永久(とこしえ)の春

 大陸の北方。空にまで届かんほどもある山の頂にその国はあった。

 ――永久(とこしえ)の冬。

 そんな風にも呼ばれるこの大地が、国と呼べるほどの人々を抱き続けることが出来るのは、ひとえに神の恩寵によるものだとされている。

 神の恩寵、神より授けられし「魔術」を自在に操る魔術師が、この国では非常に多く生まれるのだ。

 そんな魔術師たちが、この国を、国たらしめている。

 厳しすぎる冬の風から、人々を守っているのだ。

 ゆえに、貴族として生まれた者であっても、魔術が発露すれば、魔術師であることを優先させられる。

 王宮に努める魔術師、エフェルもそのうちの一人であった。

 彼の父は、国王の最も近くで辣腕を振るう宰相だ。もしエフェルに魔術の才がなければ、父と同じ道を歩んでいた事だろう。

 もっとも、魔術師として頭角を現すエフェルにとっては、どちらの道にせよ、辿り着くところは同じだったかもしれない。

 すなわち、幼馴染みであり、最も敬愛する主君でもある王子ライゼンベルフの元に仕えるという未来だ。


「エフェル!」

 国には短い春が訪れていた。

 あたたかな風が、銀色をしたエフェルの長い髪を通り抜ける。それを心地よく思いながら、王宮の廊下を歩いていた時のこと。自身を呼び止めるライゼンベルフ――ライの声に足を止める。振り返りながらも紫の瞳には怪訝な色を乗せ、エフェルは目を瞬かせた。

「何ですか?」

「何故、断ったりなんかしたんだ!」

 ライは目に見えて怒っていた。新緑のような緑の目は吊り上がり、気のせいか黄金色の短く整えられた髪は、気の立った猫のように逆立っているようにも見える。

 彼は、エフェルに掴みかからんばかりの剣幕で叫んでいるが、エフェルは何のことか分からず、こてんと首を傾げた。

「……何を、ですか?」

「魔塔行きをだ!」

 彼が怒る理由に合点のいったエフェルは、ふいと視線を逸らす。

 魔塔。

 それは魔術師ならば一度は訪れてみたいと思う、魔術研究の最高学府だ。「永久(とこしえ)の冬」などと呼ばれるこの国を、居住可能にしたのはここでの研究あってのことだ。

 そのため重要機密も多く、立ち入り自体が制限されている。そこに所属できる人間などほんの一握りなのだ。

 魔術師でありながら、それを蹴るなど気でも狂ったか、とライは言いたいのだろう。

「魔塔、ですか」

 事もなげな様子のエフェルに。ライは一層苛立ちを募らせる。

「魔塔ですか、じゃない! お前は何をしたのか分かっているのか!?」

「そう言われても……」

 エフェルとて、魔塔に全く興味が無いわけではない。

 はじめは魔術師になる事を強制されたエフェルだが、まだまだ解明されていない事の多い魔術について知るのは楽しかった。今では自分の天職だとも思っている。だから、()の場所が隠し持つ、秘密の数々を知りたいとは思っている。

