クリムトの調べ

 泣き声が聞こえる。

 のりこ、のりこ、という、必死の母の声が聞こえた。

 何が、あったんだっけ。

 酷く身体が重い。

 こんなところで、寝てる場合じゃないのに。

 一週間後には、コンクールが――




 暖かい春の風が、頬を掠めてゆく。

 朗らかな春の陽気とは正反対の重苦しさで、元原(もとはら)紀子(のりこ)は溜息を吐いた。新学期がはじまり、早くも一週間が経とうとしている。だが、気の重さは増すばかりであった。

 紀子は一年ほど前、交通事故に遭った。

 歩道を歩いていたにもかかわらず、不運にも脇見運転の車に撥ねられたのだ。共にいた母の泣きそうに呼ぶ「紀子」という声が、今もその耳にこびりついている。

 その車には、何人かが同じように撥ねられたが、幸いにも死者はでなかった。しかし、それは結果的に、という話だ。実際紀子は数日間生死の境を彷徨い、日常生活に著しい影響を及ぼす後遺症がなかった事が、むしろ不思議なくらいだった。

 ようやく目を覚ました時に聞いた母の噎び泣く姿は、今でも忘れられない。だが、それでも、紀子は思ってしまう。

 あの時、死んでいればよかったのに――

 あの事故は、紀子の生活を一変させてしまった。

 それは、紀子の命こそ奪わなかった。だが、彼女にとって、命よりも大事なものを奪い去ってしまったのだ。

 紀子は、ふと顔を上げた。

 目の前には、紀子の在籍している高校、「芸術総合学院」高等部の校舎がある。名前の通り、芸術――美術や音楽など、の専門課程が多く存在する学校だ。

 その中の、音楽科の誰かだろう。遠くから、微かにピアノの音が聞こえた。

 途切れ途切れに聞こえる音色。それが、紀子の耳に流れ込んでくる。

「……っ!」

 途端に、心臓を掴まれたかのように苦しくなった。紀子は耳を塞いで、踵を返す。

 聞いていられなかった。

 うらやましい、うらやましい、うらやましい――!

 嫉妬のような、羨望のような、だがそんな言葉では言い尽くせないような真っ黒な感情が、紀子の胸を埋める。

 紀子は、ピアニストになりたかった。

 だがその夢は、無情にもあの事故が奪い去っていったのだ。

 痺れて上手く動かなくなってしまった右手。今も、そこには大きな傷が残り、見るたびに紀子の精神を蝕んでいく。

 将来を嘱望され、音楽科の中でも一目置かれる存在。それが紀子だった。物心ついた時には音楽に触れ、ピアノは生きがいであり、人生そのものだったのだ。

 右手に障害が残ると聞かされて、自殺を何度考えたか紀子はもう覚えていない。家族の「生きてくれ」という願いがなければ、とっくの昔に紀子はこの世から消えてしまっていたに違いなかった。

 生きるという選択をせざるを得なかった紀子は、一縷の望みをかけて、辛いリハビリを乗り越えた。

 またもう一度弾ける日が来ると、信じていた。

 だが、その願いが叶う事はなかった――

 紀子はこの春、ようやくにして一年に及ぶ療養生活を終え、学校へと戻ってきた。

 だがピアノを失った紀子が、音楽科に戻れるはずもない。

 紀子は普通科の生徒として、さらに、入院が一年に及んだ事により、一学年留年していた彼女はもう一度二年生として、再び学校の地を踏んだ。

 初めて接する普通科の生徒達。その上、周りと歳が違う自分。その中に放り込まれた紀子は、その中に馴染むことが出来ずにいた。

 殆ど例がない転科。その上、留年と、紀子はさながら珍獣のようであった。皆が遠巻きに、好奇の目を向ける。

 それまで、同じ夢を追う者達の中で、一種尊敬の様な気持ちで見つめられてきた紀子にとって、それはとても耐え難いものだった。

 教室での紀子は、息を潜めて時が過ぎるのをただ待つ。ピアノを取り上げられた紀子は、何をしたらよいのかも分からず、途方に暮れた。

 授業時間中も紀子にとっては苦行の場に等しかったが、放課後はまた違う理由で辛い時間となった。

 かつての級友である音楽科の生徒達は授業が終了した後、皆が各々自主練習に励んでいる。その音が嫌でも耳に入っては、その場にいられない疎外感と、彼等のようになれない悔しさとで、胸が痛んだ。

 それでも、紀子が真っ直ぐ家に帰る事はなく、放課後は大抵、校内を彷徨い歩いていた。

 家には、なるたけ帰りたくなかったからだ。

 帰っても、息が詰まる。

 抜け殻になった娘を扱いかねている父。目の前で娘を失いかけて一層過保護になった母。そして、音楽で溢れた家は、その場にいるだけで紀子には辛かったのだ。

 特に今日は、あの事故について思い出していた時に、ピアノの音を聞いてしまった。そのため、一層神経質になっていたのだ。耐え難い胸の痛みに突き動かされるように、紀子は人気のない廊下を滅茶苦茶に走った。

 耳を塞ぎ、俯いて、彼女は走る。いつ校舎に入ったのかさえ、紀子は覚えていない。ただ、音から遠ざかろうと廊下を駆け抜けた。

 そして、いくつめかの角を曲がった、その時――

「きゃっ!」

 ドンと何かにぶつかる。

 バランスを崩しかけた紀子は、あまりに急の事で踏ん張りもきかず、地面に倒れそうになった。

 だが、そうなる前に、彼女は何かに抱きとめられたのだった。

「大丈夫?」

 頭上から降るのは、優しげな男の声だった。

 不思議に思って紀子が顔を上げると、そこにいたのは見覚えのない若い男だった。制服を着ていないので、学生ではないようだ。こざっぱりした爽やかな姿に、紀子は好感を持つ。そして、何より。

 いい声の人……。

 紀子は陶酔するように目を閉じる。高くもなく低くもない、その柔らかな声は、いつまでも聞いていたいような心地良さがあった。

「……どこか、ぶつけた?」

 ぼぅっとしていた紀子は、彼の訝しげな声にはっとして慌てて身を起こす。

「あ、いいえ! 大丈夫、です」

 紀子がその男から一歩下がり、しっかりと立ったのを見届けると、不安げに顔を曇らせていた男も表情を和らげた。

「ところで……、君は学生さん?」

「は、はい、そうですけど……」

 男はしげしげと紀子の顔を見つめ、首を捻る。じっと見つめられ、紀子は少しどきっとした。

「顔色がすぐれないようだけれど……。大丈夫?」

「あ……」

 紀子は思わず頬に手を当てた。初対面の人に見破られる程、顔に出ていたのだろうかと、少し恥ずかしくなる。

 実際、この一年間の事が思い出されて、気分が悪かった。しかし、健康状態に問題があるというわけでもなく、紀子は曖昧に微笑んだ。

「えっと、多分……大丈夫です」

 そう答えたものの、すっきりとしているわけではないと、彼は見抜いたのだろう。少し、休める所に行こうか、と言って、紀子の手を引いて歩きだした。




 「第5美術室」と書かれた、誰もいない教室のドアを潜る。

 男は紀子を手近な椅子に座らせると、その部屋の窓を開けた。美術室がある区画は、元々音楽科だった紀子には縁のない場所で、場所も遠く、ピアノの音も聞こえない。彼が窓をいくつか開けると、空気が一気に入れ替わった。澱んでいたものが取り払われたような気がして、気持ちがよい。

