらい来させてさしあげろ。」

 えぇ?! と驚く二人を尻目に、キースは早く行け、と笑ったのだった。




「は? 許可が、出た?」

 ミルチェが王の寝室に忍び込むという暴挙に出た翌日の早朝。

 暗殺未遂事件のあった祭壇を清める、という神官長との約束を守るため、神殿内を移動していた時の事だった。ミルチェと同じように怪訝な顔をしたハンナに、王宮への出入りが許可された、と告げられた。

 昨日大神殿へと戻ったミルチェに、ハンナは大きな雷を落とした。その後、残念ながら、やはり王への謁見の許可は下りなかった、と彼女は言っていたのだ。

 それなのに、昨日の今日で何故こんな事にと、ミルチェは首を捻る。ハンナも同じく首を傾げており、彼女が何かをしたわけではないのは明白だった。

「あのバ……、げふん。あなたの父親は?」

 ミルチェは、言いかけた言葉を慌てて訂正する。ハンナはそれに、肩を竦める。

 ハンナの父は王宮でも上から片手の指に入るほど上位の官人で、国を動かしている人物の一人だ。昨日の見舞いの打診も、ハンナ経由でその男に告げたミルチェだが、すげなく断られている。

 彼は何も言わなかったのだろうかと、ミルチェは疑問に思ったのだ。

「それが、どうやら……陛下の勅命のようでして。」

「えぇ……?」

 ハンナいわく、彼女の父親もはっきりと王からの勅命と言っていたわけではないようだった。だが彼の不承不承という様子から、上からの、それも、絶対に逆らえない立場の人物からの命令だろうと、ハンナは推測したのだった。

 そんな人物、彼ほどの立場になると、一人しかいない。

「ますますもって、どういう事なの……。」

 昨日は正直なところ、失礼なことしかしていない。

 それはミルチェも、勿論自覚している。もっともミルチェとしては、恥ずかしさ故あまり思い出したくはない事ではあったが。

 それなのに、苦情が来るわけでも、謝罪に来るようという要請でもなく、ただただ見舞いの許可だというのだ。ミルチェには意味がわからなかった。

「………、珍獣の観察でもしたいと思われたのかしら。」

「―――ハンナ。」

「あら、口がすべってしまいましたわ。」

 そういって舌を出すハンナに、ミルチェはむぅと口をとがらせた。が、次の瞬間には二人は顔を見合わせて吹きだした。

「さて、冗談はそろそろやめにして……。着きましたよ、ミルチェ様。」

「うん。」

 ハンナが開けた扉をミルチェはくぐるった。そこには彼女もよく見慣れた、祭壇がある。その前には神官長が立っていた。

「神官長様、おまたせ。」

「いえいえ、御足労いただきまして、ありがとうございます。」

 神官長はミルチェに恭しく、頭を垂れた。ミルチェがそれに、うんと頷くと、神官長はさっそく、と準備をはじめる。

 とはいえ、殆どの準備は終わっている。あとは火を焚いたり、といった仕上げ作業だ。それを周囲に立つ神官たちに指示を出す神官長のその動きは、年を感じさせなかった。

 その様子をミルチェが見守っていると、そういえばと神官長が口を開く。

「牢には入らなくて、済んだのですね。」

「うえっ?!」

 突然、神官長からかけられたその言葉に、ミルチェがむせる。何か飲んでいたとしたら、確実に前に撒き散らしていた事だろう。

 ミルチェは何があってそんな話に、と思い、そして、はっとして、ハンナの方を振り返った。ハンナは明後日の方向を向いている。

「ハ〜ン〜ナ〜〜?」

「私は、ミルチェ様がもし、牢屋に放り込まれてたら、明後日でもいいですか、って聞いただけですー。」

「もー! なんで、見つかる前提なの?!」

 当たり前でしょう、とハンナが返し、二人はやいのやいのと言い争いをする。神官長はそれを微笑ましげに見つめていた。

 そうして一通り二人が言い争い終わった頃には、準備はすっかり整っていた。

「そろそろ、よろしいですかな、導師様。」

「あ、うん。…続きは今度ね、ハンナ。」

 はいはいとハンナが答えるのを聞くと、ミルチェは神官長に向き直った。

 神官長の手には、長い錫杖が握られている。ミルチェはそれを受け取って、前に進んだ。

 ミルチェが歩く僅かな振動で、杖がしゃらん、しゃらんと涼やかな音が鳴った。

 神官長をはじめとする神官達はミルチェから大きく離れて、彼女に向かって跪く。その様子を見ていたハンナは、そっとその部屋から外へと出ていった。

 ハンナが部屋を出る音を最後に、部屋はシンと静まりかえった。

 一切の音が消えて数拍、ミルチェは持っていた杖をぶんと振った。

 そのしゃらんという音を皮切りに、周囲の神官達が祈りの言葉を捧げはじめる。ミルチェはその言葉を耳の端で捉えながら、数回杖を振りつつくるりと回った。

 神官達がいる場所より二、三段上がった円形の舞台のようなその場所を、縦横無尽に動きながら、それを何回か繰り返した後、神官達の祈りの終わりと合わせるように、杖を床に立て、ミルチェも膝をついた。

 杖が床をカンと叩く音が響く。そして、余韻のように、杖がしゃらんしゃらんと鳴って、いずれそれも止まった。

 祓えは終わった。




 祓えが終わり、暇になったミルチェは、さっそく王の元へと出かけようと、王城へと一報を入れた。本音を言うならば、まだ何かの間違いだったのでは、という気持ちが拭いきれなかったミルチェは、返答が来たときには、ハンナと共に大きく安堵の溜息をついた。

