その華が芽吹く頃に

 世界は大きな蓮の(ウテナ)の上にある。

 混沌の中から突如として芽吹いた蓮の花が咲き、そこから生まれた神々が、今、人の生きるこの世界を創った。

 子供の寝物語に聞かされ、皆が知っている創世神話だ。

 どこまでが本当のことだったのか。それは最早、誰にも分からない。

 しかし、その神話の存在を証明するように、この世界に咲く花は魔力の結晶であり、人々が持つ魔力も花びらの形で現れる。

 人の魔力から生み出されたそれを、自然に咲く花と区別して「華」と呼ぶ。

 時折、華は人の感情の機微によって発生することがあった。

 激しい怒りを感じた時は、紫色のシャクヤクが、悲嘆を感じればキンセンカが。対応した言葉を持つ華が舞う。

 とはいえ、そういった場面は稀なことで殆どの人は、体験することも見ることもないまま過ごしていく。しかし、一般に「華ふらし」と呼ばれるその現象が、些細な感情変化で起こるようになってしまうことがある。

 この国の王妃が、その一人だ。

 王妃イキシアは、国王の元に嫁いで一年後に華ふらしを発症した。

 華を撒き散らすという厄介な症状ではあるが命の危険はなく、現在はそんな日常にも慣れ、穏やかな生活が続いていた――。




「おはようございます、陛下」

 イキシアはダイニングルームの扉を開ける。夫である国王ルースは、いつものように報告書らしき紙束を眺めていた。彼はイキシアの坦々とした声に気付くと、書類から顔を上げる。明るい金色の短い髪がさらりと揺れた。

「おはよう、イキシア」

 彼の笑顔に、自然と感嘆の息が漏れる。

 何気なく座っているだけのつもりであろうルースだが、イキシアは毎日その姿に見惚れていた。だがそれを悟られないよう、すぐに視線を逸らして、自分の席へと歩を進める。

 部屋には、コツコツというイキシアの歩く足音だけが聞こえた。挨拶以上の会話がないのはいつものことだ。

 それを少しだけ寂しいと思いつつも、イキシアの胸はドキドキと音を立てている。またそれだけではなく、イキシアの歩いた後には、青い華びらがその軌跡を辿るように残っていた。

「幸福」を表す、デルフィニウムだ。

 床に落ちた華は、意識して留めようと思わなければ、すぐに消えてしまう。しかし、イキシアの浮き立った心は、そう簡単に消えはしない。

 些細な言葉のやり取りと、彼の姿を見たというただそれだけで、「幸福」の華が舞うほどにイキシアはルースに恋していた。

 食事中の会話も殆どないのが通例だが、この一時(ひととき)がとても大切で、彼の顔を眺めていられるだけで幸せだった。

 しかし、珍しいことに今日は席について早々に、ルースが話しかけてくる。

「――イキシア、今日は華の量が多くはないか? 薬は飲んだのか?」

 言われて振り返ると、いつもならもう消えてしまっているはずの華がまだ残っていた。彼の言う通り、今日は少し量が多いようだ。

 ルースの指摘は何も間違ってはいない。

 しかしイキシアは、心にもやりとしたものを感じて俯いた。

 また華が落ちる。薄紫色をしたコチョウカの華だった。

「薬なら、まだです」

 中心の黄色が鮮やかなそれを見つめながら、イキシアはつい、ふて腐れたように答える。

 彼の言う薬とは、この華ふらしの症状を抑える特別な薬のことだ。華はイキシアの魔力でできているため、あまり無尽蔵に発生させ続けると、体内から魔力が減り体調不良の原因となることもある。とはいえイキシアの場合、殆どは余剰分が放散されているに過ぎないので、身体に影響が出ることは少ない。

 つまり、飲まなくても問題はない。

 だが、イキシアが多く華を振り撒いていると、「薬は飲んだのか」とルースはよく聞いた。

 発症から一年が経つが、未だにこの症状を受け入れてもらえていないのかと、この言葉を聞く度にイキシアは切なくなる。

 そんな寂しさから現れるコチョウカだが、薄紫色の華弁は服の裾のように波打っていて可愛らしく、なんとも皮肉だと思った。

 イキシアがそれ以上は答えないでいると、ルースも追及することはなく、静かなまま食事が進んでいく。そしてあっという間に、ルースは食後のお茶を飲み干し、立ち上がった。イキシアもそれに合わせて、いつものように立ち上がる。

「では、仕事をしてくる」

「はい。いってらっしゃいませ」

 軽く腰を折ると、ルースは一つ頷くだけで行ってしまう。

「お忙しいのは、分かっているつもりだけれど……」

 本当は、もっと話がしたい。そう思っているが、いつも上手く話しかける事が出来なかった。

 もっと傍にいたいのに。

 ルースの出て行った扉を見つめていると、ジニアの華がはらはらと舞った。




 ダイニングルームから出たルースは、一人スタスタと廊下を歩いていた。

「……もう、一年になるのか」

 青いデルフィニウムの華が脳裏に浮かぶ。それに続けて、イキシアが華ふらしを発症した日のことを思い出した。

 それは丁度一年前に、ルースが馬車の事故で重傷を負った時のこと。もっとも事故自体は問題ではなく、重要なのはその後だ。

 イキシアはその時城にいて、意識不明のルースを迎えることになったらしい。その後、ルースは生死の境を彷徨い、意識が戻る頃には三日が経過していた。

 その間の記憶はなく、全て後から聞いた話だったが、目覚めた瞬間だけはよく覚えている。

 最初に視界に映ったのは、驚いたような顔をするイキシアだった。

 握られた手は暖かく、彼女の顔を見てとてもほっとした。

 その気持ちが自然と口元を緩めさせ、ルースはイキシアに微笑みかけたのだと思う。すると、イキシアは目を涙でいっぱいにして、ぽろぽろと泣きはじめたのだ。

「陛下……、ご無事でよかった」

 その時、彼女の周囲に赤い華びらが舞った。

 赤いゼラニウムの降る中で、涙ながらに微笑む彼女に目を奪われたのを、今でも覚えている。

 それが、イキシアがはじめて「華ふらし」をした日のことだった。

 良い感情にせよ悪い感情にせよ、その感情が高ぶることで華が降るのは、魔力の強い王族や貴族の中では、時折あることだ。その時は誰もが、その場限りのことだと思い込んでいた。