 紀子は、ようやく詰めていた息を吐き出した。

「こんな所で、ごめんね」

 彼は紀子の傍へ同じように腰を下ろし、紀子の顔色を窺う。

「あの、美術科の方……、ですか?」

 美術室に我が物顔で出入りしているのだから、きっとそうに違いない。科が違えば、生徒同士は勿論、先生の顔も分からなかった。

「一応、そうだね。君は?」

 一応、という言葉に首を傾げながら、紀子は名乗った。

「えっと、私は音……、普通科二年の元原紀子です」

 紀子は「音楽科」と言いかけて、慌てて訂正する。もう、音楽の世界に身を置いていない事をまざまざと思い知らされたような気がして、苦しくなった。彼は、紀子の言いかけた言葉には気が付かなかったのか、そうなんだとだけ返す。

「あの、一応、って……?」

「ああ……、僕は日曜講義の講師だから……」

 それを聞いて、紀子は納得した。

 日曜講義、とはこの高校で定期的に開かれる特別授業の事だ。外部の人間を招いてノウハウを教えてもらう、という目的のもので、基本的に自由参加の講義だった。

 音楽科に在籍していた頃の紀子も、そこで開かれていた講義に顔を出した事が何度かある。

 日曜講義の講師は、毎週決まった人を招いている場合も多い。目の前のこの先生も、そんな人々の一人なのだろう。彼らは非常勤講師、とも言えぬ微妙な立ち位置だった。

「美術科の塚本(つかもと)先生の勧めで、今年から、ね……」

「じゃあ……、先生も油絵専攻?」

 塚本先生というのは、畑違いの紀子でも聞いたことがあるような、油絵の巨匠だった。普段はこの学校の大学部で教鞭を取っており、時折、高等部にも顔を出しているらしい。

「うん。ここの大学部時代の恩師で……」

 この先生は、塚本教授の紹介という事もあり、学校では少々特別扱いされているらしい。この第五美術室も、普段滅多に使われていない部屋で、ほぼ彼専用のように使わせてもらっているのだという。

 そんな彼だが、彼の本業は大学院生であるらしい。この学校の大学部を卒業した後、別の大学院に進学したのだと、先生は語った。

「ねえ、先生。先生はどんなものを描くの?」

 紀子がそう尋ねると、彼は少し困ったような顔で微笑んだ。照れているのかもしれないと紀子は思ったが、逡巡していた彼はやがて「見る?」と小首を傾げる。

 紀子が大きく頷くと、彼も頷き返して立ち上がった。そして、廊下に出るものとは違う扉の鍵を開けて、その先に消えてゆく。準備室のようで、鞄か何かをそこに置いていたのかもしれない。

 紀子が暫く待っていると、小さめのスケッチブックを手に先生は戻ってきた。

「少し、前のものだけれど……」

 差し出されたそれを受け取り、紙をめくっていく。それの殆どが、静物画のデッサンだった。

 ブドウやミカンのような果物、一本だけ倒れた三本のビールの空き瓶、積みあがったハードカバーの本に、水の入ったグラスなど、描かれている物は様々だった。だが描かれているのは物ばかりで、人物の描かれたページは一ページもない。

「先生は、静物画を描くの?」

「……いや、あまり見せられそうなものが、なくて。それも……、練習なんだけれど」

 ふうん、と返しながら、紀子はページをめくっていく。

 そして、その最後のページで、その手が止まった。

 そこには石膏のヴィーナス像を描いたと思しき絵があった。かの有名な、両腕が欠損しているヴィーナス像、そのレプリカだろう。

 紀子は、それに魅入られるように、じっとその絵を見ていた。

 まるでその場にあるかのような、リアルな質感が見て取れた。

 いやこれは、石膏像としての「リアル」ではない。

 それは、女だった。

 半裸の女が、そこにはいた。

 腹の筋肉、胸の膨らみと、腰布を押し上げる太腿の脚線美が、紀子の背筋にぞっと悪寒を走らせる。

 紀子は、そっと目だけで眼前の男を見上げた。

 この男が本来描くのは、静物画ではない。紀子はそれを悟った。

 その絵から垣間見える、裸婦への、美への執着。紀子はそれが恐ろしく、そして、その根源が知りたくなった。

「ねえ、先生。また、ここに来ても良い?」

 一見、優しげに見えるこの男の執心、それを垣間見たくなったのだ。




「先生、いる?」

 紀子は、慣れた手つきで第五美術室の扉を叩いた。

 ピンクの絨毯を作っていた桜は、あっという間に緑になって、日差しは強くなる。夏休みまで、もうあと何週間もなかった。

 皆が半袖のカッターシャツを着る中、紀子は頑なに長袖を脱がない。右手に残る、あの忌まわしい傷痕は、手だけでなく腕にまで及んでいる。この傷痕を、紀子自身が見たくなかったのだ。

「元原さん、またサボり?」

 授業時間中に現れた紀子に、そう言ってクスクスと笑うのは、あの日に出会った美術講師だった。

 あの日以来、紀子は何日と空けずに、この先生の元へと通っていた。日曜以外にも何故か頻繁に現れる彼は、いつもこの部屋で真っ白なキャンバスを置いたイーゼルの前で座っている。一度、大学院の方はいいの、と聞いてみた紀子だったが、先生は曖昧に微笑むだけだった。

 紀子は、すっかり定位置となった先生の隣に腰を下ろし、彼と同じように、真っ白なキャンバスを見つめた。

 先生は、絵を描かない。

 紀子がせがめば、以前に描いた物を見せてくれることはあった。しかし、彼が絵を描いているところを、出会って数ヵ月が経つ今もって、紀子は見たことがなかった。

 はじめは彼が遠慮しているのだと思っていた。だが、紀子が居心地の悪い教室を抜け出しては、彼の元に入り浸るようになって、一月が経ち、二月が経っても、先生は絵を描こうとはしなかった。そうなってくると、さすがに遠慮などではなかった事を悟らざるを得なかった。

 彼は絵を描けないのだろうか。

 そんな疑問が膨れ上がる。

 気になった紀子が探りを入れたところによると、日曜講義の方も、他の先生の助手のような形で参加しており、彼自身はやはり絵を描いていないらしかった。

「――ねえ先生。先生は、絵を描かないの?」

 今まで何度か聞いてみようと思っては、結局口に出せなかった問いを、遂に彼にぶつける。

 もし、描けないのでなければ、紀子は先生の描く絵を見てみたかった。昔の物ではなく、今の先生の絵を。

 だが、今までその問いを口にしなかったのは、どこかで気後れしていたからかもしれない。それなのに何故、その日に限ってその理由を尋ねたくなったのか。それは紀子自身にも分からなかった。

「せんせい……?」

 暫く経っても答えようとしない彼に、そっと声をかける。そして、その時の先生の表情を窺って、思わずたじろいだ。

 彼の、まるで表情が抜け落ちたような顔。それを見て、彼の禁忌に触れてしまったのかもしれない、と怖くなる。だが、最早後には引けなかった。

 紀子は次の瞬間、どうなってしまうのだろうと、審判を待つような気持ちで、彼の次の行動に注視していた。しかし予想に反して、それ以上の事は何もなく、一瞬後には、いつもの柔らかい微笑を浮かべる先生がいた。

