墨染の女帝

 手にした鏡と玉璽は、酷く重かった。

『わたくしは、お前を信じていますよ、淑麗(しゅくれい)

 即位礼の執り行われた舎殿を後にしながら、皇太后の声を思い出す。

「信じている、か……」

 皇太子妃と呼ばれていた淑麗は、この日、帝となった。

 それは、薄墨のような色をした空から雪が降る、そんな日のことだった。



墨染の女帝



 ぽた、と音を立てて、書簡に黒い染みができた。

「いけない……」

 じわじわ広がるそれを見ながら、淑麗は溜息をつく。つい上の空になっていたことを反省しながら、筆を硯の縁に置いた。

 こんな空模様の日は、どうしても集中しきれない。

 淑麗は御簾越しに見える、薄曇りの空を見た。一面の薄墨色の雲は、自身が帝となったあの日の空と酷似している。

 それから早五年。同じ色の衣を淑麗は纏い続けていた。

 それは、戒めのようなものだ。

 この皇位(椅子)が、ただの仮物にすぎない、そういう戒めだった。

 淑麗が皇位を継いだのは、偶然と、周囲の思惑が絡み合った末のことだ。

 そもそも、先帝崩御の後に即位すべきは、淑麗ではなかった。当時皇太子位に座していた、朝霞(あさか)皇子――淑麗の夫が帝となるはずだったのだ。

 しかし彼は、即位を待たず急死してしまう。

 事故か、暗殺か。

 淑麗に知る術はなく、ただ彼を喪った悲しみに暮れるしかなかった。

 順当にいけば、朝霞皇子の異母弟が次に皇位に近い存在だった。しかし、彼は齢五つを迎えたばかり。国を統べるには幼すぎた。

 その母である皇太后はすぐの即位は断念したものの、(のち)の即位を盤石なものにしようとした。彼女はその計画に適した人間として、淑麗を見出したのだ。

 急逝した皇太子の妃であり、自身も五代前に帝を持つ、皇族の一人であること。また、皇太后は淑麗の母方の親族という縁があった。

 ――子を産まぬならば、そなたを女帝にしてやろう。

 彼女は、そう言った。

 淑麗が子を産めば、彼女の息子である皇太子即位の障害となる。それゆえの言葉だった。

 皇太后の命を断れるはずもない。また、朝霞皇子以外との子など望むとも思えず、淑麗はその命令を受け入れたのだった。

 その約束を、朝霞皇子を忘れぬため、薄墨の色をした衣を纏い続けている。

 だが、先の分からぬ未来を、どうして約束できたのだろうと、今は不思議でならない。

「陛下」

 耳馴染みのよい男の声に、意識を呼び戻される。顔を上げれば、白皙の麗しい見目をした男がいた。

清純(きよすみ)……、ちょうど良かった。紙を駄目にしてしまって」

 淑麗は、男――最も信頼を寄せる侍従である磯上(いそのかみ)清澄に、墨を落とした紙を見せた。

「珍しいですね、考え事ですか?」

「そうね、こんな空の日だから」

 外を指差すと、清純は苦笑して頷く。

「たしかに、気が滅入ってしまいますね。少し休まれてもよろしいのでは?」

 彼のやわらかな声に、淑麗は表情を緩めた。

「いいえ、おまえがいてくれれば、それで十分」

 彼の手をそっと握れば、そこからじんわりと熱が伝わる。それが、心にかかる薄雲を晴らしてくれるような気がした。




 淑麗は、亡き夫のことを確かに愛していた。

 だが、彼に抱いていた思いとは、似て非なる強い感情を、あの侍従に抱きはじめている。

 黒を見る、ただそれだけで清純を思い出した。彼はその色を、この国の多くの民と同じく、目と髪にを有している。しかし、彼の持つ「黒」は、その中でも一段と濃く、美しいのだ。薄墨を見ると不安になる心が、濃墨の色を見ると安心した。

