「さあ、いつものように(べに)を塗ってくださいな」

 レアナは、いとおしい男の(おとがい)を持ち上げて、微笑んだ。

「わたくし、あなたに見つめられながら唇に(あか)がのっていくあの瞬間。とても、好きでしたのよ」

 男の、レアナと同じ色をした薄い金の髪を、優しく梳き下ろす。

「ね、ラドルフ様……」

 レアナは彼の髪に口付けを落とし、目を閉じる。

「あなたを、あいしていますわ」

 彼を抱き寄せ、背中に手を這わせる。

 紅い雫が、滴り落ちた。



     *



 唇を細い筆がそっと撫でる。

「おまえは、本当に(あか)がよく似合う」

 そう言って愉悦を滲ませるラドルフの声を聞きながら、レアナは目を閉じ、されるがままになっていた。繊細な筆先が断続的に触れ、まるで愛撫するかのように官能的だ。

 今、レアナのこの唇は、紅く、血のように染まっているに違いない。

 その想像だけで、レアナの気持ちは高揚する。

 すっと筆が離れる。そう思った次の瞬間には、その代わりのように瞼に口付けが落とされた。

「出来ましたの?」

 うっすら目を開き、目の前にいる自分とよく似た顔立ちの男に、レアナは尋ねる。

「ああ、出来た」

「……綺麗?」

「もちろん」

 満足げにラドルフが頷くのを確認して、動いてしまわぬようにと身体に込めていた力を抜く。さらりと長い髪が揺れて、頬の周りを撫でるように動いた。

 それをラドルフはそっと払いのけて、頬に口付ける。そこから耳の傍を通り、首筋に唇が下りてゆく。

「殿下……」

 動きがぴたりと止まった。

「ラドルフと呼べ、そう言っただろう」

「あっ……」

 ちゅっと音をたてて、鎖骨の付近を強く吸われる。

「さあ、レアナ。私は、おまえの、何だ?」

「婚約者、です……。ラドルフ様……」

「その通りだ」

「っ……」

 ふっと笑ったような息がかかり、くすぐったい。レアナが微かに身動ぎすると、ラドルフは顔を上げ、レアナの顎に指を添えた。

「あいしているよ、私のレアナ」

 レアナの唇に彼のものが重なる。(べに)を舐めとるように柔く食まれる。

 唇を離した彼の口元には、べったりとその(あか)がついていた。

 それを舌先で拭う彼は、酷く蠱惑的だった。

 ぞくぞくする――

「おまえは、私のものだ」

 肩をやさしく押され、仰向けに寝かされる。レアナは手を伸ばし、ラドルフの首にその腕をまわした。

「はい。わたくしは、あなたのもの……」

 レアナはもう一度口付けを受ける。

 舌先に残る紅は、ひどく甘い。




 彼は、いつからこれを望んでいたのだろう。

 髪を(くしけず)るラドルフの手の心地良さに、うっとりと目を閉じながら、レアナは考えていた。

 もう何日前になるのか。

 レアナがこの部屋に入る前、二人はよくある、ただの婚約者同士だった。

 恋人だったわけではない。家の利益を考えた政略結婚の縁組だ。

 この国の王子であるラドルフ。

 その相手に選ばれたレアナは、公爵家の令嬢だった。

 政略結婚、といっても仲が悪かったわけではない。元々従兄妹同士であったこともあり、知らぬ相手でもなかった。お互いを尊重しあえる仲で、嫌悪もない。

 だが、それだけ、といえばそれだけ、だった。

「レアナ」

「はい」

「あいしているよ」

 ラドルフはさらさらと零れるレアナの髪の一房に、唇を寄せる。

 こんな甘い声で囁かれるような関係ではなかった。

 レアナの髪から手を離し、立ち上がったラドルフは、素肌をさらすレアナを抱き上げ、続き部屋にあるバスルームへと連れて行く。

 レアナは、ラドルフの裸の胸にすり寄って、目を閉じる。

 甘い気怠さは頭に靄をかけるかのように、レアナの思考を妨げ、考えようとするその気さえもうばってゆく。

 だが、それでもレアナは確かに幸せを感じていた。

 永遠に、この時が続けばよいのに。

 どこか壁があったあの頃に比べれば、今は幸福の絶頂とさえ、言えるかもしれない。



     *



「殿下、素敵な贈り物をありがとうございました」

 レアナとラドルフは、夜会から帰る途中の馬車の中にいた。レアナは昨日に贈られたばかりの、この真っ赤なドレスを撫でながらそう言った。お礼を言いそびれていた事を思い出したのだ。