 それは、直前に見たものが幻か何かだったのではと、思ってしまうほどの変わりようだった。

 そして、先生は予想外の言葉を口にした。

「元原さん。もし、よければなんだけど。……モデルになってくれないかな」

「――え?」

 彼は、紀子のセミロングの髪の一房に指を通し、笑った。

「君なら、描けそうな気がするんだ」




 それから、紀子は先生のモデルをするようになった。

 モデル、といってもなんら難しい事はない。紀子は普段通り過ごすだけ。ポーズをとっていなければならないわけでもなく、ただ、先生とイーゼル越しに対面して、後はいつも通り過ごすだけだった。

 紀子が夏休みに入った後も、二人は変わらず美術室にいた。キャンバスも白いままだ。

 ただ、今まで線の一本も描かなかった先生が、鉛筆を手に取り、スケッチを描き始めた。

 その殆どが制服姿の紀子だ。座っているところ、笑っているところ、夏休みの宿題に奮闘しているところ……。

 紀子はそれに、少々の気恥ずかしさを覚えつつ、一心に絵を描いている先生を見ていた。

 夢中で絵を描くその姿が、紀子はとても綺麗だと思った。

 鉛筆を握り紙の上を動く指と、真剣な眼差しが、紀子の目を引き付ける。

 その手に、触れたくなる。

 だが指を伸ばしかけて、慌ててそれを引っ込めた。右手に残った傷痕を見つけてしまったからだ。

 己ですら倦厭しているこの右手で触れたら、全てが壊れてしまうような気がして、紀子はその右手を自身の背中に回して隠す。

 そして、その手に触れる代わりに、そっと言った。

「先生の絵って、音が聞こえる……」

「――音?」

 先生は描いていた手を止めて、紀子の方へ振り返る。

「うん……。先生の絵を見ていると、色んな気持ちになる。……それが、私には、色々な音に聞こえるの」

 頭の奥から聞える、微かな音たち。ラフなスケッチを見ているだけでさえ、こうなのだから、彼の本領である油絵を見たならば、一体どうなってしまうのだろう。

 怖いような、それでいて、とても惹かれる。

「どんな音が聞こえているの?」

「色々。優しい音だったり、激しい音だったり……。本当に、いろいろ……」

 今はまだ、音が響くだけ。だが、それが妙に心地良い。

 音楽全てが、事故以降の紀子にとって辛いものだった。好きだったからこそ余計に。

 だが、それが変わっていく。

 この人の隣にいれば、いつかもう一度、好きになれるだろうか。

 紀子は先生の肩にほてと身体を預けた。

「もっと、描いて、先生……」

「………」

 彼は無言のまま紀子を抱き寄せるように、そっとその肩に触れた。紀子は安心しきって、そのまま目を閉じた。




 夏休みも終わりに近づいた、ある日曜日。

 紀子はいつもの高等部ではなく、大学部の方にいた。

 先日、先生の描く油絵が見たいとせがんだ紀子の願いを叶えるために、彼がその場を用意してくれたのだった。

 これから向かう先は、先生の恩師である塚本教授の教授室だ。彼がこの大学部を卒業してから何年か経つが、その教授室には何点か作品が残されているらしい。

「元原さん」

 紀子がその声に振り返ると、先生がいた。紀子は小走りで近寄って、彼に微笑みかける。

「先生と美術室以外で会うなんて、なんだか変なかんじ」

「元原さんも、制服じゃないの新鮮だね」

 そういえば、制服以外の姿を見られるのは初めてだ。

 なんだか、まるでデートみたい。

 紀子は浮かんだ考えに少し赤くなって、改めて自分の姿を見下ろした。

 傷痕を隠すための長袖の白いボレロは、意識の外に閉めだして、その下のワンピースを見る。夏らしい爽やかな水色のそれは、今日おろしたばかりの新品だ。

 スカートに皺は寄っていないだろうか。靴は汚れていないだろうか。そんな些細な事が、とても気になる。

「変じゃないです?」

 思わず心配になって尋ねると、先生は目を丸くした。

「どうして? かわいいよ?」

 さらりと言われた「かわいい」という言葉に、頬が熱くなる。

「行こうか」

 照れくささでワタワタとしていた紀子は、服の事だから、と自己暗示をかけて頬の赤さが引くのを祈る。そして深呼吸した後ようやく、少し先でついて来ていない紀子を振り返った先生の後を、慌てて追いかけるのだった。

 先生に先導されるまま、紀子は教授室棟に辿り着いた。中はシンとしていて、少し薄暗い。だが、空調が寒くない程度に効いていて、炎天下を歩いてきた二人はほっと息をもらした。それにくすりと笑いあった後、同じような扉がいくつも並んでいる廊下を二人は歩いていく。

 扉についたすりガラスの先は、日曜ということもあってか、殆どが暗かった。だが、たまに光が漏れている部屋もあって、その中では幾人かの声がしている。声は不明瞭で何を言っているのか分からなかったが、教授や生徒達が討論でもしているのだろう。

 紀子が物珍しげにきょろきょろと視線を彷徨わせていると、先生の足が止まった。扉に「塚本」というネームプレートが付いている。ここが塚本教授の部屋のようだ。

 扉を叩いた先生に従って、紀子は未知の空間におそるおそる足を踏み入れた。

 中は電気がついておらず暗い。先生が、扉の傍にあったスイッチをパチッと押すと、ニ、三度明滅してから明るくなった。

「……先生? 塚本先生は、いらっしゃらないの?」

 紀子は明るくなった部屋をキョロキョロと見渡すが、電気がついていなかったのだから当然といえば当然だが、人気はなかった。

「好きに使えって、言ってくださったんだ」

 先生は勝手知ったる、という様子でずんずんと奥に進む。紀子は、壁中に並べられた本に圧倒されながら、おそるおそる、その後を追った。

 部屋の奥には、一部が本棚で衝立のようになって、区切られた空間がある。その先から手招きをされ、紀子はひょこりと顔を覗かせた。

「あ」

 そこには、いくつかくっつけて並べられた机の上に、大小五つの絵が並べられていた。

「これ、先生が描いたの?」

「大学時代のやつだね」

 紀子はその絵をじっくりと見ていく。

 一つは風景画。オランダをイメージした時に思い浮かぶような煉瓦造りの風車に、大きな大河と田園が広がる爽やかな風を感じるような絵。

 もう一つが静物画で、リンゴとイチジク、ザクロ、それから麦の束のようなものが茶色い木目の机に置かれた絵だ。

 そして、残りの三点。一番大きな絵と、小さい二つ。それは女性がモチーフの絵だった。

 小さな二つの絵の方は習作なのかもしれない。少々塗りが荒いもので、一つが水浴びをする裸の女性。一つが半裸で振り向く女性。

 そして残る、一番大きな絵。

 それに、紀子の目が引き寄せられる。

 裸身に花冠をかぶった女性が足を組み、薔薇の花を握っている。その周囲には白鳥と鳩が配置され、何とも意味深だと紀子は思った。

 女性の憂いを帯びた視線に、紀子の背筋が泡立つ。宗教画のような静謐な絵の中に、描き手の激しい情熱のようなものを感じた。

 荘厳で、それでいて激しい、そんな曲が聞こえるのだ。紀子は溢れる音に苦しくなるような心地がした。

 今すぐ、弾きたい――!