「それで、迎えが来るって?」

 王宮からの返書を読みながら聞いたミルチェに、ハンナは頷いた。返書によると、昼過ぎに迎えを寄こすので、それに乗って来られたし、とのことだった。

「儀式以外で、こうして対面することが許可されるなんて……。」

 未だに俄には信じがたいと、呟くハンナに、ミルチェも同じ思いで、こくこくと頷いた。

 導師が王に会うこと、特に政治介入が禁じられるようになってから、数百年が経っている。今はもう、その理由さえ分からなくなってしまったこの慣習が、破られる時が来るなど、誰が予想していただろうか。

「ミルチェ様。決まったからには仕方ありません。」

「う、うん?」

 ハンナがずいとミルチェに迫った。

「いいですか? く、れ、ぐ、れ、も、失礼なことはしないでくださいね。貴女は、導師、なんですからね。」

「わ、わかってるよ。」

 さすがに昨日の不審者のごとき振る舞いは、自分でも反省しているのだから、とミルチェが頷く。真正面から会いに行ってまで、ミルチェ自身騒ぎを起こしたくはなかった。

「ミルチェ様、昨日のは論外です。……私が言ってるのは、その言葉遣いや振る舞い。ボロ、出さないでくださいね、って言ってるんです。」

「うっ。」

 導師としての言葉遣い、振る舞いをミルチェが叩き込まれたのは、八年前。彼女が王都へと来てからのことだ。今でこそ、外ではそうそう崩れないそれだが、そもそもミルチェが外で話す機会があまりない。特に今回のような長時間話すような機会は、今までにほぼ無かったと言ってよかった。

「大丈夫、だと思うよ? ……………たぶん。」

 絶対の自信はないミルチェが、ぼそっと付け足した最後の言葉に、ハンナは生温い目を向けた。


 そして昼を少しまわった頃。

「エルム様。」

 現れた迎えに、ミルチェもハンナも目を丸くした。二人共、てっきり何人かの護衛が送られてくるのかと、思っていたからだ。

 エルム・フィーラス。フィーラス公爵家子息で、王の侍従を務める彼は、現在の宰相である彼の父について、勉学に励みながら、王の身の回りの細々した用事をこなしている。

 ミルチェでいうところのハンナと同じような立ち位置で、彼は常に王の傍に侍っている、とミルチェは聞いていた。もっとも、ハンナと同じような、とはいったが、侍女のするようなミルチェの身の回りの世話までしているハンナとは少し違うのだが。

「では、いってらっしゃいませ、ミルチェ様。」

 ハンナはミルチェに、今まで滅多に使われることのなかった外行きの上着を着せながら微笑む。微笑んでいるが、ミルチェを見るその目は鋭い。もちろん、分かっているだろうな、という目だ。

「ええ、行ってまいります。」

 ミルチェも何食わぬ顔をしたまま、だがハンナには分かるようにしっかりと頷く。ミルチェだって、騒ぎを起こしたり、失礼をしたりするのは、本意ではないのだ。

「では、参りましょうか、エルム様。」

 ミルチェは心配を顔に滲ませるハンナに背を向け、馬車へと乗り込む。エルムの他にもう一人連れられていた護衛と思しき人物は、御者の隣に座るらしく、馬車の中でミルチェはエルムと二人きりになった。

 大神殿から城まではそれほど離れてはいない。

 だがその間の道は、坂道を緩やかにするために、山を蛇行するようにして造られている。そのため時間でいうと、山を滑り降りればすぐ着いてしまう距離であっても、ゆっくりと進む馬車では、かなり差があった。

「昨日は、申し訳ありませんでした。」

 大神殿の門を抜け、少し経った頃、エルムがそう切り出した。

 昨日はミルチェがハンナに捕まらないために、大慌てで出て行った。そのため、謝罪の暇がなかったからだろう、とミルチェは思った。

 とはいえ、謝られても困る、というのがミルチェの本音だ。あの時にも、ミルチェは言ったが、彼が謝る必要はない。

 だから、深々と頭を下げるエルムに、ミルチェは頭を上げるように言った。だが、エルムは頭を下げたまま、言葉を続けた。

「いえ、導師の見分けもつかぬなど、恥もよいところです。……ですが、どうか罰は私のみに。ハーディル・ベルリーズは御許し頂けませんでしょうか。」

 許すもなにも、とミルチェは天を仰ぐ。そもそも罰する気などないのだから。

「顔を上げてくださいませ。……私は、貴方がたのどちらにも、罰を与える気などございませんわ。」

 エルムが、そろりと顔を上げた。ミルチェはそんな彼に微笑みかける。

「エルム様もハーディル様も、職務に忠実であっただけ。そうでございましょう?」

 いやしかし、と食い下がるエルムを、ね、と笑顔で押し切る。そんなことより、ベランダをよじ登っていた事を、早急に忘れて欲しいミルチェだった。

「それに、きっと、叱責なら陛下からあったのでは?」

 私も戻ってから、こっぴどく怒られましたわ、とミルチェが苦笑いで言うと、エルムも覚えがあるのか、くすりと笑った。

「罰、というほどではありませんが、壁掃除を命じられました。」

 エルムは何の気なく言ったのだと、ミルチェも思う。

 だから彼女も「あらあら、大変ですね。」と言おうとした。だがミルチェは口を、あ、の形に開いたところで、何かが引っかかった。

 壁、掃除……?

