(いかづち)の金

 その日は朝から酷い雨が降っていた。

 空は見渡す限り黒い雲に覆われ、雨音は周囲の一切の音をかき消している。

 雨に打たれ、美しい装束を身に纏った少女は、ずぶ濡れのまま空を見上げていた。

 黒い雲の間に稲妻が奔る。

「龍神……」

 その光の筋は、今から彼女がその身に降ろそうとしている、神の姿にも見えた。

 その光が、少女の頭上で光る。

 ――龍神様が、降りてきた。

 全てを壊しつくすような音と共に、少女の元へ一筋の光が落ちていった。




 大陸の中央には、神に守られし国がある。

 その国では代々、少女を依代に龍神が降臨し、人々を守護していた。

「神の国」と呼びならわされるその国で、依代となる少女は、大切に、大切に、王宮の奥深くで傷一つつかぬように育てられる。

 鈴麗(りんれい)もその一人だ。

 いや。正確には、ほんの少し前までは、その一人だった。

 ほんの少し前――満月の夜。その日は酷い雨の中、神降ろしの儀が行われていた。

 十年に一度程の間隔で行われるそれは、鈴麗のような少女が、龍神をその身に宿すためのものだ。

 その儀式を終えた依代は龍神と同化し、現人神となる。その証拠として、髪は銀に、瞳は金に変化する、はずだった。しかし、儀式を終えたはずの鈴麗の目や髪は、この国で一般的な黒いのまま。