 そう思うのに、それを出来ない己の手が憎くて堪らなくなった。

「元原さん? ……大丈夫?」

 紀子はこくと頷いて、その絵をよく見ようともう一歩近づいた。

「これは、いつ描いた絵なの?」

「卒業制作……だね、大学部の……」

 先生はそう言ったきり押し黙る。彼の不自然な様子に、紀子は顔を上げる。

「先生……? どうかした?」

 紀子が聞くと、彼は一瞬、何か物言いたげな顔をした。数度、何かを紡ごうとするかのように、その唇が微かに震える。しかし、結局は何も言わずに首を振った。

 黙って視線を逸らす先生に、このまま何も聞かない方が良いのだろうか、と紀子は考える。だが、先程の一瞬の眼差しが気になって、やはり聞かずにはいられなかった。

「先生、……話して?」

 そう呟くと、逸らされていた先生の視線が、紀子の方に戻ってくる。

 紀子は、迷うように視線を泳がせる彼を、じっと見つめた。暫く逡巡していた彼だったが、やがて疲れた顔で溜息を吐き、近くに置いてあった椅子に腰かけた。

「本当に聞くのなら……、元原さんも座って」

 紀子は他の椅子を彼の前まで引きずってくると、同じように座る。

 だが、彼は言葉を選ぶように、暫く俯いたまま黙る。紀子は、急かしてはいけないだろうと、逸る気持ちを抑えて静かに待っていた。

「――僕は、」

 かなりの時間が経って、彼はようやく口を開いた。

「僕は、絵を描くのが好きだった……」

 「好きだった」という言い回しに紀子は違和感を覚えた。苦渋に満ちるその顔には、ただ過去を思い出しているという気安さはない。

「――『だった』?」

 紀子がそろりと聞くと、彼は力なく頷く。そして、先程紀子が見入っていた裸婦画を指さす。

「それは、僕がただただ絵を描くのが好きだった頃の、最後の作品だ。それを描き切った後、いつ頃からかは思い出せない。けど、気が付いた頃には、思ったような作品が描けなくなっていたんだ」

 いわゆる、スランプというものだろう。

 心理的に描けなくなった彼と、身体的に弾けなくなった自分と。一体、どちらがよいのだろう。

 ただ、「出来ない」という一点において、紀子は彼を自分と重ね見た。

 どうして、私はこの人と、出逢ってしまったのだろう……。

 そんな事を思う。

 嫉妬をした。「描く手」を奪われていないこの人に少しだけ。だがそれ以上に、もう一度描けるようになってほしいとも、強く思った。

 彼が描けるようになるならば、それは紀子の希望にもなる。そんな気がした。

「辛い、ね……」

 先生は曖昧に微笑んで、俯き加減で頷いた。

「修士課程の頃の二年間は、どうにか描いたよ。けれど、それの卒業制作を完成させてから……、本当に、何も、描けなくなったんだ」

 彼の修士時代の卒業制作は、彼の作で過去最高の出来だと、周りからは称賛されたらしい。だが、上手く描けていないという自己評価とのギャップで、ますます筆が握れなくなったのだという。

 最低限の課題を無理やりこなしては苦しくなり、ついには学校に休学届を出した。それを見かねた彼の恩師が職を紹介し、今に至る、という事らしい。

 平日に頻繁に高等部に顔を出せる理由、日曜講義で助手の立場に甘んじている理由、それがようやく解けた。

「でも、何故か……、君だけは――」

 彼は伏せていた顔を上げると、紀子の顔をじっと見つめる。紀子の胸がドクリと音をたてた。

「君だけは、描きたい、と……、そう思えたんだ」




 夕刻になり、二人は大学部を出た。

「元原さん、ごめん、待たせたね」

 そう言って小走りで駆け寄ってくる先生に、紀子はふるふると首を振った。

 彼は教授室を出た事を塚本教授に伝えるべく、少し離れたところで電話をしていたのだ。

「この後は……、どうする? 帰る?」

 何となく高等部の方へ足を向け、二人はその正門の所で足を止めた。

 このまま帰ってしまうのは名残惜しいような気がする。だが、彼がスランプだと聞いた後で、美術室に行くのも違うように思った紀子は、少し考えてから先生を見上げた。

「先生。今日のお礼に、私のピアノを聞いてくれませんか?」

 先生は突然の申し出に驚いたのか、目をパチパチさせながらも、それを了承した。そして、そのまま学校の音楽室へ向かおうとする彼の腕を掴んで、紀子は電車に乗る。

 どこへ、という問いには微笑みだけ返して、紀子は答えなかった。

 電車を降りて、紀子は慣れた様子で道を進む。繁華街を抜け、閑静な住宅街へと出た。その住宅街に並ぶ家々は、どれもが大きな家だ。そしてそこが、いわゆる高級住宅街だという事にようやく気が付いた先生は、少々顔を強ばらせた。

 紀子がどこへ向かっているのか、察しがついたのだろう。

 いたずらが成功したかのように笑った紀子に、先生が溜息を吐いた。だが「やっぱり止めよう」とは言わず、紀子は内心ほっとする。

 そう、紀子の向かっていたのは、彼女の自宅だった。

 家の玄関まで辿り着いたところで、紀子は鞄から鍵を取り出した。ガチャガチャと音を立てて鍵を開ける後ろで、先生は神妙な顔をしていた。

「……親御さんは」

「今日はたまたま仕事で」

 音楽プロデューサーの父は仕事が忙しいためあまり帰って来ず、ヴァイオリニストである母も、紀子の事故以降仕事をセーブしていたが、それでも時折公演に行って帰ってこない。

 誰もいない家に二人きりという状況に先生は入るのを躊躇っていたようだが、諦めてもらう他ない。他にピアノのある所など早々ありはしないのだから仕方がなかった。学校の音楽室は、未だ心の傷の癒えない紀子には論外の場所ゆえに。

 先生は玄関先で突っ立っていたが、紀子はそれに気付かぬ振りで靴を脱ぐ。リビングへ肩にかけていた鞄を放り投げてから、それとはまた別の扉を掴む。玄関から廊下を少し行ったところの右側の扉。それを開けて、紀子は手招きをした。

「先生、早く」

 無邪気な顔で微笑めば、先生も観念したように上り框に足をかける。ギッと廊下が音を立てて、彼がすぐ傍までやってきた。紀子はそれを音で確認しながら、視線は開けた扉の奥へと向ける。

 そこには、下へと続く些か狭い階段がある。薄暗い通路の天井に下がった裸電球のスイッチを入れて、紀子はゆっくりとそこを降りていった。

「ここは?」

「着いてからのお楽しみ」

 少し不安そうな声で聞いてくる先生に、いたずらっぽく笑う。そして階段を降り切ると、それに彼が続くのを待った。

 先生が最後の段を降りた事を確認して、紀子は目の前にある灰色の重たげな扉を、そっと押し開いたのだった。

「うわ……」

 彼はその先を覗き、思わずといった様子で声を漏らした。

 そこは、狭く暗い階段とはうって変わり、広く明るい部屋だった。その中央にはグランドピアノが置かれ、端には譜面台と、ヴァイオリンを置くラック、向かいにはコントロールルームまである。

