ひとゆめのだいぼうけん

「さなはね、おおきくなったら、おひめさまになるの!」

 それが、沙奈(さな)のようち園からの夢だった。

 絵本に出てくる「おひめさま」は、かわいくて、きれいで、みんなに優しくしてもらえるからだ。

 そして、「おひめさま」には「王子さま」がつきものだ。「王子さま」はとってもかっこ良くて、沙奈は、「さなだけの王子さま」が来てくれるのを、いつも心待ちにしていた。

 夜にねむるときには、夢の中だけでも、絵本の中の王子さまが現れてくれないかなと、期待に胸をふくらませ、目を閉じる――




「んぅ……?」

 いつもなら布団に丸まって、ママに起こされるまで、うとうととしている時間。

 なんだか固い地面と、ふきぬける風の寒さに沙奈(さな)は目を覚ました。

(ベッドから落ちちゃったのかな……?)

 目をこすって起きあがった沙奈は、そこで信じられないものを見た。

「ふぇ……?」

 目の前に広がっていたのは、沙奈が思いえがいていたものとは、まったくちがう、それら。

 沙奈は部屋で寝ているはずだった。お気に入りがたくさんつまった、自分の部屋に。

 つまりは、こんな物が見えていなければ、おかしいのだ。

 お気に入りのピンクのカーテン。おばあちゃんにもらった、真っ赤なランドセルと、それのかかった勉強づくえ。ママにおねだりして、やっと買ってもらった真っ白なかわいいタンス――

 しかし、そのどれもが消えていた。

 いや、そもそも、沙奈が今いるのは部屋の中ですらない。

 カベがない。マドもない。そして、たくさんの木と空が見える。

 カーテンと同じもも色のじゅうたんも、土と草に変わってしまっていた。


 沙奈は山の中にいた。


「ま、まま……?」

 沙奈はあわてて立ちあがり、辺りを見わたす。しかし、沙奈が見なれたようなものは、何ひとつ見つけられなかった。

(さな、すてられちゃったの?)

 きのうのテレビ番組を沙奈は思い出していた。

 むかしむかしには、「うばすて」といって、おじいちゃんやおばあちゃんを、山にすてるということがあったというのを、見ていたのだ。

「まま! ままぁ……!」

 沙奈は森の中を走った。

 走って、走って。

 ママをさがして、おうちをさがして。

 でも、どんなに走っても、周りの景色は変わらない。

 それどころか、辺りはどんどんと暗くなっていた。木々が増えて、なぜか空も暗くなっていく。

「まま――、あっ!」

 沙奈はべしゃりと音をたてて転んだ。顔から地面にぶつかって、もう起きあがることができない。

「うえぇ……、まま、どこぉ……」

 ひとりぼっちの沙奈は、もうさみしくてさみしくて、ガマンできなかった。ぼろぼろとなみだをこぼして、泣きじゃくる。

 その時。

 木がガサリと音をたてた。沙奈はビクッと飛び上がって、その音のした方向へふり返った。

「ヒッ――!」

 その視線の先には、真っ赤な光が二つ。大きなそれは、何かの目のようだ。

 それは沙奈の、はるか頭上にあって、かなり大きな動物のようであった。ギラギラとかがやいたそれに、沙奈は身をすくませる。

 こわくてこわくて、動くことができない。

 ぐるる……、とうなり声がした。

 そして再び木がガサリと動いて、真っ黒な、そして、あまりにも大きな動物の足のようなものが姿を現した。

 そしてその足元に、その動物――ケモノのヨダレがぼたりと落ちた。

(さなを食べる気なんだ!)

 沙奈は足がガクガクとふるえて、動くことも出来ない。

「たすけて……、まま……!」

 だから、ぎゅっと目をつむって、大好きなママに助けを求めた。しかし、ケモノは動きを止めない。

 もうダメだと思った。

 その時。


 ザンッ


 沙奈の耳に、何かを切りさくような音が聞こえた。

(さなが食べられちゃった音かな……?)