 そして、右腕には黒い稲妻のような痕が残されていた。

 ――神降ろしの儀は失敗したのだ。

 鈴麗は人気のない庭の隅で小さくなりながら、静かな池の水面を眺めていた。その手は黒いままの髪を、くるくるといじっている。

 あの時、確かに龍神が降りてきたと、鈴麗は感じた。

 しかし、閃光に焼かれた視界が戻ったあと目にしたのは、落胆、いや失望した、周囲の視線だった。

 その瞬間から、鈴麗の居場所は消失した。

 龍神を降ろせなかった事で、人々はどんな災禍が訪れるかと恐怖している。鈴麗への態度も、明らかに変質した。

 だが、物心ついた時には既に依代となるべく育てられていた鈴麗は、どこへ行くことも出来ない。

 鈴麗は右手をぎゅっと握る。

 腕から手の甲まで大きく走る黒い痕は、自分の不出来さを象徴のように見え、叶うならば消し去ってしまいたかった。

 たとえば、腕を斬り落としてでも。

 だがそんな勇気もなく、鈴麗は手袋をはめ、それを視界から消し去る事しか出来ない。

 涙がほろりと零れた。

 気を抜くと、すぐに流れ始めるそれは、鈴麗を一層惨めにさせる。

 その時、背後にあった垣根がガサリと動いた。鈴麗はビクッと肩を跳ね上げさせ、おそるおそる振り返る。

 そこには鈴麗より少し歳上に見える青年が立っていた。彼は目を丸くして、こちらを見ている。

「――龍神」

 ぽつりと呟かれた言葉に、鈴麗は思わず立ち上がる。

 神降ろしに失敗した鈴麗を見て、「龍神」と呼ぶなど、何たる皮肉だろう。

 鈴麗はそれに怒りを覚える事すら出来ない程、傷ついていた。

 この場にいる事すら出来そうもなく、走り去ろうとする。

 しかし、何故か青年が慌てたように声を上げた。

「待っ――!」

 その言葉を言い終わる前に、鈴麗の足が空を切る。

 え? と思う間もない。鈴麗は体勢を崩し、次の瞬間には、派手な水音を立てて池に落下していた。

 幸いな事に浅い池だったため、溺れる事はなかった。池の底に手をつき、鈴麗は目をぱちぱちと瞬かせる。落ちた時に跳ね上がった水で、全身はぐっしょりと濡れていた。

「大丈夫か?」

 その声に振り返ると、先程の青年が困り顔で手を差し伸べていた。

 差し出されるその手と、彼の顔を見比べる。

 手を差し伸べてくれる人など、もうどこにもいない。鈴麗はそう思っていた。

 青年に他意はなかっただろう。

 だが鈴麗には、その手がどうしようもなく嬉しかった。

 池の水でない雫が、頬を濡らす。

 突然泣き始めた鈴麗に、青年は困惑の表情を浮かべた。

 鈴麗は、早く泣きやまなければと思いつつも、零れる涙を抑えることが出来ない。

 ぐすぐすとしていると、青年の溜息が聞えた。

 呆れられてしまったのかもしれない。このまま放っておかれるのでは、と鈴麗は俯く。

 しかし、ぱしゃんと水が跳ねる事が聞こえ、顔を上げた。