「すごいでしょ? 私も、来るのは久しぶり……」

 紀子は長らく触っていなかったグランドピアノの傍まで歩み寄る。そして、その閉じられた鍵盤蓋のツルツルとした表面をするりと撫でた。

 触れることが出来た。たったそれだけの事に安堵する。

 その姿を見る事さえも出来なかった、愛用のピアノ。

 この一年、どうして離れていられたのか分からない程、それは紀子の身体に馴染んだ。

「事故に遭ったと、聞いたよ……」

「なんだ、知ってたんだ」

 知らないで、いてほしかった。

 紀子は少しそう思った。綺麗な所しか、見られたくなかったのかもしれない。

 紀子は触れていた蓋に手を掛け、それを開ける。そして、鍵盤を隠すように乗せられた臙脂の布を取った。白と黒の強烈なコントラストが目に刺さる。紀子は眩しいものでも見るように目を眇めた。

「先生方が話しているのをたまたま、聞いたんだ」

「そっか。……なら、知ってると思うけど、もう上手く弾けないんだよね」

 紀子は鍵盤を人差し指で押す。ポーンと高い音がなって、防音壁に吸い込まれて消えてゆく。

「それから、一年以上ぶりだから、下手でも笑わないでね」

 紀子は椅子に座り、ペダルに足をかける。

 そして、演奏をはじめた。

 何という曲ではない。紀子は即興で思うままに鍵盤を叩いた。

 紀子の脳裏にあったのは、昼間に見た先生の絵。

 あの絵から聞こえたメロディを再現するように弾いた。

 だが、指は思うように動いてはくれない。

 震える。

 引き攣る。

 事故に遭ってからピアノに触れていなかったのも手伝ってか、予想以上に動きが悪かった。

 音が詰まり、ワンテンポ遅れ、紀子はなんて酷い有様だろうと思った。

 それでも。

「……っ」

 紀子の頬に、雫が伝った。

 酷い指の動きに、酷いメロディ。全く思ったように弾けていない。

 それでも、紀子は夢中になって、弾いた。泣きながらも、演奏を続けた。

 そして、最後の一音。

 その余韻まで消えると、紀子は堪らなくなって両手で顔を覆った。

「元原さん……」

 先生が紀子の肩にそっと手を載せる。

「せんせ……」

 紀子は流れる涙をそのままに、先生の胸にしがみ付いた。

「ごめんなさい……。こんな、ひどい……」

 紀子は先生の服を掴んだまま、涙声で謝った。紀子自身、何に謝っているのかよく分からなかった。演奏の酷さなのか、突然泣き出した事なのか。

 ただ、胸が一杯だった。音楽の中に戻ってこれたような今が嬉しく。でも、前のように弾けない自分が悲しく。色々な感情が混ざって、言葉にならない。

 先生は、紀子のそんなままならない気持ちも全て受け止めるかのように、そっと紀子の頭を撫でる。抱きしめられた体温にほっとして、さらに紀子の涙腺が緩んだ。

 彼は、そんなふうに泣きじゃくる紀子にぽつりと零した。

「――綺麗、だった。君の、ピアノを弾く姿が……、とても」

 紀子がおそるおそる顔をあげる。そこにいた彼の顔は穏やかで、それでいてその目の奥は、目を逸らせぬほどの熱が潜んでいる。

 紀子はその熱に浮かされるように、言葉を溢す。

「先生の絵が、私をもう一度、ピアノの前に連れて行ってくれたの。先生の描く絵のメロディ、弾いてみたい、って――」

「それは、僕のセリフだ……」

 先生は、ひどく優しい顔で、紀子の頭を撫で、涙で濡れた頬に触れた。もう片方の手が、紀子の後ろ髪を弄る。

「君がいたから、僕はもう一度ペンを握る気になった。」

 彼は紀子の目元に唇を寄せ、目尻に溜まった涙を拭う。

「今なら、きっと――」

 耳元で囁かれる声に、紀子の背筋が疼く。

 紀子は彼の首に腕をまわした。

「うん…、私を描いて、せんせ――――」

 髪を引かれ、上向いた紀子はそのまま目を閉じる。

 羽が触れるようなキスは、涙の味がした。




 夏休みが明ける。

 一年ぶりにピアノを弾いたあの日以来、紀子は時折あのグランドピアノに触れるようになった。だが、あの時のような鮮烈さを感じる事もなく、少しだけ弾いては止めてしまう。

 それでも、少しだけ音楽との距離が近くなった気がして、ピアノの音に苦しくならない事にほっとしている事も事実だった。

 二学期がはじまり最初の登校日の今日、紀子の足は自然とあの美術室へと向かう。しかし、その扉の取っ手を掴んだところで、ピタリと動きを止めた。

 今なら、大丈夫かもしれない。

 ピアノに触れられるようになった今こそ、馴染めずにいる教室や、音楽科の旧友達と、逃げずに立ち向かうべき時なのかもしれないと思ったのだ。

 紀子はゆっくりと扉を掴んでいた指を剥がし、美術室から背を向ける。

 先生に会いたかった。

 でも、会ってしまったら、きっと弱くなってしまう。やっぱり無理だと流されてしまう。だから、どうにかその気持ちを捻じ伏せて、一歩踏み出した。

 そうして、普通科の教室の方へと足を向けたのだった。

 紀子の向かう先は、美術科関係の部屋が並ぶ区画から、外廊下を通って行くことになる。そちらに近付けば近付くほど、音楽科の区画とも近くなり、紀子も不安が無いわけではなかった。だが、今ならきっと大丈夫と、己の胸に言い聞かせて歩く。