 ミルチェは思った。

 私はどこから、部屋に上がったのか。山の斜面を滑り降りた足で、壁を、よじ登ったのではなかったか、と。

 そしてミルチェは、そのことに思い至った瞬間、さぁと頭から血の気が引いた。

「そ、そそそ、それは、もしかしなくても、私のせいでは………!」

 エルムも、あ、と口を押さえる。

 王城はもう目の前まで迫っていた。そこまでの間、今度は平謝りするミルチェを、エルムが宥める番だった。




「この度は、見舞いのご許可を頂きまして、ありがとうございます。」

 ミルチェがエルムに先導され入った部屋は、昨日と同じキースの私室だった。昨日とは違い、今度はきちんと部屋の扉から入って、ミルチェは謝辞を述べる。

 ベッドの上で上体を起こしていたキースは、読んでいた本を閉じる。そしてキースは、傍に用意されていた、一人がけのソファをミルチェに勧めながら、悠然とミルチェに微笑んだ。

 ミルチェは胸がなんだか、きゅっとしたような気がした。

 だが、それ以上の異変はなかったので、一、二度胸元を擦りつつ、腰を下ろす。エルムは、キースに一礼だけして、部屋を後にした。

「どうされた?」

 ミルチェが胸を擦りつつ、首を傾げているので、キースは訝しげな顔をしている。ミルチェは、はっとして、手と首をぶんぶんと振った。

「いえ、なんでもないです!」

 特におかしな所も感じなかったので、ミルチェはそれを放置することにした。

「それよりも。お加減は如何ですか、陛下。」

 ミルチェはキースの肩口に視線を移す。今は服で隠れていて、巻かれているだろう包帯もミルチェからは見えない。だが、決して浅くなかった傷を思い出し、ミルチェは眉を下げた。

「どうということはありませんよ。………動かせば、確かにまだ痛いが、貴女が気に病む程ではない。」

 そう言って優しく笑うキースに、ミルチェはますます胸が痛い。あの矢がどちらを狙っていたのかは分からないミルチェだったが、自分がもう少し早く動くことが出来れば、彼を怪我をさせずに済んだのではないか。そう思えてならなかった。

 せめて私も、治癒魔法が使えれば……。

 王以外使うことの出来ない治癒魔法。先王でさえも、印がキースに継承されて以来、使えなくなってしまったものだ。

「怪我をさせてしまって、ごめんなさい。」

 ミルチェはキースの手を握り、小さな声で謝る。キースは、すっかり意気消沈しているミルチェの手を、空いていた右手を重ねて握り返した。

 そこには、ミルチェの左手にあるものと、同じ印がある。

「貴女こそ、怪我は?」

「……? 私は、特には……」

 キースはふるりと首を振って、握っていたミルチェの手を持ち上げた。ミルチェがそうして持ち上げられた自身の掌を見ると、そこには細かい傷が無数についていた。

 それは昨日、ミルチェが壁をよじ登ったときについた傷だ。浅いそれは、ミルチェ自身、気にも留めていなかったものだった。

「昨日は、私を心配して来てくれたのだろう…。ありがとう。」

 ミルチェの傷だらけの手に、キースが軽い口付けを落とす。

 ミルチェはそれに真っ赤になって、手を引き抜こうとする。だが、意外にも強い力で掴まれていて、ミルチェはキースのされるがままにならざるを得なかった。

 だが、一拍おいて、変化があった。

 ミルチェの手の傷が、みるみるうちに治っていったのだ。

「これが、治癒魔法……」

 ミルチェがその様を、呆然と見つめていると、そうして全ての傷が消えた。キースはそれを確認すると、ミルチェの手を放す。ミルチェはキースの手からそっと自分のそれを離して、まじまじと見つめる。

 ミルチェの目には、それはむしろ、以前より綺麗になっているような気さえした。

「あ、ありがとうございます。」

 キースはミルチェの手をもう一度掴んだ。左手、導師の印があるその手を。

 なんだか、左手が熱い。

「貴女が傷をつくるのは、私が嫌だ。だからあの日、貴女に矢が当たらなくて良かったと思っているし、昨日のような事は、もうしないでくれ。」

「………はい。」

 真剣なキースに、一、二もなく頷きそうになるミルチェだが、それでも窓からの脱走は約束できない、と少し目を逸らして答える。すると、キースの手がミルチェの頬に添えられて、真正面に向けられる。

 真っすぐな視線が絡まり合う。

「いいね? 私の導師。」

「あ、ああ…あの……」

 左手の熱さが頬に移る。

 どんどん顔が近寄ってきているような。恥ずかしさで、頭が沸いてしまうのではないかとミルチェは思った。

「いいね? ミルチェ。」

「は、はい! 分かりましたので、あの……」

 そろそろ倒れるのではないかとミルチェが思ったとき、ようやくキースがその手を放した。ミルチェは、ほっとした気持ち半分、ちょっぴり残念な気持ち半分で、離れていく手を見る。

「もう、時間切れ、かな。」

 何が、とミルチェはキースの言葉に首を傾げる。

 そして、それと同時に部屋の扉が、バンッと音を立てて開け放たれた。

「陛下! いらっしゃいます?!」

 突然響いた若い女の声に驚いて、ミルチェはその声のした方を見た。

 そこには、開け放たれた扉の前で仁王立ちする少女がいた。

 年の頃は、ミルチェとそう変わらない。ただ、ふんわりと巻かれた、艶やかな黒髪を背にながした、まさに、美少女然とした人物だった。

「アイミティア。いきなり開けない。」

 苦笑いで彼女の登場を見守っていたキースが声をかける。だが、彼女は頬をぷうと膨らませて、キースに反論する。

「だって! お兄様ったら、何のかんのと理由をつけて、陛下に会わせて下さろうともしないんですもの。強行突破、というやつですわ!」

 ふんと得意気に鼻をならす少女、アイミティアとキースのやりとりを、ミルチェは呆然と見つめていた。

 美少女、というのには、黙っていれば、という注釈が必要なようだった。

「―――それで。そこの女は、一体誰なんですの?!」

「えっ……」

 突然向けられた矛先に、思わず、お前こそ突然なんだ、と言いかけたミルチェだったが、すんでの所で口を噤む。

 危ない……、今の私は、「導師」……。

 ミルチェは自己暗示のように、胸中でそう繰り返しながら、助けを求めて、キースの方をちらりと見た。

 だが、その目配せが、逆に良くなかった。

 一層、怒りで顔を赤くしたアイミティアが、ミルチェに掴みかかるような勢いで、ずんずんと彼女に近寄っていく。

「貴女! 陛下にどう取り入ったというの! 陛下も、何故なにも―――」

「そこまでだ。」

 いよいよアイミティアが、ミルチェに掴みかかるかと思われたその時。その場にいた誰でもない声が、割って入った。

「ハーディル様。」

 声の主に一番早く気が付いたのはミルチェだった。

 アイミティアが開け放ったままだった扉の傍に、その姿はあった。ハーディルは眉間に皺を寄せ、小さく溜息を吐く。そして、足早にアイミティアの隣まで来ると、ミルチェに膝をついた。

「妹が大変、御無礼を致しました、導師。」

「いえ…、気にはしていません。」

 ……って、妹?