 その色がないからだろうか。湧き上がる不安を紛らわせるように、淑麗は袖に隠して握り拳をつくり、眼前の人物と対峙していた。

「よう参られた、淑麗」

「皇太后様も、御健勝そうで」

 久方ぶりに会った皇太后は、あの日と何一つ変わらないように見えた。鋭く、全てを(つまび)らかにせんとする眼差しは、何度見てもどこか怖ろしい。

 だが、あと数年はこの視線に耐えなければならなかった。淑麗が譲位を予定している皇太子は、未だ十を数えたばかり。約定通りに位を引き渡すまでには、まだ長い時間がある。

 鷹揚に笑う皇太后は、一瞬だけ淑麗を検分するような目で見た後、口を開いた。

「ここのところ、ようやく亡き皇子を乗り越えられたのだ、と噂されていますね、淑麗」

「皇太后様……」

 彼女の浮かべる笑顔は底知れず、冷や汗が流れるのを感じる。

 亡き皇子、朝霞皇子を忘れた。つまり、淑麗が新しい男に入れあげている、という意味の噂だった。

 以前なら、何を馬鹿なと一蹴できていた類の噂だ。しかし、淑麗が言葉を詰まらせたのを見て、皇太后は目を細めた。

「淑麗……、なんぞ思い当たることでもあるのかえ?」

 声色は酷く優しい。だが、その瞳は凍えそうなほどに冷たかった。淑麗はぞっとし、慌てて、だがその焦りを悟られないようにゆっくりと(かぶり)を振った。

「いいえ、皇太后様の御心配なさるようなことは、何も」

 彼女は沈黙したまま、眼光鋭く淑麗を見下ろしている。

 全て、見抜かれているのではないか。そんな風に思えた。しかし、皇太后に告げた言葉は、全くの嘘というわけでもない。淑麗は清純のことを想っていたが、二人の間に決定的な何か、言葉も、行動も、何もありはしない。

 しかし皇太后が噂をどう受け取るのか、それは事実と関係がないことだ。淑麗はその意思如何で容易く殺されてしまう状態にあった。

 彼女にはそれが出来る。皇太子を除いた先帝に近しい皇族が、尽くいなくなっていることから考えても、それは明白だった。

 淑麗が彼女の動向を、固唾を飲み窺っていると、鋭かった瞳が和らいだ。

「――そう。そなたがわたくしの心を煩わせるわけが、ないものね」

 まだ、彼女の中で自分は脅威ではないと判断されたらしい。

 淑麗はほっとして笑顔を浮かべた。

「勿論で御座います」

 清純と平穏な毎日を送ること、淑麗の願いはただそれだけ。決して、皇太后の利益と相反しない。そう信じていた。




「陛下、お帰りですか」

 部屋へと戻った淑麗は、清純の声に顔を上げた。彼に一つ微笑んでから、手の中にあった素朴なつくりの簪を箱に仕舞う。

「陛下、それは?」

「ああ……、これは、殿下から――朝霞様から頂いた、簪よ」

 皇太后と(まみ)えると、どうしても彼のことが浮かんだ。箱の表面を撫でるように触れ、在りし日の夫の姿をしばし思い出す。

「これは、あの方が手ずから作って下さったものなの」

 上手く出来なくて、と照れたように笑い、彼は渡すのを止めようとした。それを半ば無理やり貰いうけたのは淑麗だった。彼の言葉通り、それは上手くはない。だがそれよりも、心遣いが嬉しかった。

「少し、妬けますね」

「は――」

 清純が簪の箱を掴んで遠ざける。

 ――やける?