 その時、一現目終了の鐘が鳴った。時間から考えて、始業式が終わった合図だろう。その人混みに紛れればよいだろうかと紀子は考えを巡らせる。

 そうして、次第に重くなる足を無視しつつ歩を進めていた、その時だった。

「紀子?」

 女の声にはっとして、紀子は振り返る。

「あ……」

 目の前がぐわんと揺れた。立っていられなくなって、たたらを踏む。きかなくなる視界。だが、それとは裏腹に、耳だけが鋭敏になる。

 遠くピアノの音が聞こえたような気がした。

 いや、あれは思い出の中の音だろうか。

 気持ち悪い――

 その音は、酷く不快な不協和音だった。




「……あ、」

 紀子はぼんやりと目を覚ました。

 辺りを見渡して、どうやらここは保健室のようだと分かる。だが、保険医は席を外しているのか、この場にいるのは紀子一人のようだった。

 一体、何があったのだったか、と怠い身体を起こしながら紀子は考える。

 そうだ、倒れたのだ。音楽科の生徒を見て、立っていられなくなって。

 あれは誰だっただろう。

 ぼやけた記憶を辿って紀子は考える。

 たしか、音楽科のピアノ専攻の生徒だ。現在三年生、つまり一昨年まで紀子と同級生だった人物で、共通した楽器を扱っていた事からそれなりに仲が良かったはずの人間だった。

 だが、あれは何という名前だっただろう。

 紀子は何一つ思い出せない。

 しかし、すぐに考えるのを止めた。そんな事も思い出せないような人間など、どうでも良かった。

 今の紀子には、それらは全員「音楽科の生徒」という記号でしかない。

 そんな事より……

「せんせっ……」

 紀子は上掛けをはね除け、上履きも履かずに寝かされていたベッドを降りた。そして、転びそうになりながら、扉の取っ手を掴む。

 先生に会いたい。

 あの腕に抱きすくめられたら、どんなに安心できるだろう。

 紀子は掴んだ扉を思い切り引き開けて、外に飛び出す。

 だがそれは、その扉の先にいた人物に抱きとめられるようにして阻止された。

「あ……」

 紀子は抱きとめられたまま、身体の力を抜く。

 顔を見なくても分かった。彼は――

「先生っ……」

 先生の存在にほっとすると、もう駄目だった。その体温を感じると共に、目からはぼろぼろと涙が零れてくる。

「どうしたの……」

 落ち着いた声音に紀子は一層泣きじゃくる。

「私……、やっぱり、ダメだったの……! 先生がいてくれなきゃ、やっぱり……!」

 先生を思い出して弾くピアノは、あんなにも心を安らかにしてくれるのに。

 独りきりでは、生徒を見るだけで駄目になってしまう。

 紀子は胸の苦しさをぶつけるように、彼のシャツを震えるほど握りしめた。

 独りで立ち向かうなど、もう出来はしない。

 この人が、いてくれなくては、もう、駄目なのだ。

「――、」

 先生が何かを言おうとした気配を、泣き声の合間に聞く。

 だが結局彼は何も言わずに、ただ紀子を抱きしめ、その背や頭を撫でるだけだった。




 あの時、先生は何を言おうとしたのだろうか。

 紀子はあの日以来、もう教室に行ってみようとする事はなく、美術室に籠るようになっていた。

 ここならば、先生の傍ならば、音楽の事を考えても苦しくならない。それが紀子を安心させた。

 今日も紀子は一人窓辺に座って、色付きはじめた木々を見つめる。

 その時、美術室の扉が静かに開いた。

「……来てたんだ」

 穏やかな笑みを浮かべる先生は、持っていた荷物を机に置いて、紀子の傍へと寄ってくる。

「何を見てたの?」

「葉っぱ。もう、秋だなぁって」

 落葉樹は葉の色を変え始めている。夏の鮮やかな緑は、もうそこにはない。

 紀子が彼と出会ってから、早半年が経とうとしていた。たったの半年間に、随分と関係性が変わったものだと、紀子は感慨深く思う。

 先生は鞄からスケッチブックを取り出して、紀子の方を向いて座った。そして、開いたそれを組んだ膝の上へ乗せると、鉛筆を走らせる。

 一心不乱に手を動かす彼に、暫し見惚れた後、紀子は窓を閉めて立ち上がった。そして、彼の後ろに回り込んで、その背に抱きつく。

 彼はそんな紀子を意に介すこともなく、窓辺に座る紀子を描いていた。

 紀子は紙の上にいる、自分のようで自分でないような、その女を見つめる。

 窓の外を物憂げに見つめる女の、その耽美な画からは、美しい音色が聞こえる。だが、あの日見た絵に感じたような衝動は、まだそこには存在しない。

 それを少し寂しく思いながら、いつか彼がそんな絵を描けるようになればいいのにと願っていた。

 紀子が絵を見ていると彼の手が止まって、コトリと鉛筆を置く音がした。彼の首に回した紀子の腕に、手がそっと置かれる。

「どうしたの?」

 まるで、そこに紀子がいるという事に初めて気が付いたような声で彼が問う。

 紀子はそれに答えるかわりに、思っていた事を聞いた。

「先生が描く私は、いつも服を着ている……。どうして?」

「どうして、って……」

 窓の外を見つめる女は、紀子と同じように、ブレザーを着てスカートを穿いている。これだけではない。彼の描く紀子は、紀子の姿をそのまま映しとったものが大半で、その時着ている物が忠実に描かれている。

「――あの日見た絵のような、私を描いて、って言ったら……怒る?」

 びくりと彼の背が動揺で震えた。

 紀子は彼に意図が正確に伝わったらしいと安堵する。そして、目を閉じて、彼の返答を待った。

 あの日の絵。あの、大学部の教授室で見た裸婦画の事だ。

 紀子は、あの時感じた衝動のようなものが忘れられなかった。きっと、彼がスランプを抜け出せばあれと同じものが、いや、きっとそれ以上のものが見られるに違いない。

 それを見られたならば、一度失った音楽の世界を、取り戻せるような気がした。

「先生、私……、あなたの本当の絵が見てみたい……」

 彼は躊躇っていた。けれど、最後には再び置いていた鉛筆を握るのだった。




 カーテンを閉め、薄暗くなった部屋で二人は対峙していた。

 紀子とて、素肌を晒す事に抵抗がないわけではなかった。だが、それ以上に、あの衝撃にもう一度出会いたいと思ってしまったのだ。

 彼に見つめられながら、紀子はブレザーのボタンを外した。するりと音を立てて、それが床に落ちる。靴と靴下を脱いで、スカートのホックも外した。首元のリボンも外してその上に落とす。