 ミルチェは目を瞬かせる。

 言われてみれば、目鼻立ちがよく似ていると、ミルチェが二人を観察する。ミルチェがそうして、じっと二人を見ていると、ハーディルはますます恐縮したように頭を下げた。そして、未だ仁王立ちしているアイミティアに気が付くと、お前も頭を下げろと睨んだ。そして、アイミティアも、しぶしぶ、頭を下げたのだった。

「それで、何かあったのか、ハーディル?」

 ミルチェが二人に頭を上げるように言った後、キースがそう問いかける。その問いにハーディルは、少々ご報告が、と言ったきり、黙る。そして、チラリとミルチェに視線を投げた。

 聞いたらダメなやつね。

 そう思ったミルチェは、そろそろ帰りますわ、と席を立った。

「では、帰りの使者を。……アイム、お前ももう帰りなさい。」

「まだ、来たばかりですのに!」

 だがアイミティアは、お兄様、ひどい、と言いつつも、今回は大人しく引き下がり帰って行った。ミルチェはそんな彼女を見送った後、キースに向きなおる。

「では、失礼いたします、陛下。」

 そう言ってミルチェが、出て行こうとすると、その手を掴まれ彼女は引き止められた。ミルチェが何だ、と振り返ると、キースは彼女のその手をぎゅっと握って、とびきり優しい笑顔をミルチェに向けた。

「また、明日に、ミルチェ。」

「は、はい……」

 どぎまぎしながら、頷くだけ頷いたミルチェが、知らぬ間に明日も会うことになっていた事実に気が付いたのは、自室に帰って暫くしてからだった。




「それで、報告とは?」

 ミルチェを王宮の外まで送り、帰りの馬車に乗り込むのを見届けたハーディルが、キースのいる部屋まで戻ってくる。

 ハーディルがミルチェを送りに外へと出ている間に、エルムも到着しており、部屋にいるのは三人だけだった。

 怪我をして暫く安静にと言いつけられているキースだが、すっかり仕事の顔になっているのを見て、側近二人は苦笑を漏らす。

 キースがそれに不思議そうな顔を向けると、二人はふると首を振って、エルムが報告をはじめた。勿論、キースの暗殺未遂事件についてである。

 あの日、キースが射られ騒然としている中、まず実行犯を捕まえるべく、大神殿の守りを固めていた兵士や魔術師達は敵の足取りを追った。だが、彼らの捜索は虚しくも空振りに終わり、捕まえることはおろか、その姿さえ発見できなかった。

 それから、傷を負ったキースが王宮へと運ばれ、ひとまず落ち着いた頃に、詳しい調査がはじまっていた。

 その調査により、矢は祭壇のある部屋の天窓から打ち込まれた事が分かった。また、キースの肩に刺さっていたその矢は、軍部が支給している品だったということも判明した。

 大神殿は関係者しか入れない上、軍の支給品である矢を使っていたとなれば、王宮関係、それも軍に関係がある人間が行ったように一見は、見える。

「軍部の人間が関係していると思いますか?」

 エルムの問いにキースは暫し考えた。そして、ゆっくり首を横に振った。

「いや…、そう決めつけるのは、早計だろう。」

 エルムもその言葉に頷いた。

 勿論、関係者がいる可能性は高い。大神殿へ入るには、それなりの身分が必要だからだ。

 だが、矢に関しては、こちらの捜査を攪乱するために、あえて軍のものが使われたのだろうと、キースはそう思った。

「というか、軍の人間があれを使うのは、自殺行為ですからね……。」

 エルムの苦笑いにキースも応じて笑った。

 意図無く使ったとすれば、かなりの大馬鹿者だろう。

「報告はそれだけか?」

「あ、いえ。……あと、毒の入手経路についても、今調べています。」

 まだ調べが進んでいないようだが、今のところ表の市場では取り扱いが無い、要するに違法なものという事までは簡単に分かったのだ。だが。

「となると、闇市場……。骨が折れるな。」

 通常の市場と違い、中々調査が難しいのが、所謂闇市場だ。

 違法な物、今回使われた毒をはじめ、場合によっては人間さえも売買されているという。キース達も当然、取り締まりは強化しているものの、根絶は難しい。それだけ、内情を知るのが難しい場所だった。

「ともかく、引き続き調査を。……くれぐれも、気を付けて。」

「はい。」

 ひとまず、今回の事件に関する報告は終了した。

 引き続き、通常の執務についての話に移ろうとしたエルムだったが、キースに片手で制されて口を噤んだ。

「ディー、どうかしたのか?」

 事件に関する報告がはじまってから、というものの、ハーディルはどこか反応が鈍く上の空だった。キースの問いかけに、はっとした様子で、ハーディルはキースの方を向いた。

「い、いえ。……すみません、少し考え事をしてました。」

「考え事?」

 意識が飛んでいたことを誤魔化すように、照れ笑いするハーディルに、エルムもにやと笑って聞き返した。

「え、あー、あれですよ。キース様が誰かに執着してる風なの、初めて見たなー、って。」

 そう言われて照れる事になったのは、今度はキースの方だ。もちろん、その「誰か」というのは、言わずとも全員が分かっている。

 ミルチェのことだ。

 エルムも確かに、と頷いている。

「しゅ、執着……。」

 キースは頭を押さえそう呟く。自覚が無いと言えば嘘になる。

 二人が執着している、というのも無理はない。

 普段のキースならば、まず、私室に女性を入れることから渋るはずだった。とはいえ今回の場合、致し方ない部分もあるため、それを問題視しなかったとしても、それでも、あのように何度も手を握ったり、というのは、キースの普段を知る二人にしても、そしてキース自身にしても考えられない事だった。