 いつの間にか裸足になった彼が、池の中に立っている。

「怪我はしてないか?」

 鈴麗は目を丸くし、どうにか頷くと、青年も頷き返して笑顔を見せた。

「なら、ちょっと失礼」

 そう言って彼は、鈴麗を軽々と抱き上げると、池を出て地面に降ろしてくれた。

「あ、あの……」

 青年は、ずぶ濡れになった衣を軽く絞る。それから、服の袖で鈴麗の顔についた水滴を拭った。

「すまない、驚かせた」

「えっと、あの……」

「今日は、帰った方が良い。風邪をひいてしまう」

 彼は、鈴麗の手を引いて立たせた。

 言われるままに、鈴麗は数歩足を踏み出す。しかし、どこか立ち去り難く思い振り返ると、彼は笑顔を浮かべたまま、まだそこに立っていた。

「あの、……あなたのお名前は?」

「ろ……、いや、柳淵(りゅうえん)、と」

「また、会えますか」

 名前を聞いても、誰だか鈴麗には分からなかった。

 鈴麗は、彼が頷いたのにほっとして、その場を後にした。




 それから毎日、鈴麗は柳淵と出会った場所へと足を運んだ。

 彼も度々そこに現れ、自然とそこで集まるような習慣が出来ていった。ついこの間が初対面だったとは思えない程、二人の距離は急速に縮まっていた。

 しかし、そんな中でも自然と、共に避けていた話題がある。

 互いの身分について、だった。

 会話をする中で、ある程度は互いに推測が出来ていたように思う。鈴麗は彼を、地位の高い文官だと思っていた。だが自身は、龍神に仕える女官だという振りをしていた。

 儀式に失敗した出来損ないの依代だと、彼にだけは、知られたくはなかった。

 しかし今日は、そんな鈴麗の胸をざわつかせる話題が飛び出した。

「――今日は、満月だな」

 人目を避けるように、庭の片隅で二人は並んで座っていた。

 会話が途切れた時、柳淵はふと空を見上げてそう呟いた。

 空はまだ青く、月はまだ見えない。だが鈴麗は顔を跳ね上げる。嫌な音を立てる心臓を抑えながら、彼の言葉を待つ。

 今日は鈴麗が「出来損ない」となってから丁度、一月(ひとつき)が経つ日だった。

 龍神を降ろすのは、満月の夜と決められている。

 本来なら今晩、失敗した鈴麗の代わりに、未だ齢が十にもならぬ次の依代が、再度儀式を行うはずだった。

 しかし時間や場所を決める占術の結果、今宵は相応しくないと判断され、儀式は延期されたのだ。

 それを聞いた皆が鈴麗に「お前が失敗しなければ」と思っている事は明らかだった。

 鈴麗は、無意識に右手の甲を握りしめる。

「君は依代についてどう思う」

 柳淵からの突然の質問に、目を瞬かせた。意図をはかりかねて、首を傾げる。

 柳淵は、どこか遠くを見つめ、鈴麗の答えを待たずに口を開いた。

「依代は、神をその身に宿した時点で、人ではなくなってしまう。現人神となった依代が、十年程で交代するのは、神の力に依代の――、人であった依代の身体が耐えられないからだ」