 しかしその日以降、イキシアの華ふらしは止まらず、それは現在も続いている。

 症状が頻発するようになってから、彼女は随分と苦労して見えた。ルースも出来うる限り、彼女に寄り添いたかったが、どうにも上手くいっている気がしない。

 ふと視界の端に、イキシアとよく似た銀髪を見つけ、物思いから我に返る。そちらを見ると、側近であるバレンの姿があった。

 彼は自身の側近であると同時に、イキシアの兄でもある。

 容貌はよく似ている彼らだが、纏う雰囲気は全く違った。凛として物静かなイキシアと正反対に、バレンは絶えず微笑みを浮かべ、やわらかい印象を受ける。

「バレン……」

「どうされました、陛下?」

 意図せず沈んだ声を出してしまい、しまったと思った時には遅かった。バレンは些細な変化を見逃す男ではない。うやむやにしようとすれば、誤魔化さえてくれるかもしれないが、ルースは結局は正直に話すことにした。

 引っ掛かりを覚えているのは、イキシアのことだ。兄に助言を求めるのも手だろう。

「……その、私はイキシアに嫌われているのかも、と」

「まさか! 何故そのような?」

 ルースは渋い顔で、今朝のことを彼に話すことにした。

「今日は、イキシアの華の量が多かったんだ」

「はい、それで?」

「それで……、薬は飲んだのか、と……聞いた」

「はぁ」

 バレンは話の筋が見えないようで、首を傾げている。ルース自身も、これから言おうとしている内容があまりにも些細過ぎるような気がして、言葉は尻すぼみになっていた。しかし、中途半端なところで話をやめるわけにもいかず、ルースは思いきって続きを喋る。

「それで、だ。その時彼女は『まだです』と答えたんだが、その眉間に、微かに皺が寄っていて――、って、何故笑うんだ!」

 バレンは、隣で肩をぷるぷる震わせている。そんな彼の反応に、恥ずかしいやら腹立たしいやらで、ルースはその肩をバシリと叩く。

「いや、だって、それだけで『嫌われているかも』ですか?」

 ルースは押し黙った。

 確かに、彼の言う通りなのだが……。

 やっと笑いから戻ってきたバレンは、むっつりと黙るルースに肩を竦める。

「まあ、貴方がたは仲が良い、ってわけではありませんけど……」

「ぐっ……」

 しれっと発せられた言葉に心を抉られ、ルースは胸を押さえる。口にこそ出していないが、イキシアとの会話のなさは気にしていた。もっと親しくなりたいとは、思っているのだ。

 そんなにはっきり言うことないだろうと、ルースはバレンを睨む。だが、彼の言葉はまだ続いていた。

「――それでも、イキシアが陛下を嫌っている、なんて思うのは早計でしょう。華ふらしになって以来、僕にも分からない事は増えましたが、嫌いな人間と共に居続けられる子じゃないですよ」

「そう、だろうか……」

 バレンは、そうですよと快活に笑って、執務室に向かって歩きはじめる。

 しかし、気にしているのはそれだけではなかった。

 イキシアは明らかに自分といる時だけ態度が硬化する。ルースはそのことに気付いていた。

 主治医と話している時の彼女は、もっと表情がやわらかい。そちら側にいるバレンには、きっと分からないことだ。

「そういえば今日は、ロレア医師が来る日だったな」

 今も自分には見せてくれない笑顔を浮かべているのかと思うと、少しだけ寂しいと思った。




「――はい。今日もお変わりありませんね」

 昼になる少し前。イキシアは、自室で主治医ロレアの診察を受けていた。

「ありがとうございます、ロレア」

 彼女は掴んでいたイキシアの手首を解放し、机に広げていた検査用の道具を片付けていく。

 華ふらしは厳密に言えば病気とは分類されない。そのため、一般の医者では手に負えず、魔力の分野に詳しい医師として、ロレアがイキシアの担当医となっていた。

 彼女の師は、華ふらしの症状を抑える薬を開発したという高名な医者である。だが、その人物は既に一線を退いており、その代わりにロレアが召喚されたのだ。

 はじめの頃は、若い彼女を心配する声もあったが、ロレアの腕は確かだった。今では、イキシアも彼女に絶対の信頼を置いており、現在では医者と患者というよりは、友人同士のような関係になっている。

「ああ、でもイキシア様。今日は少し、お気持ちが不安定なのではありませんか?」

 鞄に器具を詰め終えたロレアは、顎に指を当ててそう言った。

 先程、彼女がイキシアの手首を掴んでいたのは、身体を循環する魔力の流れを見ていたからだ。その時に何か感じ取ったのだろう。ルースの顔を思い浮かべたイキシアは、つい視線を逸らした。

「……分かります?」

「ええ、少しだけ魔力におかしな揺らめきがありましたもの。それに……」

 そう言ってロレアは、イキシアの背後を見る。

 そこには紫色のバーベナの華が散らばっていた。

「紫色の……、これはバーベナですかね。『魅力』『同情』……『後悔』」

 イキシアの肩がぴくりと跳ねた。

「『後悔』、ですか……。陛下と喧嘩でもなさりました?」

「ロレア……、あなたは心が読めるの?」

「貴女が分かりやすいんですよ」

 ロレアは肩を竦めて苦笑する。

 華ふらしに発症したばかりの頃、イキシアはいたる所で発生する華が、自分の心を全て見せてしまっているような気がして、嫌でたまらなかった。

 だが、一年もその症状と付き合い続けていると、華が心の全てを現しているわけではないことに気付く。たしかに、瞬間的な怒りや喜びは、そのままの意味を持つ華が出やすい。しかしそれ以外の時は、心も一様ではないように、自身ですら予期せぬ感情を表す華が飛び出すことがある。単純な言葉で割り切れる気持ちばかりではないからだろう。

 そのため、華があっても人の心を読み解くのは、やはり難しい。そもそも、人が一人一人違うのと同じで、同じ華の種類でも、それぞれで意味する内容が違うこともあるからだ。

「そんなに、分かりやすいでしょうか?」

 イキシアは、ロレアから「分かりやすい」と言われることが多かった。しかし彼女以外からは、どちらかというと誤解されることの方が多く、表情の乏しさがそれを助長させていた。