 キースは特別に女性に対して冷たい、というわけではない。だが彼は、踏み込みすぎない、そして踏み込まれすぎないように、常から気を配っていた。彼の立場上、用心に超したことはないからだ。

 だが今日のキースは違った。

 他二人は見ていないが、治癒魔法にしても、実をいうと接触する必要はなかった。近い距離にいる必要はある。何より、触れればより効果があるため、手を握るまではともかくだのだが、それ以上は完全に不必要な行為だった。

 彼女は、そういうものか、という顔をしていたけれど。

 最後も半ば強引に、キースは明日の約束を取り付けた。ミルチェから見えない角度で、ハーディルが目を見開いていた事に、彼は気が付いていた。

「………そんなに、分かりやすいか?」

 恥ずかしさで赤くなった顔を隠すように、手で顔を覆っていたキースが、小さな声で問うと、二人は大きく頷き、キースはさらに項垂れる羽目になった。

「印の、影響なんでしょうか?」

 一人悶えているキースにハーディルが、何でもないように聞いた。

 どう、なんだろう。

 キース自身、よく分からなかった。

 王と導師は、理屈を超えて惹かれあう、そんな存在だと過去の歴史書でも、そしてキースの先代である、彼の父も語っている。

 先王の対であった、先代の導師が死亡した際、報が来るよりも、印が消えるのを見るよりも早く察知し、そして悲嘆にくれた父の姿を、キースは今でもよく覚えていた。殆ど会ったことも、会話したこともなかったのに、半身を失ったようだった、と後に彼はキースに語った。

 はじめてその姿を見たときから、導師はキースにとって大きな存在だった。

 だがキースは今日、はじめてミルチェと会って会話をして、それだけでは説明できない気持ちが、芽生えたのをキースは確かに感じていた。

 そこに印の影響があるのかなど、知るよしもない。

「さぁ、分からないな。」

 ハーディルにはそうとだけ返した。

 だが、キースの中に、導師、ではなく、ミルチェという一人の少女が強く刻まれたのは間違いのない事実だった。




 次の日のこと。

「あの、何かご用でしょうか……?」

 また明日、というキースの言葉に頷いてしまったミルチェは、内心行っても良いのかという思いが抑えきれぬままではあったものの、いそいそと王宮へと訪れていた。

 ミルチェは昨日来たから道は知っていると、供を断りキースの部屋へと赴いた。いや、赴こうとしていた。

 彼の部屋までもうすぐ、という場所で仁王立ちになったアイミティアに行く手を遮られるまで。

 廊下の真ん中で立っている彼女は、ミルチェに道を譲るでも、話しかけるでもなく、ただ立っていた。

 しかしその眼光だけは鋭く、逃がさんぞと目が言っているため、横を擦り抜けていくことも出来ずに、仕方なくミルチェは彼女に用があるのか、と聞いたのだった。

「少し、聞きたいことがありますの。」

 有無を言わさぬアイミティアの、ついてこい、という無言の圧力。それに、ミルチェは逃げられない事を悟り頷く。そしてミルチェは、踵を返したアイミティアの後ろを大人しくついて行ったのだった。

 アイミティアの後を追いながら、それにしても、とミルチェは考える。

 昨日が初対面だったはずなのだが、どうにも彼女からミルチェは敵視されていた。ミルチェは何か彼女の恨みを買うようなことをしただろうか、と首をひねる。だが、さっぱり心当たりがない。

 ミルチェがうんうんと悩みつつ、だが表面上は穏やかな微笑みを顔に貼り、アイミティアを追いかける。

 そうしていると、アイミティアは城を出て庭の、それも人通りの少ない所へと進んでいく。そしてアイミティアは、ある程度したところで立ち止まった。

「このあたりで良いですわ。」

 そう言って、アイミティアはミルチェに振り返った。

 こんな所まで来るということは、人に聞かれたらまずい話をしに来たということだろうかと、ミルチェは小首を傾げる。傾げながら、それで、どうなさったのですか、とアイミティアに話を促した。

「まずはじめに聞いておきたいのですけれど。」

 そこで言いよどんだアイミティアを、ミルチェは微笑んだまま頷き、続きを待つ。

「貴女が、導師……というのは、本当ですの?」

「ええ、まぁ。そうですね。」

 ミルチェは印が刻まれた左手を差し出して、アイミティアに見せる。

 彼女がそれをまじまじと見つめるのを見ながら、言いよどんだ理由にミルチェは納得した。

 大方、昨日のミルチェに対する態度を気にしているのだろう。知らなかった事とはいえ、導師にあの態度を取れば、下手をすれば重罪になる。

 ミルチェにそんな気はないため、いらぬ心配ではあったが。

 じっくりとミルチェの印を観察していたアイミティアの顔が少し引き攣った。

 紛う事無き本物だと、納得したのだろうと、ミルチェは思った。

 アイミティアは顔を上げた。それを確認して、ミルチェは手を下ろす。

 さて、とミルチェはアイミティアの様子を窺う。普通の御令嬢なら、昨日の失言や態度を泣いて詫びるだろう場面である。

 だがアイミティアは、取り乱したりなどしなかった。

「貴女が導師だということは、分かりましたわ。それから昨日は、相手を誰とも確かめず、喚き散らした無礼は承知しております。その点に関しては、申し訳なかったですわ。」

 そう言って潔く頭を下げるアイミティアを、ミルチェは驚きの眼差しで見ていた。

 泣いたり喚いたりどころか、彼女はいっそ清々しいほどまっすぐ、ミルチェに謝罪をする。彼女の兄ですら、昨日ミルチェと視線が合った時彼女に対し、一瞬ばつの悪そうな顔をして目線を逸らしたというのに。