 しかしエフェルには、それ以上に大事なことがあるのだ。

 だから、エフェルは少し唇を尖らせる。

「だって、魔塔に入ったら、出てこられないじゃないですか」

「それは……」

 ライは言葉を詰まらせた。

 そう、出られないのだ。

 外出を制限されているわけではないらしい。魔塔のある街は、城下町のように賑わいを見せており、そこに現れる魔術師も少なくないという。

 だが、それでも出られないのだ。

 魔塔に蓄えられた秘密を守るため、一度そこに入った魔術師は、他の、たとえば王宮であっても、所属を変更することは出来ない。

 一度そこに入れば、もう二度と、この場所には戻ってこられない。

「私は、貴方に生涯お仕えする、と決めてるんです。だから、魔塔に行くわけにはいかないんですよ」

「……そうか」

 ライは勢いを削がれ、しゅんとして見えた。

「お前に後悔がないなら、それでいい」

 行くぞ、と言って先導しはじめたライの半歩後ろを歩きながら、エフェルは微笑む。

 彼にそうして心配してもらえるのが、堪らなく嬉しい。こんな日々を続けたいから、魔塔になど未練はなかった。

 だが、心には一抹の不安がよぎる。

 いつまで、こうしていられるだろう。

 ライは、エフェルが今回の話を、「どう」断ったかまでは知らないらしい。

 エフェルは、可能な限り王宮にいたいと言った。しかし、その「可能な限り」がすぐ近くに迫っていることを、魔塔の関係者には仄めかしている。

 エフェルは、ライの髪がひょこひょこと跳ねるのを見つめた。

 この(さま)を、この国に訪れる短くでも穏やかで温かい春のような、そんな彼の姿を、いつまで見ていられるだろう。

「……ライ様」

「どうした?」

 ぽつりと名を呟けば、くるりと軽やかに彼が振り向く。

「――いえ」

 微笑んで首を振れば、訝しげにしながらも彼は、エフェルの歩調に合わせ横並びで歩きはじめた。

「何かあったら、言えよ?」

「はい」

 彼のこんな些細な優しさが、いとおしくてならなかった。




 短い短い春が去り、長い、永い、冬が訪れる。

 降り積もる雪が、世界から色と音とを消していった。

 冬が厳しくなると、人々は外へ出ることを止めてしまう。エフェルも殆ど王宮に留まり仕事をしていたのだった。

 そんな静かな冬のある日、隣国へ送っていた使者が戻ってきた。雪が深くなり、完全に往来か途絶えてしまう間際のことだ。

 エフェルも使者の帰還に居合わせ、ライと共に報告を聞いていた。

 それは、ライの元に隣国の王女が輿入れすると正式に決まったという報告だった。

 周囲は喜んでいた。御年二十を迎えるライの将来がようやく決まったのだから、無理もないだろう。

 しかしエフェルはその雰囲気を、ガラス越しに眺めるような気分で傍観していた。

 本来ならば、一緒になって喜ぶべきなのだろう。もしくは、自分も早く身を固めなければならなくなった、と嘆くべきか。

 だがそれを理解しつつも、周囲に合わせ微笑むだけで、一言も言葉を発する事が出来なかった。

 報告が終わりライの執務室に戻ると、エフェルは彼と二人きりになる。互いに一言も話さぬまま、視線だけが交錯した。お互いに何か物言いたげな顔をしていた。だが、言葉が出ない。そんな視線だった。

 その沈黙を先に破ったのはエフェルだ。

「――おめでとうございます」

 考えた末に出た言葉は、通り一辺倒な祝いの言葉だけだった。沈んだように静かな部屋に、空虚なそれが響く。

 心を伴わない、色のない言葉だった。

 ライは少し目を見開いてから、視線を伏せる。彼は何か考え込むように押し黙った後、おもむろに顔を上げた。

「エフェル」

「はい」

「少し、散歩をしないか」

 冬にですか? そう、普段なら苦笑しながら言った事だろう。

 だがエフェルは「はい」とただ頷いて、ライの後ろを追いかけた。




 外套だけ掴んで出た外は、痛いほどの寒さだった。

 雪が吹き込み白くなった外廊下を、無言のまま歩く。二人でいるにも関わらず、沈黙が痛いのは初めてだった。そんな冷たい沈黙の中で、エフェルはライの動向を気にしながらも、頭のどこかではぼんやりと思考を巡らせていた。