 鈴麗は何を言う事も出来ず、黙り込んだ。

 柳淵の言うことは正しい。

 龍神を身に宿した依代は、人ではなく神になる。髪の色や目の色が変わるだけでなく、人として当然のものがなくなってしまうのだ。

 老化がなくなり、食事も必要とせず、感情も希薄になる。そして、その使命を終えるその瞬間も、死体すら残らず消えてしまう。

 依代自身の自我がどこまで残っているのかさえ、よく分からない。

「ですが、柳淵様。龍神様がいらっしゃらなければ……」

 具体的にどうなる、という記録や記述があるわけではなかった。ただ、漠然と皆が不安に思っている。

 そして、その原因が己にあるのだと思うと、鈴麗は世界中で、ひとりぼっちになってしまったかのような恐怖を覚えた。

「――本当に、依代は失敗したんだろうか」

「え?」

 どういう事……?

 しかし、問い返すように首を傾げても、彼は黙って微笑むばかりだった。




 鈴麗は慣れぬ王宮を、案内人に導かれ歩いていた。

 依代としての衣装とはまた違う、豪奢な衣服を着せられ、無言のまま歩を進める。

 これから鈴麗は、第一皇子の(せい)と会う事になっていた。

 役立たずの依代を、それらしい理由で追い出すための、縁談だった。

 初対面の人間と結婚するという事に、鈴麗も抵抗はある。しかし、今はおかしなほどに心が平坦だった。

 もう、どうでもいい。

 そんな気持ちしか湧いてはこない。

 鈴麗は目を伏せて、数日前の事を思い出した。


 その日も、いつものように柳淵と会っていた。

 どういう話の流れだったのか。彼は鈴麗の右腕に目を留め、それを覆う手袋をとって欲しい、と言った。

 鈴麗は当然拒否し、依代と知られてしまったのかもしれないという恐ろしさに震えた。

 その恐怖から逃げようとしてか、思わず立ち上がり、数歩後ずさった。そして、いつかのように池に落ちてしまったのだ。

 しかしその後は、あの時と違った。

 同じ池であったはずだというのに、底につく事はなく、鈴麗はどんどんと水の中へ引きずり込まれていった。

 なすすべなく落ちてゆくのを助けたのは、おそらく柳淵だ。その時すでに、意識を失いかけていた鈴麗だったが、霞む視界に小さく彼が見えたから、きっと間違いない。


 柳淵に助けられるのは、嬉しかった。

 だが、今の鈴麗を気落ちさせているのは、そのせいでもある。

 あの後すぐに意識を失ってしまった鈴麗の右腕を見ることくらい、彼には造作もない事だったのだろう。

 そして、彼は鈴麗が依代だと知ってしまったに違いない。

 それを証明するように、あの日以来、彼があの場所へ姿を現す事はない。

 柳淵に嫌われてしまった。

 それが鈴麗を酷く気鬱にさせていた。

 そしてもう一つ、鈴麗には気がかりな事もある。

 鈴麗は、そっと右腕を掴んだ。

 水に沈んだとき腕に走った、肌の下を何かが蠢くような感触。

 あれは、何だったのだろう。

 まるで、傷痕が蛇のように動いたようにも感じた。あれは一体――

「こちらです」

 案内人の声が聞こえ、鈴麗は我に返った。扉を指し示される。

 その扉近くまで歩み寄ると、恭しくそれが開かれた。

 部屋の中には一人の男が座っており、こちらの姿を認めると、立ち上がって微笑んだ。

 一瞬、不思議な既視感を覚える。

 しかし、それは本当に一瞬の事で、その感覚はすぐに霧散した。

「鈴麗様。この度はご足労いただきまして、ありがとうございます。清と申します」

「お初お目にかかります、清王殿下」

 部屋の扉が閉じられると、皇族である清の護衛数人を除き、ほぼ二人きりといってよいような状態になる。

 何を話したらよいのか分からず、鈴麗は手持ち無沙汰に、用意された茶を啜った。やはり緊張しているのか、茶の水面が微かに波立っている。

「緊張なさっておられますか?」

「え、っと……、はい……。正直に申し上げれば……」

 どうにか零さずに茶器を卓に戻し、清に微笑む。少し口元が引き攣っている気がした。

「そんなに構えなくても大丈夫ですよ。私は皇族、といっても継承権も低い末席の人間ですし」

「……とは、仰いましても」

 清の言葉は一部真実ではあった。だが、末席などとはとても言えない。文官として頭角を現しはじめた彼は、これから長く王の治世を支えていく人物の一人だ。

「あの……」

 鈴麗は何を言えば良いのか分からず口籠る。清はそんな鈴麗を安心させるように微笑んで、右腕に視線を走らせた。

「鈴麗様、お怪我をなさった、と伺いました。もう、お痛みはありませんか?」

 彼は、はっきりと言葉にはしなかったが、あの儀の時に負った傷の事を言っているのは明白だった。

 だが、彼に馬鹿にするような空気や、蔑むような視線はなく、鈴麗は素直に答える。

「痛みは、元からございませんので」

 だから大丈夫だと言うと、清は表情を緩めた。

「それは、よかった」

 鈴麗はそれを、意外な気持ちで見つめる。

 まるで、心から私の事を案じてくれていたみたい……。

 もし、このまま婚姻を結んだとしても、彼となら。

 そんな気持ちが心にふっと湧きあがる。

 だがその時、急に扉の外が騒がしくなった。鈴麗がそちらの方を向くと、何故か清は肩を竦めた。

「兄上!」

 はじめは誰か分からなかった。

「兄上」という言葉から、皇子の誰かだろうと思った程度だ。

 しかし、部屋に入ってきた男の顔をよく見たあと、鈴麗は固まった。

「柳淵、様……?」

 息せききって現れたのは、柳淵その人。

 鈴麗が意味の分からぬ状況に、助けを求めて清を見る。彼は柳淵を見つめ、すっと目を細めた。冷たささえ感じるその視線のまま、清は柳淵に問いかける。

「これは、如何なされました――太子」




 太子。

 この国では、世継ぎの皇子に与えられる呼び名だ。

 唯一皇后を母とする第五皇子、(ろう)

「太子」と呼ばれる人物は彼だけだ。

 柳淵様が、「浪太子」だと言うの……?