 やはり美少女、は黙っていればのようだ。

 むしろ堂々とした彼女は男前で、ミルチェは彼女に好感を持った。

 そしてミルチェは、より疑問に思った。

 昨日は何故、あんなにキーキーと喚いていたのだろうか、と。

「それで、本題はここからですわ。」

 謝罪が本題ではなかったらしい。

 ミルチェが、本題ですか、と話を促すと、アイミティアはふんと胸を張って、ミルチェを見据えた。

「私から言いたいことはただ一つですわ。……陛下に、キース様に、無闇に近付いて、唆さないでいただきたいのですわ。」

「そ、唆すなんて、そんな……」

 そう殊勝に呟きつつ、ミルチェは内心とても焦った。

 やっぱり、陛下の昨日の言葉を信じて、来たのはダメだった?!

 ミルチェは、王と導師は互いに不可侵でならなければならない、という彼女にとっては滑稽な、だが多くの人々にとっては大事な慣習を改めて思い出し、今更ながら慌てる。

 ミルチェにその気がなくとも、導師の一言で、仮に王が動いてしまえば、その慣習に反することになるのだ。

 そもそも、今回の王城への出入りの許可自体、かなり怪しい部分があった。今のところ、ミルチェが王城に侵入したことが公になっていないため、どうにかなっている。だがそれがもし広まってしまえば、その事件のせいで、つまりミルチェのせいで、今回の異例の許可が出たと見られても不思議はないのだ。

「私は、導師としての立場は忘れていないつもりです。……アイミティア様のご心配なさるようなことは、ないかと思いますわ。」

 ミルチェは慌てれば逆に怪しいと、表面上は落ち着いてそう答えると、なぜかアイミティアの眼光はさらに鋭くなった。

「私が心配するような事はない? 本当にそう思ってらっしゃいますの? あの陛下を見て、よく言えるものですわ。」

「陛下が、何か……?」

「私に言わせますの?!」

 またしてもアイミティアに怒鳴られたミルチェだが、私に言わせるも何も、と思う。アイミティアの言う事は、やはりミルチェには全く分からない。

 アイミティアは昨日がキースとミルチェの初対面だと思っている。昨日の今日で、キースがミルチェのために何かをしたのか。いや、そんなはずはない、とミルチェは首を振った。昨日のミルチェは、キースに挨拶して、手の傷を治してもらっただけだ。

 心底分かっていないミルチェのその様子に、アイミティアも思うところがあったのか、暫くするとミルチェを睨むのを止めて、溜息を吐いた。

「導師の自覚を持って、と仰るなら、もういいですわ。どうか、そのまま心変わりされませんよう。」

 それだけいうとアイミティアは、ごきげんよう、と一礼して、その場を後にした。

 その場には頭を疑問符でいっぱいにしたミルチェだけが取り残される。

 そして暫くした後、ミルチェははっとして辺りを見渡す。

 ここからどうやって戻るの?!

 ミルチェは、帰り道がさっぱり分からなかった。




「……という訳で。ご心配をお掛けいたしました。」

 やっとの事でキースの元へと辿り着いたミルチェは、彼にそういって頭を下げた。

 アイミティアに置いて行かれた後ミルチェは、人気の無さが災いし、道を聞こうにも人がおらず、暫く城内を彷徨い、ようやくのことでキースの部屋まで辿り着いた。

 随分待たせたのでは、とミルチェが彼の部屋におそるおそる足を踏み入れると、丁度ミルチェの捜索に人が派遣される寸前の所だった。城に入ってから、いつまで経っても来る気配のないミルチェを、キースはひどく心配していたのだった。

 編成されかけていた捜索隊に、丁重にお帰り頂いた後、ミルチェはキースに、アイミティアと少し話していたと伝え、現在に至る。

「なるほど、……あの子は、あまり同年代の友人がいないから、仲良くしてやってほしい。」

「………えぇ、勿論です。」

 柔らかく微笑むキースに、ミルチェも笑顔を返す。

 ミルチェとしても、ハンナくらいしか友人と呼べるような相手がいないため、その申し出自体はありがたいのだが。

 なんだか敵対視されてるから、無理です、とはさすがに言えないミルチェだった。

 ミルチェは話題を変えようと、そういえば、と口火を切った。

「アイミティア様と仲がよろしいのですね。」

 ミルチェがアイミティアと初めて会った時も、彼女は突然訪ねてきたという雰囲気であったことを、ミルチェは思い出した。それになにより、先程もキースはアイミティアのことを、あの子、と呼んでいた。

「ああ…、そうだな。彼女とは幼馴染み、というやつで、エルムやディー…ハーディルとも幼い頃から親交がある。」

 懐かしげに目を細めたキースに、ミルチェは本当に彼らが大事なのだな、と思う。そう言って笑える相手がいないミルチェには、キースが眩しく映った。

「そうなんですね。……少し、うらやましいです。」

「うらやましい?」

 ミルチェが何に対してそう言っているのか、分からないらしいキースに、彼女は小さく頷く。そうやって当然のように享受できるその様さえも、ミルチェには羨望の対象として映った。