 ロレアは目を瞬かせて、頷く。

「華もそうではありますけど、よく見ていると顔にも出てますから」

 イキシアは目を見開いて顔を両手で押さえた。何を考えているのか分からない、とこれまで言われ続けてきた。イキシアが初めての評価に首を捻っていると、ロレアが焦れたように聞く。

「それで、陛下と何があったんですか?」

「大した事ではないのですけど――」

 そうだった、と直前までの会話を思い出し、イキシアは今朝の顛末を語る。

 彼が話しかけてくれて嬉しかったこと。でもその後、華ふらしを受け入れてくれていないと思って、悲しかったこと。それらをぽつぽつと話す。

「それで、何故『後悔』なんです?」

 イキシアは俯いて唇を噛んだ。また、紫のバーベナが降る。

「悲しくて、すごく……冷たい返答をしてしまったのです……」

 そもそも彼とは、仲が良いとはお世辞にも言えない関係だ。

 その中であのような物言いをしてしまって、修復不可能な溝になってしまったらどうしようかと、イキシアは酷く後悔していた。

 だがルースを前にすると、未だに恥ずかしく面と向かうことが出来ない。そのためついつい、素っ気ない態度を取ってしまう。

「ロレア……、私はどうしたら良いのでしょう……」

 震えそうになる声でイキシアが言うと、バーベナに交じって、今度はプリムラが降る。

 真っ白な五枚華びらのそれを、ロレアは摘まんで持ち上げた。

「『あなたなしでは生きられない』……ですか」

 彼女が手を離すと、華はふわりと解けるように消える。

「きっと、届いてますよ」

「そうだと、いいのですけれど……」

 だが、華ふらしを発症して以降、二人の距離はどんどん広がっているように感じていた。結婚した直後の方が、むしろ近しかったのではないかとさえ思う。

 降っては消える白い華が、机の上で頼りなく揺れる。

 ロレアの前にいる時のように、素直になれたらよいのにといつも思っていた。しかし、いつも気恥ずかしさに負けてしまう。

 イキシアは、ルースが正しくこちらの気持ちを読み取っていることを、祈るしかなかった。




 ロレアが帰った頃。それを見計らったかのように、ルースが訪ねてきた。

 診察が終わると、殆ど欠かさず彼は様子を見に顔を見せる。

 罪悪感から出る行動なのかもしれない。

 発症した経緯を思えば、そんな考えがよぎることもあったが、気にかけてもらえる嬉しさは消せなかった。

「陛下、お仕事は」

 ルースの顔を見ると、いつも通りに見える彼に「安心」したからか、アザミの華びらが降る。濃い赤紫色の華は、イキシアの頭の上に落ちて長い銀の髪を滑り落ちた。

 ルースはそれをじっと見ていたが、それだけで何も返答がない。イキシアは小首を傾げながら、もう一度「陛下」と呼んだ。

「……いや、仕事は一段落ついた」

 はっとしたように、ルースは息をのむ。何かに気を取られていたようだが、それを振り払うように首を振ってこちらを見た。

「それより、ロレア殿は何と?」

「魔力も安定していて、変化は無い、と」

 今日も、殆どが診察というよりはお喋りの時間だったことを思い出す。華ふらしに慣れなかった初めの頃とは違い、今はそれが日常となって身体も慣れた。診察自体はしっかり行われているが、もう急な変化はないだろうというのが、ロレアの見解だ。

 ルースは、降ってきたアザミの華びらを手に乗せる。

「変化が無いのなら、よかった。……他には?」

「いえ、特には」

「そうか」

 それきり沈黙が落ちた。ルースの手にはまだアザミが乗っており、彼はそれをじっと見つめている。

 わたくしも、あのくらいに近付くことが出来たらよいのに。

 イキシアは羨ましい思いで、華を見た。

 ふと、ルースが顔を上げる。

 目が合い、恥ずかしくなったイキシアは思わず、パッと目を逸らしてしまった。頬が赤くなっているのではないかと心配になり、余計に俯いてしまう。

「イキシア」

「はい」

 名前を呼ばれても、気恥ずかしさで顔が上げられない。俯いたままでいると、ルースは少し言葉に迷うような気配を漂わせた。

「――そろそろ、私は戻る」

 発せられた言葉に、イキシアは顔を上げる。彼はもう、こちらを見ておらず、その横顔をイキシアは観察する。しかし、何を考えているのかは分からなかった。

 ルースが背を向けたのに気付くと、慌てて立ち上がり、イキシアは彼を見送りに行く。部屋の外までついて行き、その姿が廊下を遠ざかっていくのを、ただ見つめていた。

 ああ、また、上手くお話が出来なかった……。

 イキシアの吐き出した溜息と共に、ジニアの華が舞っていた。




「……ふぅ」

 イキシアは溜息を漏らした。

 その日は、朝からとても天気が良い日だったが、気分はそれとは正反対だ。

 ここ数日、憂鬱な気分で過ごしていたイキシアは、気分転換しようと城内を散歩していた。その時、廊下の前方に兄バレンの姿を発見し、思わず声をあげて呼び止める。

「……お兄様っ」

 少し遠い場所にいた彼だったが声は届いたようで、こちらを振り返って微笑んだ。

「これは、妃殿下。ご機嫌麗しゅう」

 胸に手を当て頭を下げる(さま)は、堂に入っていて格好が良い。だが、イキシアは眉を寄せる。

「公式な場以外では、やめてくださいと前にも申しましたよね?」

「いやだなぁ、冗談じゃないか。そう、カッカするものじゃあないよ、イキシア」

 一睨みするとバレンはすぐに相好を崩し、小走りで近付いたイキシアの頭を撫でる。

 いつもならば、そこで控えに笑みを返すのだが、今日ばかりは浮かない顔をしている自覚があった。彼もそれに気付いて不思議そうに首を傾げる。

「どうかしたのかい?」

「その……、陛下は……。その、お元気ですか?」

 手を頻りに組み替え、言葉を選びながら、イキシアは尋ねる。

 もう、何日あの方の姿を見ていないだろう。

 診察のあった日から、イキシアはルースに会っていない。それが、イキシアの心を浮かなくさせている原因だった。

 殆ど欠かされることのなかった食事を共にするという習慣も、ここ何日か忙しさを理由に開かれていない。寝室は同じなのだが、イキシアが寝入った後に戻ってきているらしく、眠った形跡はあれど、その姿を見ることはなかった。