 間近に迫る彼の顔を、淑麗はぽかんと見上げた。

「貴女の夫君が薨去召され、もう随分となります。それなのに――」

 清純は薄墨の衣に視線を滑らせる。

「貴女は未だ、その死に殉じていらっしゃる」

「これは、そういうつもりのものでは……」

 否定の言葉は、酷く弱々しかった。

 死に殉じているわけではない。だが、彼を忘れないようにしているのも確かだからだ。

 視線を逸らせば、先ほど清純が遠ざけた簪の箱が目に入った。

「――、」

 淑麗は、それから目を背けるように清純を見上げた。

「……おまえは、私の想いなど、とっくに見透かしているのでしょう。それなのに、意地の悪いこと」

「陛下――」

 彼は侍従として働く中でも、こちらの言葉を待たずに察してくれる。そんな聡い男が、こちらの気持ちに気付いていないとは思えなかった。

 少し、妬けますね――

 彼が口にした言葉が反芻される。

 もし、彼も私を想ってくれているなら。

 視線が絡み、きよすみ、と微かに唇を動かせば、彼は顔を近付けて掠めるように触れ、離れていった。

 これで仕舞い? と目で問えば、清純は苦悩するように口を引き結んだ。

「御容赦を、陛下」

 首を横に振る彼を見て、淑麗は途端に我に返った。

 何を馬鹿なことを、と冷静な声がする。皇太后との約束を考えれば、これでも危険なくらいだ。

 それなのに。

 墨は、一度つけば決して落ちることはない。淑麗の心にも、清純の黒が落ちて、染み渡っていったのだろうか。

 もう決して、後戻りはできない。

 墨のような彼の黒を見ながら、そう思った。




「清純、もっとこちらへ来て……」

 はじめは戸惑った風情を見せていた彼も、淑麗に触れるのを次第に躊躇わなくなった。

「陛下、これ以上は――」

 淑麗は清純の口に指先を押し当て、黙らせる。今は聞きたくないと首を振り、代わりに違うことを話した。

「私は、さみしかったのだと、気付いてしまったの」

 清純と手を握りあい、唇を重ねるようになって、強く思っていることだった。

 近しい人のいない五年間。今まではそれをどうとも思っていなかった。しかし今振り返れば、夫が逝ってしまい、独りきりで寂しかったのだと自覚した。しかし、それに気付く間もなく即位が決まり、時は流れ、心に空いた穴にも気が付かなかった。

 清純の首を引き寄せ、口付けをねだる。

 その時、文机についた清純の手が、硯に当たって床へと落ちた。

 あ、と思う間もない。淑麗の衣は墨で黒くなっていった。

「…………」

 薄墨を、黒が染めていく。

 その光景に、背筋が震えた。

 淑麗は、その墨の上を撫でるように指を滑らせる。

 指先に黒が移った。

「陛下……?」

 その手で、淑麗は清純の頬を撫でる。指の辿った跡のままに、黒が移っていった。

「ああ……、やはりこれは、おまえの色ね」

 その黒が欲しい。

 その欲求のまま、淑麗はそれを今度は唇で辿り、そのまま清純のそれに重ねる。

「私は、この衣が羨ましいわ」

 黒に染まっていく様は、酷く蠱惑的だった。

 耳元で囁くと、清純の肩がぴくりと跳ねる。

 彼は、淑麗の意図を間違いなく受け取ったようだ。

 清純の手が薄墨に触れる。

 淑麗は、亡き夫に一抹の罪悪感を感じたが、すぐに全てが黒く染まって、何も考えられなくなった。




 水に墨を一滴落としても、その黒は消えてしまう。

 それなのに、墨を落とし続ければ、いつしか透明の水は黒く染まる。

 不思議だと、思った。

「清純……」

 うっすら目を開けると、夜の闇に浮くように、彼の白い背中が見えた。そこにしどけなくかかる長い黒髪に、淑麗は手を伸ばす。

 指が背に触れると、彼はぴくりと震えた。

「陛下」

 指に絡めた黒髪は、するりと解けてしまう。

 それに一抹の寂しさを感じ、淑麗はポツリと言った。

「清純、私は……、とてもこわい」

 もし、皇太后に知られてしまったら。

「けれど、もう……、おまえ無しでは生きてゆけぬわ」

 清純がゆっくりと振り返る。

「それは、俺を愛している、ということですか?」

「……ええ」

 夫と育んだ、包まれるような愛とは違った。

 この男の黒に染まりたいと、渇望するようなそれ。

 だが、名前を付けるならば「愛」以外の何だというのだろう。

「おまえを、あいしているわ」

 月影に背後から照らされた男の表情を窺い知ることはできない。彼に伸ばす手が、少しだけ震えた。

 それでも、抱き寄せられれば、浮かびかけた不安も全て、黒に塗りつぶされてゆく――。




 はじめは密やかだった逢瀬も、慣れゆけば大胆になっていった。

 帝という立場の淑麗に、それを諫めることのできる人物はいない。

 それでも人の噂は、無責任にも知れ渡っていく。しかし、皇太后は不気味に沈黙したまま、何も言うことはなかった。

「――陛下」

 耳元に愛しい男の声がして、淑麗は机から顔を上げた。考え事をしていて、そのままうたた寝をしてしまっていたらしい。枕代わりにしていた腕の下敷きとなった紙が、折れ曲がってしまっていた。