 たとえば、幼馴染みと言えるような存在が、ミルチェにはじめから存在しなかったのなら、彼女もここまで羨ましく思わなかったのかもしれない。

 だが、ミルチェにも確かにそんな存在がいた。八年前のその日まで。

 しかし、送れど送れど帰ってこない手紙の返事。それを待つことをミルチェが止めたのはいつだったか。

 それ以来、努めて思い出さぬようにとしてきた、故郷の村に今も住むだろう彼らの顔を、ミルチェはもう朧気にしか覚えていない。

 だからミルチェは少しだけ、うらやましかった。

「ところで、貴族や王族の方々って、小さい頃は何をして遊ぶのですか?」

 未だ不思議そうな顔でキースは、ミルチェの様子を窺っていた。だが、ミルチェは強引に話題を変える。

 少々無理矢理な話題変更ではあったが、多くを話すつもりがミルチェに無いことを悟ったのか、キースは大人しくその話題に乗っかる事にしたようだった。

 まだ痛む心を抱えたままでは、どうしても暗い話になってしまう。

 ミルチェはキースが気をつかってくれたことにほっとしながら、頭を切り替える。何の気なしに聞いた話題ではあるが、興味はあった。

 木登り……、はしないよね。

 自身の子供時代を思い出し、だが、貴族の子弟がそんな事をするわけないか、とミルチェは首を振った。

「そう、だな……。アイムがいるときは、あの子のお人形遊びに付き合ったり……」

 ミルチェはその様子を想像して、妙に納得してしまった。

 あの勝ち気そうな少女に振り回される男達は、ミルチェにも容易に想像がつく。

「あとは…、ディーと木剣での手合わせ、みたいなものをしたりもしたな。」

「へぇ……。」

 それは稽古では? とミルチェは思ったが、口には出さなかった。

 なるほど、貴族、王族ともなれば、一口に遊ぶ、と言っても純粋に楽しみだけを追求できないのだな、とミルチェは考え込む。

 そう考えると、お人形遊びにも、私の量りしえない意味が……?

 うーんと首をひねるミルチェの傍に、もしハンナがいれば、考えすぎです、と進言したことだろう。

 実際、剣の手合わせにしても、当事者である子供達にすれば、今日教えてもらったことを他の子に自慢したり、大人の真似をして遊んでるだけ、といったところだ。もちろん、年齢が上がれば、それ相応の意味が出てくる。だが子供のうちはそれこそ、ミルチェもよく知るように、村の少年達が木の棒でチャンバラごっこしているのとそう大差は無い。

 だがそんな事を知るよしもないミルチェは、王侯貴族の子供は大変だ、と一人で勝手に納得した。

 そして、そんなミルチェを横目に、キースは、そういえば、と口を開いた。




 ミルチェに幼い頃の思い出を尋ねられ、キースが思い出したのは、何のことはない、子供同士のじゃれ合いのような一幕。

 同じような瞬間は沢山あったはず。それなのに、何故これを思い出したのか、キース自身にも分からないような、そんな日常の思い出だった。


 それは、キースが王になる何年か前。彼の年の数が、片手で数えられなくなったくらいの出来事だった。

 その日キースは、家庭教師が病欠し、暇になった時間で剣の自主練習に励んでいた。

 最近ようやく、刃引きされた模擬剣を持たせてもらえるようになったキースだったが、一人剣を振る今は、木剣を手に黙々と復習をしていた。

 演習場の片隅で拙いながらも懸命に木剣を振るう王子を、周囲で訓練をしていた兵士達も、微笑ましげにそれを見守っていた。

 今日はハーディルが登城する。

 物心つく頃には既に隣にいたキースの友人であるハーディル。

 彼の祖父はキースの祖母の御代から仕える古参の忠臣で、その家は代々その剣の腕を王家に捧げてきた。現在、近衛師団の将をしている祖父に連れられ、ハーディルもちょくちょく登城していた。

 また彼と同じように、宰相の息子であるエルムも、ハーディルと同じようにキースと仲が良い人物の一人。彼は大抵ハーディルの登城と合わせて訪れるのだが、今日は来られないと連絡が来ていた。

 他にもハーディルの兄妹やキースの兄弟達もそれぞれ用事があるらしく、珍しくキースは、ハーディルと二人きりという状況になるらしかった。

「キース様!」

 無心で剣を振っていたキースは、その声に振り返る。そこには、件の友人がいた。

 ぶんぶんとキースに手を振るハーディル。それに、まずは挨拶をせんか、と彼の傍らにいた近衛師団長からハーディルの頭に鉄拳が飛んだ。

 目に星を散らしてふらふらしているハーディルに、キースは苦笑いで歩み寄る。そうしている間に、復活したハーディルは、何するんですか、お爺様! と食ってかかっている。

 いつもの光景だった。

 そして側まできたキースは普通に、やあと手を上げるのだが、ハーディルはお爺様にギッと睨まれて、ご機嫌麗しゅう、殿下、としぶしぶ言う。

 このやり取りは、ハーディルが近衛師団長が共に現れたときは、毎回決まったように繰り返されている。飽きることなく繰り返されているが、皆この流れを楽しんでいる風であった。もちろん、キース自身も。

 そうしていつものやり取りが終わると、いつもならばキースとハーディルは二人で遊びに行く。

 だが、ハーディルはキースの持つ木剣に目を留めた。そしてそれから視線を離したハーディルとキースの目が合う。

 そして、お互いににやりと笑って、二人は気が付くと大人達の見守る中で、木剣を構えていたのだった。


「―――それで、どうなったのですか?」

 はじめは拮抗していたらしいその試合は、徐々にキースが押される形となった。

 今でこそキースの一番近くでその脇を固めるハーディルだが、幼い頃はキースとの実力差も五分五分。遊び半分で棒切れを合わせれば、互いに勝つこともあれば負けることもあったとキースは語る。

「一応、勝ったよ。」

 はじめて棒切れ以外で戦ったその時の勝敗は、確かにキースに軍配が上がった。

 だがその勝利を語るキースは、どことなく渋い顔をしていた。

 いや、ばつが悪い顔、だろうかと、ミルチェは首を傾げた。

「一応?」

「いや……、勝ったのは勝ったんだが、少しズルをしたんだ。」

 ズル、とキースは言ったが、大したことではない。

 木剣の打ち合いの間に、ハーディルにばれないよう簡単な魔術を使い、彼を転ばせるという、可愛らしいと言える程度のズルだ。

 今の今まで忘れていた、とキースは照れたように笑い、ミルチェもそれにつられるように笑った。




 ―――なんで出ちゃダメなの?!