 本当に、そんなにも忙しいのだろうか。

 どことなく、避けられている。

 勘でしかなかったが、イキシアはそう感じていた。

 もしこの想像が間違っていたとしても、それはそれとして過労が心配だ。

 イキシアは、ずっと彼の様子を誰かに尋ねたいと思っていた。しかし、ルースの側近たちと交流はなく、会う機会もない。もっとも、その機会があったところで、どう聞けばよいのかも分からなかった。そんな時に遭遇したのが兄バレンだった。ルースの現状を聞く相手として、彼以上の適任はいない。

 何か教えてほしいと、イキシアは必死に兄に視線を送る。

「うーん……、とりあえず、お元気にはされているよ。そこは安心しなさい」

 どこか彼の言葉は歯切れが悪い。それでも、元気であるということだけでも聞くことができ、イキシアもいくらかは安堵する。姿を見ることが出来ないというのは寂しいものだったが、それ以上に彼のことが心配だった。

「あ、そうだ。イキシア」

「はい……?」

 何かを考え込んでいたバレンは、ぽんと手を打って笑った。

「今日の午後、息抜きにお菓子でも持ってきてさしあげて、陛下に」

 にこにこと笑っている彼の言葉に、イキシアは目を微かに瞠る。

「え……、でも、お邪魔では……」

「大丈夫、大丈夫。僕が話を通しておくから。第一、働き過ぎは良くないから」

 ね、と片目を瞑るバレンに、イキシアの心も徐々に浮き立ってくる。

 ルースの姿を自分の目で確認できるのだ。嬉しくないはずがない。ふわりとデルフィニウムの華が舞う。

「……仕方がありませんね」

 しかし口では可愛くないことを言って、イキシアはそっぽを向いた。

「頼んだよ」

 イキシアの性格など分かりきっているバレンは、おかしそうに笑いながら、もう一度イキシアの頭を一撫でして、その場を立ち去った。




「本当にいいのかしら……」

 焼き菓子の入った籠を持ち、イキシアは不安を表すユーパトリウムの細い華びらを振りまきながら、廊下を歩いていた。

 バレンが大丈夫というからには問題ないのだろうと自身を勇気づけるが、緊張はどんどんと高まっていく。

 仕事中のルースに会いに行くのは、はじめてのことだった。邪魔をして嫌われたくないと思い、行こうと思ったことすらない。

 執務室の前に着いた時も、不安で堪らなかったが、いつまでもここにいるわけにはいかないと、覚悟を決める。

「失礼いたします」

 そろりと扉を開けると、バレンが気安げに手を振った。部屋を見渡すとバレンとルースの二人しかおらず、何故かルースは、イキシアを見て驚いたような顔をしている。バレンから聞いていないのだろうかと、イキシアは不思議に思った。だが、そんな彼にお構いなしの兄は、入っておいでと手招きする。

「イキシア、よく来たね。さぁ、陛下。少し休憩をいたしましょう」

 バレンの言葉に促され、イキシアはおずおずと足を踏み入れた。

「お茶菓子を、お持ちいたしました」

 相変わらず、不安でユーパトリウムが降っている。おそるおそる持っていた籠を差し出すと、ルースは戸惑う様子ながらも、それを受け取ってくれた。

「ありがとう、驚いた……」

 その瞬間、ユーパトリウムは消え去り、今度はイベリスの輝くような白い華がわっと舞い散った。途切れることなく降るその華が、あまりにもあからさまで気恥ずかしい。

 そのせいで、可愛らしく「どういたしまして」とでも言えばよいのに、イキシアは恥ずかしさを誤魔化すためにツンとそっぽを向いた。

「お兄様に申しつけられましたので、仕方なくです」

 しかし、ルースからの返答はない。

 再び不安になったイキシアに呼応し、イベリスに交じってユーパトリウムが降る。

 奇妙な沈黙と華で部屋が満たされる。場を和ませようとしてか、バレンが明るい声を出した。

「さて、陛下。今日はお天気も良いですし、ここよりも外で休憩されては?」

「あ、ああ……」

 バレンはそう言ってルースを立たせると、背中を押すように部屋から追い出す。

 お茶を運んできていた侍女に場所の変更を伝えると、イキシアとルースを追い立てるようにして、歩いていった。




 庭先にある日当たりのよい場所に、ルースは黙ったままイキシアと座っていた。

 バレンはというと、用意の手配だけ済ませ、さっさと消えてしまっている。

 対面にいるイキシアは、こちらに視線を向けようともしない。しかし黙ったままの彼女は、風に長い銀髪が揺れ、憂いを帯びているような表情がなんとも美しかった。

 しかしその表情が自分といることが原因なのではと思えてしまい、少し憂鬱さを覚える。

 ルースは、気を落ちつけようと用意された茶を飲むため、カップに手を伸ばす。

 その些細な動作で、微かにイキシアの肩が跳ねた。

 指に触れた細いカップの持ち手に、思わず力が入る。手が震えそうになり、平然と口元に茶を運ぶことに苦労した。

 やはり、彼女は私と同じ空間にいたくないのかもしれない。

 ここ数日、ルースはイキシアを避けていた。

 全てはあの最後に会った日、彼女がアザミの華を降らせたことに起因する。

 アザミには、「触れないで」や「独立」という意味がある。それを見た時、イキシアは自分から離れたがっているのだとしか思えなかった。もちろんルースも、アザミに「安心」などの良い意味の言葉がある事も知っている。しかし、普段の頑な態度を思えば、そちらの意味とは到底考えられなかった。

 だから、仕事が忙しいという言い訳をして、極力イキシアと会わないようにしていた。それでも、顔だけは見たいという思いにかられ、彼女が眠った後にその寝顔を見つめていたのは一度や二度ではない。