 鈴麗は混乱する頭のまま、ただ、二人のやり取りを見守るしかできない。

 だが「依代」という言葉が、かろうじて鈴麗の耳に残る。自分が関係しているのかと驚いて、つい口をはさんだ。

「あ、の……、何の話を、なさっているのですか……」

 鈴麗が声を上げると、清は困った顔をしてこちらを見た。

「清王様、私は……」

「ごめんね」

 清が謝罪だけ口にして、部屋を出て行く。

 彼を引き留めようと、鈴麗の足が動いた。しかし、その一歩を踏み出す前に、手首を取られ動く事が出来なくなる。

 誰が手首を掴んだのか、鈴麗には見ずともそれが分かっていた。だから、抵抗することなく立ち止まる。

「……、」

 鈴麗は口を開こうとして、失敗した。何か言いたいことはあるはずなのに、何も言葉が出てこない。振り向く事も出来ず、鈴麗はただ黙って、彼の言葉を待った。

 おそらく大した時間は経っていなかったのだろう。だが、永遠にも思えるほどの長い時間が経ったような気がした後、彼が小さく息をつく。

「貴女は……」

 掴まれていた手が、微かに震えてしまった。酷く他人行儀な「貴女」という呼びかけが、鈴麗の胸を詰まらせる。

 動揺が伝わったのか、彼の言葉も一瞬だけ途切れた。

 しかし、言葉はすぐに続いた。

「貴女には、私の……太子浪の、妃になって頂きます」




 自室に戻った鈴麗は、ふらりと寝台に倒れこんだ。

 意味が分からない。

 寝台から顔を上げる気にもならず、溜息をつく。

 妃になれと言われたあと、震える声で、何故と尋ねた。

 鈴麗自身、どんな答えを予想していたのか分からない。しかし、「貴女が依代であるから」と彼が答えた時、鈴麗は確かに落胆したのだ。

「どうして……」

 敷布の隙間から、呻くような声が漏れる。

 心の中はぐちゃぐちゃだった。

 言葉として浮かぶのはただ一つ。

 どうして、鈴麗、と呼んでくれないのだろう――

 ほんの少し前まで、二人の間にあった繋がりが、ぷつんと途切れてしまったような寂しさを感じる。鈴麗と柳淵の間にあったものが、依代と太子の間には、ない。

 鈴麗はぎゅっと拳を握りしめる。

 期待、していたのだ。

 彼が「鈴麗」を選んでくれたのではないかと。

 だが、彼が求めたのは「依代」。

 どういうつもりで、出来損ないを妃にするのかは分からなかった。それでも、彼が望んでいたのが依代という器に過ぎない事に、鈴麗は打ちのめされていた。

「柳淵様……」

「鈴麗」を求めてほしい。

 彼に対して、特別な想いを胸に抱いている。

 鈴麗はようやく、その事に気が付いたのだった。




 鈴麗の婚姻は、実にひっそりと行われた。

 あの日から数ヶ月、彼と顔を合わせる事もなく、気が付くと身繕いをされ寝台に放り込まれていた。

「依代」を求めていたのなら、鈴麗はこのままお飾りの妃として放置されるのかもしれない。このまま死ぬまで、ここで独り生きていく。そんな未来が浮かんで、不安に駆られる。

 だが、思えばそれは依代であった頃と何も変わらない。そう思えば、多少は楽になるかと考えてみる。しかし、胸の苦しさはどうにもなってくれなかった。

 いたずらに期待させられるくらいなら、いっそもう、放っておいてほしい。

 そう思った時、ふっと空気が動いた。

 扉が静かに開く。

 鈴麗は寝台の上でじっと座ったまま、それを凝視する。

 扉を開けたのは、思った通りの人物だった。

 視線が絡む。

 一瞬だけ、互いに互いを見つめ合った。

 彼が部屋に足を踏み入れるのを見て、鈴麗は金縛りが解けたように息をはく。そして、手をついて頭を下げた。

「太子、様……」

 言葉が続かない。気が付くと手が震えていた。何が恐ろしいのか、頭を上げる事もできない。

 ただじっと、審判を待つような気持ちで鈴麗は頭を下げ続けた。

 彼がふぅと息をつく。そんな些細な動作にも、鈴麗の肩が跳ね上がった。

 彼が近付いてくるのを、気配で感じる。鈴麗のすぐ近くに、彼は腰を下ろした。

 鈴麗はきゅっと目を瞑る。

 するとその頬に、するりと指が触れた。

「――鈴麗」

 そのやわらかな声に、鈴麗は目を見開いた。彼の指がすりと頬を撫でる。鈴麗はゆっくりと顔を上げた。

 彼は、「私」を、見てくれている――

「……柳淵、様」

 自然と零れ落ちた彼の名に、柳淵がふっと微笑むと、もう駄目だった。

 視界が滲む。

「りゅうえんさま……」

 彼の手が背にまわると、引き寄せられるように鈴麗はその胸に身を寄せた。

「どうして、私を……」

 頭をもたれさせ、彼の鼓動を聞きながら呟く。

 聞きたい事は沢山あったが、口をついて出たのは、この問いだけだった。

 同情心だろうか、しかし冷静に考えれば、それだけの理由で周囲を納得させられるわけがない。

「……理由の一つ、としては」

 柳淵が、鈴麗の右腕を撫でた。

「君が、神降ろしの儀を失敗したのではない、と思っているからだ」

「……え?」

 失敗した、のではない?