 幼い少女の声が響く。

 大人達がそれを諫めて、少女を小さな部屋に閉じ込めた。

 鍵のかかる音がする。

 部屋にある窓はただの明かり取りで、小さすぎて通れないこの部屋は、その扉が唯一の出入り口だった。

 少女の小さな拳がその扉をドンドンと叩くが、誰も開けてはくれなかった。

 薄暗くなっていく空から入る光は少なく、部屋は暗くなっていく。

 どうして、こんなところにいなきゃだめなの。

 どうして、閉じ込めるの。

 少女は扉を叩きながら、くすんくすんと泣きじゃくっていた。


「―――っ!」

 ミルチェはバッと目を開けた。気分を落ち着けようと大きく息をしながら、ゆっくりと辺りを見渡す。

 いつもの部屋、いつもの朝だ。

 ミルチェは、はぁと息を吐くと、眠っていたベッドに体重を預けた。そして目を瞑り、もう一度息を吐くと、彼女は先程まで聞こえていた少女の泣き声を振り払うように勢いよく起き上がった。

 昨日ミルチェは、キースの昔話を聞いた。

 自分も幼い頃の事を思い出してしまったのだ、とミルチェはもれそうになる溜息を押し殺す。

 どうして、よりにもよって思い出すのがあれなのか。

 キースの話を聞いた後なのだから、村で遊んでいるところでも良かったのではないかと、ミルチェは少し釈然としない。

 もっと楽しい記憶はいくらでもあったはずなのに。

 あれは、ミルチェに導師の印が現れ、彼女が王都へと来る直前の頃くらいの記憶だった。

 どういう状況だったのか、ミルチェもよくは覚えていない。だが、ひどく悲しかった事だけは、嫌という程記憶に刻まれていた。

「最近は見なかったんだけどなぁ……。」

 楽しい記憶も、この寂しい記憶も。

 ミルチェはうーんと身体を伸ばしながら独りごちる。

 王都に来た頃、ミルチェが頻繁に見ていた村にいた頃の夢。それも、彼女が歳を追うごとにその頻度は減り、ここ数年ではほぼ皆無といっていい程だった。

 ミルチェはベッドから足を下ろし、窓からの朝日を遮るカーテンを開ける。そして、陽光に目を眇ながら遠い空を見つめた。

「おはようございます……、って、あら、起きてらっしゃったんですか。」

 控えめなノックの音に振り返ると、ハンナが部屋の扉を開けて、そろっと入ってきた。

 普段ならまだベッドの上で、夢うつつのままゴロゴロとしているミルチェ。それが、もう起き上がってカーテンまで開け放っている光景に、ハンナは目を丸くしている。

 ミルチェがそんなハンナに、おはよ、と返すと、何故かハンナは眉根を寄せた。

「………何か、ありました?」

 ハンナはミルチェの顔を覗き込み、じっと観察している。

 夢を見て、少しだけ嫌な気分になっているが、そんなに顔に出ていただろうか。そう思ったミルチェだが、ハンナを心配させぬ為と、誤魔化すように笑った。

「何? 早く起きてるのが、そんなに珍しい?」

 茶化すように言うと、そういうことを言ってるんじゃない、とハンナの眉間の皺が深くなった。

 暫くは誤魔化しきれないか、とニコニコしていたミルチェだったのだが、次第に眼光鋭くなっていくハンナに、先に折れたのはミルチェの方だった。

「……ちょっと変な夢、見ちゃったから、それだけ。」

 だから大丈夫、とミルチェは言った。それを聞いたハンナは、まだ不満そうではあった。だが引き下がることにしたらしく、そうですかとだけ言い、彼女はそれ以上は何も言わなかった。

「それで、今日何か予定はあったっけ?」

「いえ。今日は特にはございませんよ。」

 相変わらず導師とは暇なものだと、ミルチェは不満気に腕を組んだ。

 ミルチェに課されている導師としての仕事は、年二回の王との儀式以外にもいくつかある。だが、一週間に一度の神々への祈りと、一月に一度程度の頻度である、導師のみで行う祭祀、といった程度で、それ以外の日は暇を持て余している。

「今日は陛下のところまで行くとして……。ほんっとに、ヒマね、導師って……。」

「どうしたんです、急に?」

 ミルチェの日常が暇を持て余しているのは、今にはじまったことではない。今になって急に何故こう、ミルチェが思ったのかというと、それは昨日の出来事が原因だ。

「急に、っていうかだけど。……ほら、昨日道に迷ったって言ったでしょ? その時、歩き回ってて、皆、働いてるなぁって。」

 昨日、ミルチェがアイミティアと別れた後、キースの部屋まで辿り着くまでの間の話だ。

 ミルチェが道を尋ねるべく、人を捜し求め歩き回っていた時。それから、案内にミルチェが付いて歩く間。その時に彼女が見た、そこで働く人々は、忙しそうながら、どこか生き生きとしていた。

 暇にかまけて、大して面白くもない本を流し見るようなミルチェとは、酷い差だった。そして奇しくも昔のことを思い出したが故にミルチェは思った。あの人達の目は、あの村で日々を営んでいた者たちと同じ目だった、と。

 そして同じように、長らく忘れていた、両親の顔も、また。

「―――そうだ!」

 急にミルチェはぽんと手を叩き、うきうきとした様子で、部屋の本棚を漁りはじめた。

 ミルチェとて、忘れていたわけではない。だが、改めて思い出した両親の顔、彼らの背中と、そして自身に授けられていたもの。ミルチェは芋蔓式に奥底にしまわれてた記憶が浮上してくるのを感じた。

「ミルチェ様……?」

 不思議そうな顔で様子を窺っているハンナに、ミルチェはようやく見つけたそれを掲げる。

 それは一冊の本だった。

 ミルチェは、ふふっと得意気に笑った。

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