「いや、よく似合っている」

 紳士然として微笑むラドルフは、揃えの手袋を嵌めたレアナの手を取り口付ける。

「父上に頼んで、腕の良い仕立て屋を探したかいがあった」

「まあ……、では、陛下にも御礼申し上げませんと」

 そうだね、と笑う彼に、レアナも微笑み返す。

 ラドルフは、よほどそのドレスが気に入ったのか、いつもならすぐに離してしまう手を、まだ握っている。

「殿下?」

 不思議に思い、レアナは首を傾げる。だがラドルフは、笑顔を浮かべたままそれには答えず、別の事を言った。

「君には、その色がよく似合う。……不思議だね、私達は顔がよく似ているのに、私にこの色は似あわない」

 容貌、髪や目の色。従姉弟という関係のせいか、レアナとラドルフは本当によく似ている。だが、纏う雰囲気は正反対といってもよく、やわらかい空気を持つラドルフは、白など明るい色がよく合った。

 レアナも苦笑して、頷く。

「そうですね。だから、わたくしも白を着る時は、少しドキドキいたしますの」

「『ドキドキ』?」

 だって、あなたの色だから。

 あなたに抱かれているような気がする。

 レアナは、微笑むだけで口に出しては答えなかった。言葉にするのは、あまりにも恥ずかしすぎる。

 暫く訝しげにしていたラドルフだが、諦めたのかポンと手を打った。

「そうだ。今度、君を招待したい場所があるんだ。……来てくれるかい?」

「あら……、どんな場所ですか?」

 ラドルフは、答えてくれなかった。

 しかし、レアナは何の疑いもなく、その言葉に頷いたのだった。

「……そういえば、お兄様も何かお話があると仰ってましたわ。殿下に関わる事だとか……。何か、お聞きですか?」

「……いや、何も聞いていないな」

 レアナの手を掴むラドルフの手に、ふいに力が籠ったような気がした。



     *



「……ラドルフさま」

 バスルームから出たレアナは、ラドルフに真っ白なドレスを着させられた。

「今も、『ドキドキ』するかい」

「はい」

 まだ、赤く染まっていない唇で、彼の口付けを受ける。

 彼の頭に手をまわし、いつもならば閉じる目を開く。

 目を開いて、レアナはただ、見ていた。

「……っ」

 唇が離れてゆく。

 そして、ラドルフは血を吐いた。

 口からだけではない。腹からも血が流れ、ラドルフの服を赤黒く染めていく。

「お兄様」

 レアナは、ラドルフの背後に立つ人物を見上げた。

 彼は無言のままラドルフに刺した剣を引き抜き、憐れむような目でレアナを見てから、その場を去っていった。

 レアナは崩れ落ちたラドルフの傍に膝をついた。

 真っ白なドレスが、血で染まってゆく。

「ラドルフ様、あなたは気付いていたの?」

「……なにに?」

 掠れた声でラドルフは呟き、また血を吐く。

「今日、お兄様に殺されること」

 ラドルフはそれには答えず、レアナの頬に触れた。手についていた血が、レアナにも映る。

「これは、彼の……私怨?」

 レアナを閉じ込め、好きにもてあそんだ。それが、たとてレアナにとっての幸福であったとしても、周囲から見た時もそうであるとは限らない。

 だが、レアナはゆるりと首を振った。

「いいえ。あなたに甘すぎる陛下が、国を傾けた結果にすぎませんわ」

「そう……」

 国王は、一人息子であるラドルフを溺愛していた。国を傾ける事を厭わぬほどに。

 今頃、国王も最早この世にはいないだろう。

 ラドルフの些細なわがまま、その積み重ねが、公爵家の王位簒奪を決めさせた。

「なら、しかたがない」

 達観したような目で、ラドルフは呟いた。

「ラドルフ様」

 彼がレアナの顔を見上げる。

「……さあ、いつものように(べに)を塗ってくださいな」

 レアナは、ラドルフの(おとがい)を持ち上げて、微笑んだ。

 ラドルフも微かに微笑み返し、レアナに導かれるまま唇を重ねた。

 血の(あか)が、レアナの唇に移る。

「――きれいだ」

 その言葉を呟いたラドルフは、ゆっくりと目を閉じる。

 レアナは眠ってしまった彼に微笑んだ。

「わたくし、あなたに見つめられながら唇に(あか)がのっていくあの瞬間。とても、好きでしたのよ」

 レアナは彼の髪を優しく梳き下ろす。

「ね、ラドルフ様……」

 レアナはラドルフの髪に口付けを落とし、目を閉じる。

「あなたを、あいしていますわ」

 彼を抱き寄せ、背中に手を這わせる。

 紅い雫が、滴り落ちた。

fin.

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