 後はカッターシャツを脱げば、もう殆ど裸も同然になってしまう姿だ。

 もう、後戻りは出来ない。そんな気がする。

 だが紀子は、意を決してシャツの第一ボタンに手を掛け、ようとして動きを止めた。

「あ…………」

 手が震えた。

 すぐさま異変に気が付いた彼は、手にしていたスケッチブックを置いた。

「……やめる?」

 気遣わしげな彼の表情は、紀子が一度頷けば、その願いを叶えてくれる事を如実に物語っていた。

 だが、紀子は首を振った。

「そうじゃ、ないの。そうじゃ……。でも――」

 紀子が見ていたのは、自分の右手。

 そこにある、傷痕だった。

 これを脱げば、腕にまで残る大きな傷痕が見られてしまう。

 紀子は、その事に怖気づいていた。

「先生に……この傷、みられたくない……」

 そう言って、左手でその傷を隠すようにぎゅっと手を握り締めた。

「どうして……?」

「だって、醜い――――」

 紀子は俯いて唇を噛み締める。

 ずっとこの傷痕を疎んできた。憎んでいる、と言ってもいい。夢を奪われた象徴のように残るそれが、紀子は嫌いで嫌いで堪らなかった。

 その時、その手に彼の手が触れた。驚いて紀子が顔を跳ね上げる。

「綺麗だよ」

「そんな、こと……」

 彼が掴んだ手を紀子は振りほどこうとした。だが、強い力で掴まれたその手を振りほどくことはできない。

 彼は紀子の右袖にあるカフスボタンをプチンと外す。そして、その袖を捲っていった。

 それまで服で隠れていた傷が露わになってゆく。紀子は見ていられなくて、視線を逸らした。

「――目を逸らさないで」

 彼は露わになったその傷を、親指の腹でなぞる。

「これは今、君が生きている……、その証だ。だから……、美しいんだよ、この上なく」

 もう痛くはないかと尋ねる彼に紀子が小さく頷くと、彼はその傷に唇を寄せた。

「っ――」

 その感触に、紀子はぴくりと反応する。彼は、その傷をちゅっと一度だけ啄むと、紀子の腕を解放した。

 彼に「美しい」と言われた傷痕は、変わらず醜く引き攣れたままだ。

 だが何故だか、彼の触れた場所が熱く熱を持って、愛おしく感じた。

 紀子はその熱に浮かされたような心地のまま、シャツの前ボタンを一つ一つ外していく。

 そして、その真っ白なシャツは、重力に従って彼女の足元に広がった。




 その後、紀子はそれ以上脱ぐことはなかった。

 だがその日を境に、彼は狂ったように絵を描きはじめた。

 来る日も来る日も、彼は絵を描いていた。書き散らされた紙は机の上に散乱し、二人以外の誰もこの部屋に来ないからと、それはそのまま放置されている。

 紀子はそれらの絵を落とさぬように、彼の隣に座り、脇目も振らず描いている彼の姿や絵を見つめていた。

 時折、思い出したかのように、彼は紀子の傷に触れて、髪を弄り、項を指で辿ったが、それ以上の事は何もなく、日々は穏やかに過ぎていったと言っていいだろう。

 なにより、彼は情熱を取り戻したのだ。紀子はそれが何よりも嬉しかった。

 だが一方で、日々描かれる鮮烈なそれらの絵は、紀子に眩暈を起こさせるほどの音を伝える。

 鍵盤がそこにあるかのように机を叩いたり、家に眠っていたロールアップピアノを持参して弾いてみたりと、紀子は身体に溜まり続けるその音達を、どうにか逃がそうと苦心していた。

 だが、そんな方法では物足りないのだ。

「……私も絵とか、描けたらよかったのに」

 紀子はピアノを弾く手を止め、呟いた。

「――どうして?」

 珍しく絵を描く手を止め、彼は紀子の顔を覗き込んだ。

「だって……、このメロディをどうやって発散させればいいのか、わからないの」

 ピアノでその場限りにするのではなく、この絵のように何か残す事が出来れば、紀子の中で氾濫する音達をどうにか出来るのではないかと思う。

 彼は首を傾げて、手慰みのように紀子の傷に触れた。

「僕は音楽の事には詳しくないけれど……、作曲をしてみる、とかでは駄目なの?」

「作曲――」

 紀子は天啓を受けたように、はっとして彼を振り仰いだ。

 溢れてくる音を、そのまま書けばいい。

 幼い頃に言われた、作曲も手掛ける父のそんな言葉が、紀子は今になってようやく理解できた。

「――私、やってみる」

 紀子は自分の鞄からノートを取出し、その罫線を五線譜に見立てて、音符を書き込んでいく。面白いほどすらすらと浮かんでくるメロディに、紀子は知らぬうちに夢中になっていた。

 机に積みあがっていた絵の山に、紀子の書く楽譜が混じるのは、すぐの事だった。




 水溜まりに薄氷が張る。

 紀子はそれを踏み抜いて学校へ、いや先生の元へと向かう。

 曲を書きはじめてからの紀子の世界は、輝かしいものへと一変した。

 事故を理由に、無理やり音楽から遠ざかろうとしていたからこそ、苦しくて堪らなかったのだとすぐに悟った。

 とても楽に息が出来る。

 ピアノで表現しきれなくなってしまった思いを、楽譜が表現してくれているのだろう。

 そんなの、何気ない日々がとても幸せだった。

 紀子はブレザーの上から薄茶色のコートを羽織ったまま、すっかり手に馴染んだ五線譜の書かれたノートを手に、いつもの美術室へと足を運んだ。

 そして、扉を開けた先の思わぬ光景に、紀子は目を丸くする。

「先生……、それ……」

 普段ならばスケッチブックを手に鉛筆を走らせている彼。だが、今日は様子が違った。

 彼の前には、キャンバスがある。

 彼は振り向いて、紀子に笑いかけた。

「筆を握ってみよう、っていう気になったんだ」

 まずは鉛筆で下書きをするらしく、そこに絵の具や筆といったものはなかった。先生は紀子を手招きして、傍まで近寄った紀子の手を握る。

「……つめたくなってる」

 先生の暖かい手の温度が、紀子の冷えた指先をじんわりと温めた。

「もう、冬だもの」

「そうか、……そうだね」

 紀子は、屋内にいるからと薄着になっている彼に、ぎゅっと抱きついた。

「寒くはない?」

 大丈夫、というように、先生の手が紀子の背をぽんぽんと叩いた。

 紀子がそっと身を離すと、彼の真剣な眼差しとぶつかった。真っ直ぐ見つめてくる彼に、紀子は少し恥ずかしくなって頬を赤くする。

「これが描けたら……、君にもらってほしい」

「え、でも……」

 私なんかがもらっていいのか、と紀子は後ずさる。だが、彼は紀子の手をもう一度掴んで言った。

「君でなきゃ、駄目なんだ」

 その日から、彼は油彩画の制作をはじめた。

 彼の「制作中は見ないで」というお願いを聞き入れた紀子はそれから一月程、彼からは少し離れた位置で、相変わらず曲を書いている。キャンバスに向かう彼の目は真剣そのもので、時折目が合うと紀子は恥ずかしくなって目を逸らした。

 彼はそんな紀子の反応も、優しげな目で見つめ、紀子はより恥ずかしくなるのだった。

 油絵は完成まで時間がかかるらしく、数時間描いた後はそれを乾燥させるために、彼はキャンバスの傍を離れる。その時はそれまで通り二人は並んで座って、お互い絵を描き、曲を書いた。

 机に紙が重なるように、二人の時を重ねてゆく。

 想いもまた。




 そうこうする間に年が明け、冬の寒さは厳しくなってくる。

 その頃になると、彼の制作も佳境に入ったようで、彼はキャンバスをじっと眺めて、少しだけ修正して、という作業を繰り返した。

 紀子は彼のお願いを守って、まだ一度も絵を見た事はない。その代わりにいつも見ているのが、キャンバスの木枠の見える裏側と、それを立てかけるイーゼル、それから先生の真剣な表情だけだ。

 そしてついに、その時が来た。

「――――できた」

 その声にはっとした紀子は、逸る気持ちを抑えて、努めてゆっくりと椅子から立ち上がった。そして彼の元へと近付いて、先生の様子にぎょっと目を瞠る。

「先生……」

 彼の目からは涙が一筋零れ落ちていた。

「見て、いい……?」

 彼がこっくりと頷くのを確認して、紀子はそろりとキャンバスの表側へとまわった。

「っ――――」

 声が出なかった。

 紀子はただ圧倒されて、声を抑え込むように口を手で押さえる。足がふらついて立っていられない。ふらふらとよろけた紀子は、どうにか背後にあった壁に背を預け、転倒を免れた。