 ついに、この時が来てしまった。そんな言葉が自然と浮かんだ。

 彼は王族、望むと望まざるとに関わらず、いずれは伴侶を得て世継ぎをつくる。

 当然の未来だ。

 それでもエフェルは、本当はずっと望んでいたのだ。

 彼が妻を得ることもなく、自分だけを傍に置き続けてくれる。そんな愚かな妄想を――

「エフェル」

 不意にライの明るい声が耳に入ってきた。彼の方に視線を移すと、声と同じように、不自然なほどに明るい彼の顔が視界に映った。

「結婚、だってさ、俺が。想像つかないよな」

 奥さん可愛いかな。優しいといいな。子供もたくさんほしい。

 そんな明るい未来図が、耳を通り抜けていく。

 エフェルでは、男の身では、彼に絶対にもたらせない、それら。

 自分がもう必要とされていないかのような喪失感に、気が付けば憎しみを感じている。

「――な、そう思うだろう、エフェル」

 彼に悪気はないのだろうというのは分かっていた。それでも、燻ぶった激情がエフェルを突き動かす。

「貴方は……!」

 エフェルはライの胸倉を掴んだ。

 ライはおかしなほど無反応のまま、されるがままになっている。

「貴方は……、私が貴方を、どう思っているか知っているだろう! なのに、なのに……、貴方は私にそんな事を言うのか……!」

 ライの胸元を両手で握り、そこに顔を伏せた。感情の高ぶりのあまり、涙が込み上げる。それが零れてしまわぬように、エフェルは唇を噛み締めた。

 服を掴んだまま震える手に、彼の手が重なる。その温もりがより辛くて、エフェルはライを突き飛ばすように手を離した。

「エフェル」

 何の色もない声がエフェルの耳朶を打つ。

 一瞬の激情が冷めると、なんて事を彼にしてしまったのかと思った。だが、これ以上に何かを言うことも出来ず、俯いて視線を逸らす。

「エフェル」

 もう一度、ライが名前を呼ぶ。

 そして、先ほどのエフェルがしたように、ライはエフェルの胸元を掴み引き寄せる。

「――っ」

 視線があう。

 だが、それは一瞬のことで、エフェルはそのまま廊下から放り出され、雪の上に押し倒された。冷たさが背を這うように上ってくる。

「あ……」

 ライがエフェルの頭の傍に手をついて、覆いかぶさるように覗き込んだ。

「お前の気持ちは、知ってた」

 エフェルの顔がサッと赤らむ。

「――知っていた、からだ」

「え……?」

 普段の明るさが鳴りを潜め、静かな眼差しを向けるライは、酷く美しかった。

「俺が、『幸せ』にしている方が、お前は安心するだろう」

 エフェルは二の句が継げなくなる。

 ライの口から結婚を喜ぶようなあの言葉を聞いたのが、この日でさえなければ。今日のこの、彼の婚約が決まって神経質になっていた今でさえ、なければ。

 確かに、エフェルはライの「幸せ」を喜んでいただろう。少なくとも、表面的には。

「俺は、お前と共には生きられない」

「……えぇ」

 エフェルの望むような意味では、決して共にあることは出来ない。そんなことは、この気持ちに気付く、ずっと前から知っていた。

「俺は、あまりに……、背負わなければならないものが多すぎるから」

 エフェルは頷く。

 知っていた。知っていて、好きになった。それを投げ出さない彼だからこそ、いとおしいのだ。

「でも――」

 ライの声が弱弱しく続く。彼はエフェルの肩口に顔を伏せ、呟く。

「叶うならば――」

 聞き逃してしまいそうに、小さな声だった。

 囁くような声は、エフェルと雪に囲まれて、他の誰にも聞こえない。

「このまま……、お前と共に、雪に沈んでしまいたい――」

「ライ……」

 ゆっくりと顔を上げた彼は、すっとエフェルの喉元を指でなぞった。

「春になれば、もう、お前のものではいられない」

 エフェルはきっぱりとそう告げるライの頬を、そっと両手で包む。

「お前は、王宮を出ろ」

 喉を辿っていた指が、不意に止まって、そこに力が籠められた。

 王宮を出ろ、と言葉では言いながら、この瞬間を永遠にしたいと願うような彼の視線に、かなしくなる。

 徐々に息苦しさを感じていた。だが、恐ろしくはなかった。

 いや、このまま縊り殺されたいと、心のどこかで思っていた。

 ふ、と喉の圧迫が緩む。

 エフェルはライの目元を親指でなぞった。

「私は、魔塔に行きます」

 彼を見上げ、エフェルは困ったように笑った。

「そして、この国を『永久(とこしえ)の春』にします」

 雪に沈んでしまいたいと、貴方が言えないように。




 長い冬を越え、春が来る。

 美しい姫の輿入れに、王都だけでなく、国中が沸き立っていた。それは魔塔も例外ではなく、空気が澱んなような雰囲気のこの場所も、珍しく華やかな空気がある。

 国の未来は明るい。

 誰もがそう感じている。

 それは、その少し前に新しく魔塔入りしたその魔術師も例外ではない。

 むしろ、誰よりもその事を確信していた。






 後の賢王ライゼンベルフが王妃リゼリアーナと婚姻を結んだこの年は、奇しくも「春の使い」とも呼ばれる魔術師エフェルが魔塔入りした年でもあった。

 この年より、ライゼンベルフが亡くなるまでの十五年ほどを「春の時代」と呼ぶ。

 それは、翌年のライゼンベルフ即位の年から、春が例年の数倍に伸びたからである。魔塔は詳細を不明としているが、エフェルの魔塔入りと無関係ではないだろう。

 しかし、この「春の時代」も十五年ほどで訪れた、エフェルの死により終わりを告げる。そしてこの年は、ライゼンベルフの崩御年とも同一だ。この不可思議な一致を見せる二人に、奇縁を感じる歴史家も少なくない。

 だが、両者ともにこの年以前の動向が判明していない。エフェルが宰相家の生まれだとする史料はあるものの、信憑性は疑わしく謎は深まるばかりである。

 しかしこの十五年はまさに、ライゼンベルフとエフェルの時代と言えるだろう。

 彼の国を、永久(とこしえ)の冬と呼ぶ事になぞらえて、この時代をこう呼ぶ者もいる。

 ――「永久の春」と。

(完)

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