「私、いつの間に寝てしまっていたのかしら……」

「お疲れですか?」

「よく分からないけれど……。ここしばらく、とても眠いの」

 心配げな顔をした清純の手が額に触れる。ひんやりした指先が心地良い。

「……少し、熱があるのでは?」

「そう?」

 自分では分からなかったが、彼が言うならばそうなのかもしれない。淑麗は小首をかしげ、自分の首元に触れる。たしかに、少し熱いような気がした。

「あとで侍医を呼びましょう」

「大袈裟よ……」

 そうは言ったが、身体には少々だるさがある。淑麗は清純の肩に身を預け、目を閉じた。




「今、何と」

 老齢の侍医を前に、淑麗は声を震わせた。

「御懐妊でございます、陛下」

「ここに、子が、いると……?」

 自身の胎を指差して尋ねると、侍医はこくりと頷いた。

「さようでございます、陛下」

 全身から血の気が引いていくのが分かった。

 何ということだろう。あれほど怖れていたことが、現実になってしまった。

「お前、」

 は、と侍医が頭を下げる。

 淑麗は、上手く吸えない息を、どうにか吸い、言葉を続けた。

「この事は、他言無用となさい」

「は……、しかし」

「黙りなさい! 私の命令が聞けないのですか!?」

 口答えしようとする侍医に、思わず叫んだ。

 淑麗の常ならぬ剣幕に、彼も軽く瞠目する。

「いいですね、私が良いと言うまで、決して他言せぬように」

「……御意に」

 帝の懐妊。本来ならば祝辞である。侍医の訝しげな顔も無理なからぬことだったが、淑麗にかける言葉はなかった。

 侍医を部屋から出した後、淑麗は布団にぼふりと倒れ込む。手は無意識に、まだ平らな胎を撫でていた。

「清純と、私の子……」

 そう思うと、この上なくいとおしい。

 だが、そのせいで皇太后の動向を今まで以上に怖れなければならないのか、と思うと憎らしいとも思った。

 侍医を口止めしたところで、遠からずこのことは知られてしまうだろう。

 そうなったとき、約定を違えた自分を皇太后が生かしておくとは思えない。

 そうなれば、自身はもとより胎の子、なにより清純までも――

 想像に怖気が走る。

 自分や子の命より、彼が危険に脅かされることの方が、よほど怖ろしかった。

「子が……、『これ』がいるから、清純が――」

 よろりと起き上がった淑麗は、近くの棚から小刀を取り出していた。

 早く、これを消さなければ。

 ギラリとその刃が光る。

 恐ろしい考えに憑りつかれたまま、淑麗は小刀を握りしめて、胎に向けて振り上げた。

 その時――

「陛下!」

 慌ただしく駆け寄ってきた清純に、腕を捕らえられる。

「何をなさっているんですか!」

 怒鳴られて、淑麗はようやく我に返った。

「あ……、」

 わたしは、なんてことを。

 力が抜け、取り落としかけた小刀を、清純が掴み、淑麗の手が届かない所に置いた。

「どうして、こんなことを?」

「そ、れは……」

 淑麗は、思わず腹を押さえた。

 だが、彼に黙っていても仕方がないと、思い直し口を開く。

「子が、できたの」

 清純がスッと目を細めた。

「……はい、それで?」

「それで……?」

 彼は何とも思わないのだろうか。

 不安になって彼を見上げると、それが伝わったのか苦笑が返る。

「勘違いしないで、貴女が俺の子を身籠ってくれた、それは嬉しいですよ。でも、貴女は俺の質問に答えていない。どうして、こんなことをなさったのですか、という問いには」

 彼の視線が遠くへやられた小刀に向いて、淑麗は、あ、と思った。

 確かに彼の言う通り「子ができた」というのは、淑麗が小刀を握っていた理由にはならない。

「それは、皇太后様が、怖かったからよ……。私はあの方と、『子をつくらない』という約束をして即位したわ。それなのに――」

 知らぬうちに手が震えてくる。しかし、清純はあっけらかんとこう言った。

「なんだ。そんな事ですか」

「そんな、こと……?」

 驚いて見返せば、清純は奇妙なほどに朗らかな笑顔を浮かべていた。

「だってもう、この子を害す人間はもう、どこにもいませんから」

「――は」

 淑麗は言葉もなく、ただ目の前の男を見つめる。

 今、この男は何と言った?

「どこにも、いない?」

「そう。もうすぐ連絡が来るでしょう。皇太后と皇太子は不慮の事故で、お亡くなりになりました、と」

「まさか、そんな……」

 にこにこと笑う清純に、淑麗は空恐ろしいものを感じた。

 そして、急に彼の言葉が引っ掛かった。

 もうすぐ連絡が来るでしょう。清純はそう言った。それは一体どういう意味だろう。

 連絡が来る前に、何故知っている……?