 結婚した以上、滅多なことでは離縁するなど出来ない。完全に顔を合わさないというのも、不可能だ。ルース自身の気持ちとしても、今更彼女を手離せるか、と言われれば答えは否だろう。それでも、彼女には幸せでいてほしかった。自分が離れることでそれが叶うならと思った。

 しかし、心は追いついていなかったらしい。

 ルースは、力が籠りすぎて震えるカップを、どうにか不格好にならないように下ろす。

「わざわざ、すまなかったな」

 口にしてから、しまったと思った。つい、冷たい言い方になってしまったことを後悔する。

「――いえ」

 イベリスの華が降る。坦々とした言葉、表情も変わらず、「無関心」を意味するイベリスのとおり、彼女は何とも思っていないようだった。

 そんなイキシアに寂しさと、少しの苛立ちを覚える。

 ルースは、ついさっき後悔したのも忘れ、口を開いた。

「嫌ならば、無理をする必要はない」

「嫌、などということは」

「バレンに言われたからだと、言っただろう」

「それは……」

 イベリスの華はいつの間にか止み、別のものが降っていた。同じ白い華びらだが、形が違っている。ホオズキだ。どうにかルースの追及を逃れようとしているはずの、今のイキシアの内心にはぴったりの華だと思った。

 だが、そんな確認の作業をするごとに苛立ちは募る。

「――これは、君の意思ではないのだろう」

 その時、バンッという音がした。ルースは目を見開く。

 イキシアが机に手をつき立ち上がっていた。彼女がテーブルを叩いたのだ。

「陛下は……」

 彼女の背後には、毒々しいほどの紫をしたシャクヤクが舞っている。

 イキシアは何か言おうとするように口を数回開閉させたが、結局は唇を引き結ぶと、ルースから背を向けた。

 そして、いつも平静な彼女らしからぬことに、無言のままクロユリを散らして走り去っていく。ルースも思わず立ち上がったが、イキシアの残していった華を見て、追いかけることは出来なかった。

 クロユリは、「恋」を現す。

 しかし、この場にその言葉は相応しくない。ならば、もう一つの意味のはずだ。それは――

「――『呪い』」

 ルースは、クロユリを拾い上げ、ぽつりと呟いた。




 ひどい、ひどい、ひどい――

 イキシアは、涙の代わりにバラバラとクロユリを散らしながら、廊下を走っていた。

 どこへ行こう、というのはない。ただ、あの場から遠ざかりたかった。

 あんな事を言うルースが憎くてたまらない。だが、それと同じくらい、やはりイキシアは彼が恋しかった。

 クロユリは、そんな内心を悲しいほど如実に表している。

「イキシア!」

 その声に足を止めた。

 しかし、その声は待ち望んだ声ではない。

「……おにいさま」

 やはり追いかけてきてはくれないのだ、と思うとまたクロユリが降った。

「イキシア……、君が華を撒きながら走っていたと聞いて……。陛下は?」

 立ち竦んだまま何も答えられず、泣いてしまわぬように両手に力を籠める。バレンは傍まで近寄ってきて、イキシアをそっと抱き寄せた。

「ねぇ、イキシア。一体何があったんだい」

 彼の手が優しく頭を撫で、そこに引っ掛かっていた黒い華を摘まみ上げた。

「陛下と、喧嘩でもしたかい?」

 イキシアは微かに首を振った。

 あれは喧嘩ではない。

 今までの態度がそのまま帰ってきて、イキシアが勝手に傷ついただけだ。

「陛下なんて……」

 兄の腕の中で、イキシアはぽつりと呟く。

「へいかなんて、きらいです……」

 呟いた言葉は、あまりにも力無い響きをしていた。そして、堪えていた涙とは裏腹に、華は舞い散っていく。

 クロユリとは違う、小さな薄紫色の華びらがイキシアの涙のように落ちる。

 バレンはその華びらを摘まみ上げた。

「スミレ……」

 イキシアは、頬にぱっと熱さが灯るのを感じた。

 スミレの華。「愛」や「誠実」「幸せ」を表すそれを見れば、ルースを想っていると告げているようなものだ。

「イキシア、君は――」

 トンとバレンの胸を押して、イキシアは彼の腕から逃げ出す。

 どうして、この素直な気持ちが、あの方といる時には現れないのだろう。

 イキシアはきゅっと唇を噛み締めると、バレンに背を向けた。

「もう、放っておいてくださいませ」

 イキシアは早足でその場を去る。その後には、スミレに交じって真っ青なワスレナグサの華弁が散っていた。




「え、イキシアが……?」

 夜になり、ルースはイキシア付きの侍女が持ってきた報告に、目を丸くした。

 昼に別れた後、部屋に戻った彼女は突然高熱を出し、寝込んでしまったらしい。今はある程度落ち着き眠っているというが、知らぬ間に彼女が苦しんでいたのかと思うと、ゾッとした。

「な、何故もっと早く――」

 だがすぐに、ルースはもの悲しくなりながら、首を振った。

 体調の悪い時に、嫌な人間の顔など見たくないものだ。

「今は、眠っているんだな? ……顔だけでも、見に行く事は可能か?」

 侍女は迷うように視線を彷徨わせたが、ゆっくりと頷いた。

 報告が夜になったのは、イキシアの指示だったのかもしれないと思った。

 ルースは侍女を下がらせた後、彼女が休んでいる部屋へと向かう。扉の前まで辿り着いたところで、自分自身でも驚くほどに緊張していることに気付いた。ドアノブを握る手が、微かに震えている。

 もし、彼女が起きていたら。そして、冷たい目で見られたとしたら。

 そう思うと、恐怖を覚えた。

 しかしここで立ち竦んでいても仕方がない。自身を奮い立たせるように、手にぎゅっと力を込めて、ルースは扉を開いた。

 部屋の中は、扉から漏れ入る光とカーテン越しの月明りだけで、とても暗い。ルースは気配を殺して足を踏み入れ、静かに扉を閉めた。

 目が慣れてくると、月光のおかげか意外と部屋の中は見える。ルースは音を立てぬように、イキシアの眠っているベッドに近付いていった。

 天蓋のついているそれを覗き込むと、悪いところなどないような穏やかな顔で彼女は眠っていた。苦しんでいたりせず良かったと、ルースは胸を撫で下ろす。

「ん……?」

 よく見ると、真っ白なはずのシーツが、不自然に暗くなっていた。

 ルースは、イキシアを起こしてしまわぬように、彼女の周囲を探る。

「華だ……」

 暗くなっているのではなかった。手を伸ばした先には、生花とは違う独特の感触があった。ふわふわとしているような、微かな温かみを感じる。その一つを摘まみ上げると、昼間に見た黒い華と同じものだった。