 鈴麗は目を瞬かせた。

「君にはじめて会った時、私には君が、龍神に見えた」

 その日の事を思い出してみる。

 確かにあの時、柳淵は鈴麗を見て、「龍神」と呟いていた。

 一体、あの時、彼は何を見ていたのだろう。

「――だから、君はその身体の中に、龍神を……同化する事なく、宿しているのではないか。そう、私は思っている」

 龍神を身体に宿している。

 鈴麗は、肌の下を何かが蠢く感触を思い出した。

 だが、あれは本当の出来事だったのか、今更になって不安になる。柳淵が見たものも、何かの錯覚かも知れない。

 もし、彼の予想が外れていたら――

「私は、失敗、したんです。そんな……あるかどうかも分からないような理由で――」

 鈴麗はそうなった時、彼に失望されるのが恐ろしくなった。

 そうなる前に、離れてしまいたい。

 柳淵の胸に手を置いて、距離をとろうとする。

 しかし、柳淵はそれを許さず、鈴麗を引き寄せた。

「鈴麗」

 離れようとしていた手から力が抜ける。

 彼に名前を呼ばれると、どうしてこんなにも弱くなってしまうのだろう。鈴麗は抵抗しきれずに、また彼に身を預けた。

「もう、恐れなくていい。私が君に隣にいてほしかった一番の理由、本当は分かっているんだろう?」

 柳淵の服をぎゅっと握る。

 愚かな期待だと、見ない振りをしたものを、もう一度信じてもいいのか。それが分からず不安になる。

 その不安を融かすように、柳淵の手が鈴麗の背を撫でた。

「もう、私達は独りじゃない」

 一度止まったはずの涙が、ほろりと零れる。

 鈴麗は柳淵の胸に顔を伏せて、小さく、だがしっかりと頷いた。




「――だから、母様と父様は、いっつも仲良しなんだね」

 鈴麗はふふと微笑んで、布団にもぐった愛しい息子の身体を、あやすようにぽんぽんと叩く。もう目がとろんとしていて、すぐに眠ってしまうだろう。

「さぁ、もう寝ましょう」

「ん……」

 息子はこくんと頷いて、目を閉じるとすぐにくぅくぅと眠ってしまった。

 程無くして、そろりと部屋の扉が開く。

「もう、寝てしまったか?」

 足を忍ばせ入ってきたのは、柳淵だ。

「はい。だから、起こさないでくださいね」

「……仕方がないな」

 鈴麗はそろりと立ち上がると、柳淵の方へ振り返って手を伸ばす。柳淵も鈴麗を抱き寄せた。

「お仕事、お疲れ様です」

「ああ。ところで、何の話を?」

「あなたが、どれだけ私を大事にして下さっているかについて」

「確かに、大切にしているつもり、ではあるけどな……」

 鈴麗は柳淵を抱きしめる腕に力を籠める。

 今、その右腕に黒い傷痕はない。

 それに気付いたのは、後ろで気持ち良さげに眠っている息子の出産後の事だ。

 鈴麗と柳淵は、微笑みあって腕を解くと、寄り添いあいながら愛する息子の寝顔を覗く。

 眠っている今は、ただの子供と変わりなく見えた。黒い髪に、柳淵によく似た顔立ち。

 鈴麗は息子の顔にかかった前髪を、そっと払いのけ、そのまま目元に指を滑らせる。

「これが、この子の幸いになれば良いですね……」

 今は目蓋で見えないその瞳。

 その色は鮮やかな、金。

 人ではありえないその色は、依代が龍神を宿した時の色と全く同じだ。

 鈴麗から消えた傷痕と、この瞳を見れば、柳淵が言った儀が失敗していないという仮説は正しかったのだろう。

 今は只人と変わった様子はないが、今後どんな風になっていくのか、鈴麗には予想もつかない。

「きっと、大丈夫だ」

 柳淵が揺るぎない声で言う。

「この子は私達の子なんだから」

 そうだろう、と柳淵が微笑んだ。

 彼が言うと、疑いなく信じられるから、不思議だった。

「そうですね」

 鈴麗は柳淵に微笑み返して、息子のやわらかい頬を、ふにとつついた。

(完)

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