「陛下」

 清純の手が淑麗の頬を撫でる。

 彼の黒い瞳に視線が捕らわれて、はずせなくなる。

「貴女が憂うものは、無くなりました。さあ……、心置きなく私の子を、次代の帝を産んで下さい」

「きよ、すみ……」

 今まで、この男の何を見ていたのだろう。

 淑麗は彼の深淵のような瞳を見て思った。

 怖い。

 安らぐと思っていた黒が、酷く怖ろしいものに見える。

 人の死を笑う、この男は誰だ。

 触れる彼の手を振り払いたくなった。しかし、それを堪えて淑麗は口を開いた。

「おまえは、この子供がいなければ、困る?」

「そうですね、先程は胆が冷えました」

「それは、どうして」

 清純はその問いを予想していなかったのか、瞠目した後、笑った。

「貴女を……、愛しているから、ですよ」

 愛してる、ですって――?

 淑麗は思わず嗤う。

 どうして、今まで気が付かなかったの。

「陛下……?」

 急に笑いだしたことに、彼は心配げな顔をする。そんな様子さえも、可笑しくて仕方がなかった。




 あっという間に、時は過ぎる。

 皇太后、そして皇太子までもがいなくなった今、淑麗の出産を妨げるものは何もない。

 日増しに膨れる腹を見下ろし、その中にいるらしい子に愛しさと、同じくらいの憎らしさが募った。

 季節が三度変わった頃、淑麗は子を産んだ。

「陛下」

 大仕事を終え、ぼんやりしていた淑麗の元に、清純が現れる。

「元気な御子のようで、ようございました」

 彼の言葉の通り、胎から出ていった子供は、外へ出るなり激しく泣いた。

 今は、乳母の乳でも吸っているか、眠っているだろう。ともかく、ここにはいない。

 静かだった。

 淑麗が起き上がると、衣擦れの音がその沈黙の中で大きく響いた気がした。

「あれはきっと、帝になるでしょうね」

「……ええ」

 血の濃い皇族が殆どいない今、生まれたばかりのあの赤子が、次の帝に一番近い。

「おまえの子が帝になる。とても喜ばしいこと。……でしょう?」

「陛下?」

 淑麗が清純を見上げると、彼は一瞬だけ慄いたように固まった。

「こちらへ来て」

 手招きをすれば、簡単に彼はそばに擦り寄ってくる。

 だが、彼の手が淑麗の背に回る直前で、動きが止まった。

「へ、いか……?」

 清純の口から、スッと赤い血が一筋流れ落ちる。

「赤は似合わないわね」

 淑麗は手でその血を拭おうとする。

 しかし、その指先も別の血で汚れてしまっていたことに気付いて諦めた。

 別の血――、清純の腹部から染み出る血だ。

「なぜ……」

「私がおまえを刺したのか……、そう聞きたいの?」

 淑麗はそう尋ねながら、握っていた短刀を根元まで、彼の身体に沈めた。

 清純はもう身体を支えていることもできないのか、ぐらりと揺れて淑麗に覆いかぶさるように倒れた。

「理由は、そうね……。おまえが、私に嘘をついたから」

 淑麗の脳裏に、妊娠が発覚した日にこの男が吐いた「愛している」の言葉が浮かぶ。

「うそつきね、おまえは」

 あの言葉を告げた、その時の目を見れば、嫌でも分かってしまった。

 この男は、私が想うようには、想ってくれていない。

 淑麗はそう確信してしまった。

 気付いてしまえば、後は少し調べただけで全てを知れた。彼が出世のため、行く末は帝の父となるために、自身に近付いたことを。

 気が付かなければ、今もきっと、この男の演技を信じ、愚かにも家族ごっことを演じ続けていただろう。

 淑麗は、胸の上で彼の呼吸が次第に弱まっていくのを感じていた。

「ねぇ、清純、私はおまえに想われたかった。だからこうして、二度と私を忘れないようにしたの」

 淑麗はぎゅっと彼の頭を抱いた。

「大丈夫。私もそう遠くないうちに、おまえを追うわ」

 近くの卓の上には、空の小瓶があった。

 摂取後、一定時間の後に命を奪う遅効性の毒。もう幾許もなく、淑麗を蝕みはじめる頃合いだ。

「『愛している』わ、清純……。おまえのことを、誰よりも」

 もの言わぬそれに、淑麗は「愛」を告げて、目蓋を閉じる。

 この期に及んでも、視界が彼の色で埋められているのを嬉しいと思ってしまった。

 愚かしい事……。

 そう思うのに、己の纏う薄墨が、彼の血で黒く染まる、その事実に甘美を感じていた。

―了―

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