「そんなにも、私が嫌いか、イキシア……」

 ルースはイキシアの頬にそっと指で触れる。

 彼女が目を覚ますことが怖いのに、目覚めてほしいような気がした。

 だが、彼女は眠り続けている。

 クロユリに沈むように眠るイキシアは、彼女の白い肌や銀の髪と対照的で、とても綺麗だ。

 ルースは彼女の肌から手を離すと、ふと思いついて、掌に魔力を集める。

「君が私の事を、嫌っていても……。それでも――」

 ルースの手には、バラの華が握られていた。

 それをそっとイキシアの胸元に置いて、ルースは踵を返した。




「あ……」

 目を覚ましたイキシアは、視界の端にクロユリの華びらが散らばっているのを見つけた。

「陛下……」

 昨日のルースの言葉を思い出し、胸が苦しくなる。

 わたくしは、こんなにも貴方に「恋」しているのに……。

 何も分かってくれない彼が、やはり憎らしい。だがそれ以上に、彼に見捨てられてしまうかもしれないことが、悲しくて仕方がなかった。

 イキシアが身体を起こすと、髪に絡まった華が、はらはらと散ってゆく。

 華弁が落ちる(さま)が、酷く傷ついた自分の心のようだと思えてならない。

 真っ黒に染まって、バラバラになって散っていく――。

 その時、起き上がった膝の上に、シーツの白でも華の黒でもない色を見つけた。

「バラ……?」

 ぽとりと膝の上に落ちていたそれは、一本のバラだった。真っ赤な大輪を咲かせるそれは、一面の黒の中でそこだけ異彩を放っている。

 どうして一本だけ、と不思議に思いながらそれを取り上げる。

「――へい、か?」

 指に触れた華の魔力が、自分のそれとは違うような気がした。イキシアに寄り添うように馴染むその魔力からは、包み込まれるような温かく優しいものを感じる。

 ルースが時折見せてくれる笑顔に似ているような気がした。しかし、イキシアはそんな期待を打ち消そうと頭を振った。

「陛下が、わたくしにバラをくださるはずがないわ……」

 バラ、特に赤いバラは「愛」を意味する。

 彼はイキシアのように自分の意思に関係なく、華を発生させてしまうわけではない。

 そのこともふまえると、たとえ彼が作ったとしても、イキシアを宥めるために気を使ってくれたのだろう。

「馬鹿な想像ばかり。わたくしは、愚かね……」

 それでも、もしかしたらという期待が、消した傍から湧き上がる。

 バラの花には棘がある。

 しかしこの華には、イキシアを傷付けるものは何一つなく、ただ美しい所だけが切り取られていた。




 日も高くなった頃、イキシアは一人で机に頬杖をついて、溜息をつく。

 その眼前には、細い花瓶に挿さるバラの華があった。今朝見つけた、あの華だ。イキシアは指でそれにそっと触れ、もう一度溜息をつく。

「イキシア様」

 自分の名を呼ぶ声に顔を上げると、そこにいたのはロレアだった。

「……今日は、往診日だったかしら?」

 今来たばかりらしく、診察用の器具が詰まったいつもの鞄を、まだ手に持っている。

「いいえ。御加減が悪いと聞きまして」

「そう、なの」

 部屋に入ってきた彼女の微笑みに、少しだけほっとする。しかし、イキシアは触診を受けながらも、どこか上の空だった。

「陛下と、喧嘩でもなさいましたか?」

「えっ……」

 突然の問いに、思わず過剰な反応してしまい、ロレアはくすくすと笑う。

「な、なぜ。そう思ったの?」

 分かりやすすぎる自身の反応に、頬が熱くなった。彼女は微笑ましげな顔のまま、あのバラを指差す。

「それ、陛下からの贈り物でしょう? 陛下の魔力を感じますから。それを見ながら、溜息をついていらっしゃったから、それで……」

「そう、なのね」

 ロレアの指につられ、イキシアはもう一度バラを見た。

「これは陛下からのもので、間違いないの……?」

「え? ええ、はい。王家の方々の魔力は、少し他の方とは違うので」

「そう……」

 ルースからのものだと断定されて、どうしようもなく嬉しく、そして悲しくなった。

「――やはり、何かあったのですね」

「え……」

 ロレアの独白のような言葉に目を瞬かせると、彼女は困ったように笑った。

「だって……、こんなにたくさんの種類の華が舞っていたこと、ありませんから」

 はっとして周囲を見渡すと、部屋中に様々な形、色をした華が舞っている。

「アキレギア、カタカゴ、プリムラ……。『あの方が気がかり』で、『寂しさに耐え』……、でも――『あなたなしでは生きられない』」

 ロレアが手のひらに乗せた華びらを見て、イキシアに訳知り顔で笑う。

「何があったのかは存じませんが……、このお気持ちを素直に仰ってみては?」

 ロレアはバラを指差して言う。

 バラが表す「愛」を信じてみては、ということだろう。しかしイキシアは俯いて、力なく首を振る。

「でも、陛下はお優しいから……」

 この華も自分を憐れに思って、くれたものかもしれない。

 言葉には出さなかったが、イキシアの表情からロレアは、こちらの言いたいことに察しがついたようだった。彼女は少し切なげな顔をする。

「――失礼しますね」

 何が、と問い返す前に、イキシアは頭をぽんぽんと撫でられた。

 顔を上げると、苦笑するロレアと目が合う。

「難しくお考えにならなくても、いいと思いますよ」

「……え?」

「華が感情を表現するのは、貴女だけではないです。この華のように意図的に作ったものでも、心にもない感情は現れません。真っ赤な、一輪の、バラ……。陛下の御心はこの中に詰まっているように思いますよ」