 その絵は、神聖で、淫靡で、厳粛なようで、どこか享楽的であった。

 美しい肢体の女は紀子ではないかに見える。だがやはり、それは紀子以外の誰でもなかった。

 ギッと椅子が音を立てて、頬に涙の跡が残る彼が立ち上がる。

 一歩、また一歩と紀子の方へ距離を詰める彼から、紀子は何故か視線が外せない。

「せんせ――」

 紀子の言葉は、その口を塞がれることで、強引に途切れさせられた。二人は、唇を重ねあわせたまま、ずるずると座り込んだ。

 この人とのキスは、涙の味がする。

 そんな事を考えていると、不意にそれが離れる。彼は紀子の右腕を取って、その傷に口付ける。

 それをぼんやり見ているうちに、紀子の視界に何故か天井が見えた。

 紀子は反射的に起き上がろうとする。だがその上に圧し掛かる男は、それをやんわりと押し止めて、紀子の耳に唇を這わせた。

「のりこ」

 その声で、紀子の手から抵抗しようと入れていた力が抜ける。

 はじめて呼ばれた名前は、ひどく甘い響きがした。

 もう、のがれられない。

 紀子は、頭上から見下ろしてくる、画布の中の女の視線から逃れるように目を瞑った。

 目を瞑れば、そうしているのが、とても自然な事に思えた。

 私もこの人を、もっと近くに感じたかったんだ……。

 換気用に開けていた窓から冷たい風が入って、机の上の紙が二人の傍に落ちてくる。

 だが二人は、それが折れて曲がろうとも、それに気が付くことはなかった。




 それから、紀子はどうやって家に戻ったのかさえ覚えていない。

 ただ、家に帰り泥のように眠って起きた後は、寝る間も惜しんで曲を書いた。溢れ出るメロディを一節たりとも残さず書き記しておきたかったのだ。

 そして、そんな異常な状態に陥っている事を紀子が自覚した時には、件の日から三日が経過していた。

 暫くぶりに学校に登校した紀子は、その足であの美術室に向かった。

「先生……?」

 だが、そこには誰の姿もない。机の上の散乱した紙は相変わらず。あの油彩画もそのまま置かれている。

 まだ、来ていないだけだろうか。

 紀子はどこからともなく湧いてくる、嫌な予感に首を振って見ないふりをする。

 だが、その嫌な予感を証明するように、次の日も、その次の日も、彼が姿を現す事はなかった。

 一週間が経ち、いてもたってもいられなくなった紀子は、職員室へと向かった。そこで聞いたのは、彼は自己都合で突然退職したというものだった。

 私に、何も言わないで?

 そんな事を、紀子はつい思ってしまう。

 もうこのまま会えないのかと、めげそうになった。だが、そんな心を叱咤して、紀子は手掛かりがないかと思考を巡らせる。

 そして、思い出した。

「塚本先生だ……」

 彼の恩師だというその人なら、何か知っているかもしれない。紀子はその思いだけで、大学部へと足を向けた。

 前に来たときから、かなり時間が経っており記憶は曖昧だった。だが、なんとか迷いつつも、教授室棟を見つけ、「塚本」のネームプレートを発見する。

 勢いでドアノブを掴み、それをまわす直前で紀子は我に返る。アポイントもなく突然押し入るのは非常識すぎる。

 紀子は、なんとか気持ちを落ち着けようと何度か深呼吸をして、ドアをノックした。

 中から「どうぞ」という壮年の男性の声がする。紀子はもう一度大きく息を吐いてから、そろりとドアを開けた。

「あの……、塚本先生、ですか……?」

 紀子は今更ながら、「塚本先生」の顔を知らない事に思い至る。相手も、現れたのが学生服を着た見知らぬ少女であった事に目を丸くしていた。

「そうだが……。君は? 高等部の子か?」

「は、はい。突然、すみません。高等部二年の元原です」

 紀子は、思い立ったその場で来てしまったのは、あまりに不躾だったかと、しゅんとする。だが、この人以外に彼の居場所を知っていそうな人を紀子は知らなかった。

「あの、塚本先生は、先生がどこにいるのか、ご存知ではありませんか……?」

 だが、塚本教授は首を傾げる。

「『先生』……? 一体、誰の事だ?」

「え、えっと……」

 たしかに、「先生」だけでは誰の事か分からない。紀子は、彼の事を伝えようとして、そして、愕然とした。

 私、あの人の名前も知らない…………

 紀子は、身体からサァッと血の気が引いていくのを感じた。

 彼の事をあまりに何も知らない事に、ようやく気が付いたのだ。

 住んでいる所も、通っている大学院も、そして、名前さえ。

 押し黙ってしまった紀子に、塚本教授は暫く怪訝な顔をしていたが、唐突にポンと手を叩いた。

「思い出した! 君、『元原紀子』さんだろう?」

「え、あ……、はい、そうです」

 下の名前を言い当てられ、紀子は目を瞬かせる。

「という事は、だ。『先生』とやらは、水中(みななか)くんだね?」

 聞かれても分からない。紀子が微妙な反応をしていると、塚本教授は首を傾げる。

「ん? 違うのか? 夏頃に、二人で彼の作品を見に来ただろう?」

「はい、来ました……。――水中さん、というんですね」

 ぽつりと紀子が言うと、塚本教授は目を丸くする。

「知らなかったのか? ……水中(まこと)、という名前だ」

「みななか、まこと……」

 初めて聞く名前。だが、どことなく、あの人らしい名前だと紀子は思った。

「あの、彼は、どこへ行ったんですか……」

 縋るような気持ちで、紀子は聞いた。だが、塚本教授は気まずげに目を伏せる。

「……すまないね、私も詳しいことは知らない。ただ、突然『海外に行く』と言って、仕事を辞めて、大学院も辞めて、身一つで出て行ったらしい」

「海外……」

 どこの国に行ったのかも、そこで何をしているのかも、塚本教授も知らないらしい。紀子は、失意のまま教授室を後にした。

 もう、どうしたらいいのか、分からない。

 世界が真っ暗な闇に沈んでしまったかのようだった。




 失意に沈む紀子だったが、作曲だけは止めることはなかった。

 美術室に残された大量のスケッチと自分の書いた楽譜、それから、紀子が最後に見た彼の作であるあの油彩画。それらをすべて引き取った後、ひっそりと学校を辞めた紀子だったが、家の地下にあるグランドピアノに座って、楽譜を書き続けた。

 先生の絵があれば、油彩画に見守られていれば、紀子に怖いものはなかった。

 高校を中退した後は高卒認定資格を取りながら、譜面を書いた。その次の年は音楽関係の学校への受験をしながら、やはり曲を作っていた。

 それからの四年間は音楽漬けの毎日だったが、紀子にとっては何も苦しい事はなかった。

 ただ、「先生」に会えない事だけが、紀子を苛んでいた。

 もう一度会いたい。

 今どこにいるのか、生きているのかさえ分からない人を想って、紀子は曲を書き続ける。

 この曲が、いつか彼の耳に届くと信じていた――




 その日紀子は、気分転換に街をぷらぷらと歩いていた。

 音楽プロダクション所属から、フリーランスに転向して一年目の春。紀子は二十八歳になっていた。

 暖かい春の風が、頬を掠めてゆく。

 紀子はふと、右手に未だ残る傷痕を見つめた。

 もう、あの人と出逢ってから、十年が経つ。

 あの時は己の人生すべてを呪い、憎んでいた。

 随分、自分は変わったと紀子は少し薄くなった傷痕に微笑んで、また街を歩く。

 その時、ふと小さな画廊が目に留まった。

 誰かの個展をやっているらしい。

 古めかしい外観の画廊は、普段なら気付かずに通り過ぎてしまうか、気が付いても気後れして入ろうとは思えなかっただろう。

 だが何故かその日の紀子は、吸い寄せられるようにその画廊の戸を開けた。

 そして、開けた瞬間に目に飛び込んできた油絵を見て、紀子は鞄を落とし、へたりこんだ。

 ああ、やっと――――

 紀子は、声も上げずに涙を流す。

 愛しい音が、溢れていた。

 やがて、異変に気付いた個展の主がその姿を発見するまで、紀子はいっぱいの音に囲まれて、ただ泣き続けるのだった。

(完)

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