 大きなバラは、萎れることも消えることもなく、咲き続けている。

「もう一度、向きあえるかしら……」

 この華が現すように、彼が本当に、私を思ってくれているなら。

 イキシアの胸にほのかな「期待」が芽生える。

「あら……、ゼフィランサスが」

 ロレアは、現れた白く細長い華びらを見て笑った。些細な心境の変化もすぐに表れてしまう華に、少し赤くなりつつもイキシアは、ロレアにこう宣言した。

「わたくし、陛下とお会いしてきます」

 今度こそ、彼と真正面から向きあおう。

 そう決意していた。




 ロレアが帰った後、イキシアはさっそくルースの元を訪ねることにした。

 彼は今、仕事中のはずだ。連日邪魔するような真似をしたくはなかったが、思い立った時に行かねば、二度とこんな勇気は湧かないような気がした。

 おそるおそる執務室の扉を叩く。

 イキシアを迎えたのは、バレンだった。

「あれ、イキシア」

 どうしたの、と尋ねられ口籠る。

「ええ……、その……」

 そもそも、会いに来て何を喋るつもりだったのだろう。

 根本的な疑問にぶつかり、イキシアは思わずルースの方を見る。

「ははぁ……」

 頭上から兄のよく分からない呟きが聞こえ、視線を上げると、彼はしたり顔をしていた。

「陛下に会いに来たんだね。なら、ほら。早く入って、入って」

 バレンはイキシアを追い立てるように中へ入れると、ルースの前へと押しやった。

「それでは、僕は急用を思い出しましたので!」

「え? あ、おい!」

 やたらと楽し気な声で彼は言うと、ルースの戸惑ったような声も無視して、あっという間に部屋を出て行った。

「……とりあえず、そこに座ってくれ」

 暫しの沈黙の後、その言葉に従って、ソファへと腰かけた。

「何かあったのか?」

 ルースも手を止め立ち上がり、イキシアの対面に座る。仕事の手を止めさせてしまったと思うと、せっかく湧いていた勇気が萎んでいった。イキシアは俯いて、彼の顔が見られなくなる。

「そういうわけでは……」

「そうか……。身体の方は?」

「問題ございません」

 再び沈黙が落ちる。微かな身動ぎにも緊張するような空気で、部屋の中は満たされていた。

 何を言えば良いのか分からなかったが、イキシアはどうにか話題を絞り出す。

「あの、陛下。華を……、いただきまして……」

「――気付いたのか」

 静かな声に、イキシアはおそるおそる顔を上げた。彼のその表情には、何の感情も感じられないように見え、一気に恐ろしくなった。

 あの期待は、やはり的外れなものだったのかもしれない。

 声が震えそうになりながらも、イキシアはこれだけは言わねばと、言葉を続ける。

「ありがとう、ございました」

「……ありがとう、か」

 ルースが視線を上げ、こちらを見た。イキシアはその視線に射抜かれたように、ぴくりと身体を震わせる。

「イキシア。本当にそう思っているのか……?」

「は――」

 一瞬、何を言われたのか理解できず、言葉を詰まらせた。それをどう受け取ったのか、彼は自嘲するように彼は嗤う。

「君は、私を好いてはいない……、違うか?」

「何故、そのような――」

 あまりに酷い言葉に、イキシアはうまく頭が動かないまま、どうにか言葉を紡いだ。

 ルースはそんなイキシアを見て、悲しげに目を細める。そして、胸ポケットから真っ白なハンカチを取り出し、それを掌の上で開いた。

 その中にあったのは、一枚の真っ黒な花びらだ。

「それは……」

 イキシアはどこか見覚えのあるそれを暫く見つめ、ようやくそれが何か思い出す。

 昨日、ルースと会った時。そして、今朝。イキシアはそれを目にした。

 これはただの花びらではない。イキシアが降らせたクロユリの華弁だった。

「何か分かるか?」

 ルースの問いかけに、イキシアは小さく頷いて答える。

「クロユリの、華……です」

「そう、君の華だ」

 ルースはその華びらを一瞥した後、イキシアに視線を戻す。

「この華の意味、君は知っているのか?」

「それは――」

 クロユリの意味は複数あるが、イキシアの思いに一番近いものを選ぶとすれば、やはり「恋」だ。

 だが、面と向かって答えるのは気恥ずかしく、イキシアは黙ってしまう。

 ルースは俯くイキシアを見て、小さく溜息をついた。

「酷なことを聞いたな」

「え……?」

 イキシアは「酷なこと」という言葉に違和感を感じ、顔を上げる。ルースはもう、イキシアを見てはいなかった。クロユリの華に視線を落とし、呟くような声で言葉を続ける。

「この華の意味は……『呪い』。君は私のことを、『呪う』ほどに……嫌いなのだろう?」

 イキシアは、言葉を失った。

 ただ目を見開き、ルースの言葉を呆然と聞く。

 わたくしの想いは、何一つ、この方に届いてはいなかった――。

 そう思うと、ただただ悲しくなる。

 もう、虚勢を張るのも限界だった。視界が滲み、頬を涙が伝う。一筋流れ落ちれば、あとは止めどなく幾筋も流れていった。

 ぎょっとしたルースが、思わずという様子で手を伸ばしてくる。

「さわらないで……!」

 イキシアは自分を守るように、自身の身体を抱いて叫んだ。

 ルースの手が止まる。

 彼は、自分の言った言葉に従っただけだ。それなのに、止まってしまった手に悲しくなる。

 止まらない涙を見られないように、イキシアは顔を両手で覆った。それでも、指の隙間からは透明の雫が流れていった。

 困ったようなルースの気配を感じた。しかしイキシアは、怨み言のような言葉を止めることは出来ない。

「嫌っているのは、あなたの方ではないのですか。あなたは、わたくしの気持ちを……、見ようともしていないでしょう……! ――どうして、あの華を贈ったりなんか、したの! どうして、わたくしに、愚かな期待をさせるのですか!!」

「――期待……?」

 イキシアは立ち上がって、彼に背を向けた。

 だが、ここで出ていってしまっては、同じことを繰り返すことになるという思いが、足を止めさせる。それでも、ルースと再び相対する勇気は持てずに、その場に立ち尽くした。

 華が舞っているのには気付いていた。

 しかし、また何か思いもよらぬ誤解を受けてしまうと思うと、悲しくて仕方がなかった。




 赤紫色の小さな華弁が、イキシアを守るように舞う。

 彼女は酷く傷ついている。ルースにもそのことは分かったが、泣き出したイキシアにルースも困惑していた。

 彼女の発した「期待」という言葉。

 周囲を覆おうとしているミソハギの華。

 それの意味は「悲哀」。ルースの言葉に悲しみを感じているとしか思えない華だ。

 また、もう一つの意味を考えても、ルースがこれまで考えていたものとは全く異なる。

 ミソハギの持つもう一つの意味、それは「純真な愛情」――。

 ルースは、まさかとイキシアの後ろ姿を見る。

 彼女は、自分を想ってくれている……?

 そのことに思い至ったルースは、手の平の上に乗せたままのクロユリを見た。

 この華の意味は、「恋」。

 それから、いつかに見たアザミのことも思い出す。

 あの時は、「私に触れないで」だと思い込んでいた華だったが、もう一つの意味が浮かぶ。

「安心」だ。

 「無関心」だと解釈したイベリスもそうだ。あれには正反対の「心をひきつける」という意味がある。

「……、」

 華の意味だけではない。普段の些細な彼女の言動は、嫌われているがゆえではなく、ただの照れ隠しだったとしたら。

「……イキシア」

 自分は、何と酷いことを言ったのかと、今更ながらに自覚した。

 びくりと肩を震わせる彼女にゆっくりと近付き、背後からそっと抱きしめる。

 顔を覗き込もうとするが、ふいと顔を背けられた。しかし、その頬は真っ赤に染まっている。逃げ出そうと身を捩りはするが、嫌がって逃げる風ではない。

 何故、気付けなかったのだろう。

 後ろから抱きしめたまま、指で頬を撫でると、観念したように動きを止めた。

「すまなかった」

 勘違いしていたためとはいえ、あまりに酷いことを言ってしまった。それを謝ったルースだが、彼女は微動だにせず固まっている。さすがに、そう簡単には許してくれないようだ。

「……許してほしい、イキシア。私も……、不安だったんだ」

「――不安?」

 ルースはこくりと頷く。

 イキシアは華の影響で、感情の起伏は分かりやすいように見える。しかし、ルースにはその実、彼女が何を考えているのかが理解できなかった。万事控えめに振る舞う彼女は、良き王妃であろうとしていることは見えても、本心は全く見えなかった。

 正直な所、扱いかねていたのだろう。

「……陛下にも、不安に思うことがあるのですね」

 しみじみと呟いたイキシアの声からは、どこかほっとしたような気配が感じ取れた。

 気が付くと、ミソハギの華も降らなくなっている。

「悲哀」は癒えた、と思っていいのだろうか。

 ルースはぎゅっとイキシアを抱く腕に力を込めた。

 彼女の頬をなぞって、こちらを向かせる。頬は赤いが、今度は素直にこちらを向いてくれた。

 視線は合わないが、そんな所も愛おしく思える。

「愛してるよ」

 自然とその言葉が零れ落ちた。

 イキシアに口付けようとするが、真っ赤になった彼女に両手で阻止される。口を押えられる形で静止すると、はっと目を見開いたイキシアが、次第に焦りだした。

「あ、ああ、あの……、へいか、その……」

 視線を彷徨わせる彼女に、ルースはぷっと笑う。

 本当に、どうして気付かなかったのだろう。

 あわあわするイキシアの手を取って、その掌にちゅっと口付けた。

 今度は白い華が降る。

 アザレア。

 その意味は、「恋の喜び」だ。




 薄紅色をしたキルタンサスの華が降っていた。

「へ、へいか……」

 ルースの言葉にアザレアの華を降らせた日の夕食後、イキシアは彼の膝の上で困惑していた。

 手を取られ、髪を梳かれ、抱き締められる。ルースが触れる度に、「恥ずかしがり屋」のキルタンサスが舞った。それを見たルースは一層嬉しげに笑う。そのせいで、イキシアは余計に居たたまれなかった。

「あの、何故、こんな……急に……」

 普段ならば、イキシアとルースは夕食を共にした後は、別々に過ごすことが多い。

 同じ空間で過ごす時もあるにはあったが、今日のようにずっと密着していることなどあり得なかった。

 イキシアの問いにルースは口元を緩め、握っていたイキシアの手に口付ける。

「我慢しないことにしたんだ」

「が、がまん……?」

 ルースの視線にどぎまぎしながら問い返すと、彼はこくりと頷く。

「そう。私は君に、ずっとこうしたかったんだから」

 こう、したかった?

 イキシアが目を瞬かせると、ルースはニヤリと笑って、イキシアの顎をそっと掴んだ。

 何、と思う暇もなく、軽く引き寄せられて唇に柔らかい感触を感じた。

 暫し呆然として、何が起こったのか理解すると、一気に頬が熱くなる。

 結婚して何年も経つのだ。勿論、はじめてだったわけではない。

 だが、彼の目が驚くほど優しく、慕わしげだった。

「愛してるよ」

 熱い頬を押さえて、イキシアはパッと顔を背ける。視線だけ戻すと、ルースはより笑みを深くしていた。あの悲しい誤解は完全に解けたのだと思うと嬉しいと同時に、どうしようもなく恥ずかしくなる。

 再び視線を逸らすと、その視界にキルタンサスが見えた。

 いつまでも恥ずかしがっていては駄目。

 そう言われているような気がする。

 だがこれ以上近寄ると、心臓が持ちそうにない。視線を合わせるのも、だ。

 でも、変わらなければ。

 その思いで、イキシアは口を開いた。今まで、心の中に留めていた言葉。それをはじめて声に乗せた。

「……わたくしも、あいして…います」

 ルースが息をのむ。そして、くすと彼が笑う声がして、ぎゅうっと抱き締められた。

 強い腕の力に、軽く息が詰まる。

 だが、それさえも愛おしい。

 イキシアも彼につられるように、ふと口元を緩める。

「とても幸せ」と、ガーデニアの華が舞った。

Fin.

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