 そう思った沙奈だったが、どこも痛くないことに気が付いた。

 おそるおそる目を開ける。

「さな、たべられてないの……?」

「子供……?」

 沙奈は、急に現れた男の声に、ビクッと身体をはねさせる。

 そして頭上を見ると、ついさっきまであのケモノしかいなかったはずのその場所に、見知らぬ男がいた。

何故(なぜ)……、子供がこんな所にいるんだ?」

「!」

 沙奈のはるか上から見下ろす、体格のいい男。いつの間にか空にあった月の明かりが逆光になって、その表情は見えなかった。

 目の前にいるのは、さっきのケモノではなかった。だが、沙奈にとってはどちらも変わらない。

「きゃあ――――!!」

 沙奈は大声をあげて、にげ出した。

「お、おい……」

 男が制止の声をあげる。だが、それを無視して、沙奈は走り去るのだった。




「ぐすっ…、ままぁ………」

「そろそろ、機嫌(きげん)をなおしてくれないか……?」

 沙奈(さな)は、困りきった声の男にぶんぶんと首をふった。

 今、沙奈の目の前にいる、このナゾの男からにげ出したのは、ついさっきのことだ。だが、当然大人の足に勝てるわけもなく、すぐにつかまってしまった。

 その時に、どうやらその男があのケモノをたおし、沙奈を救ってくれたらしいことを知った。

 とはいえ、ケモノにおそわれ、男にまで追いかけられ、すっかり心がささくれている沙奈が、見知らぬ大男に、すぐに心を開くわけもない。

 そんなわけで沙奈は、つかまってからというものの、ずっとぐずり続けているのだった。

「ほら、お(じょう)さん。お腹は空いてないか? スープを作ったんだが……」

 いらない、とつっぱねようとしたところで、沙奈のお腹がぐぅとなった。

 沙奈は真っ赤になって、男の手からスープの器を受け取る。一口飲んでみると、それは今まで飲んだこともないほど美味しくて、気が付いた時には、それを夢中で口に運んでいた。

「そんなに急がなくても、スープは()げやしないから、お嬢さん」

 子どもあつかいする口調に沙奈はむっと口をとがらせる。

「――おじょうさん、じゃないもん。おひめさま、だもん」

「『おひめさま』?」

 沙奈はこっくりとうなずく。

「ママに、知らない人にお名前は教えちゃダメ、って言われてるんだもん。だから、おひめさまなの」

 沙奈は「おひめさま」になりたかった。

 クラスのみんなには、笑われてしまうから言えないけれど、一度くらい、そう呼ばれてみたかったのだ。

「……そういう事なら、姫様(ひめさま)。あなたはどうして、こんな所にいらっしゃったのですか?」

 急に丁重になった男の言葉に、少し大人びたような気になって、沙奈はごきげんになる。

 だが、目を覚ました時のことを思い出して、顔をくもらせた。

「う、ん……。さなもね、よく、分からないの。さな……、ママにね、すてられちゃったのかな……」

 沙奈は、意識を取りもどしてからの事を、一つ一つ語った。この男が信用できるのか分からなかったが、見知らぬところに一人きりという今、心細さは限界に近付いていた。

 沙奈がたどたどしく、話をどうにか語り終えるのをじっと聞いていた男は、話が終るとその頭をなでた。

「それは…、大変でしたね。――それで、あんな所にいたのか……」

 今、沙奈たちがいる森は、通常は人の寄り付かぬ場所で、危険なケモノ達も多く生息しているらしい。

 沙奈はそれを聞いて、余計に悲しくなった。

「なら、さな…、やっぱりママに、すてられちゃった……?」

 また沙奈は泣きそうになった。

 だが男は、そんな沙奈を、元気づけるように、強くそれを否定した。

「いえ、それはないでしょう」

「どうして……?」

「あなたは、異世界から来られた方だからです」

 男の言葉に、沙奈はきょとんとする。

「いせ、かい?」

「ええ。あなたは先程、ニホン、という国から来たと言ったが、その名前を持つ国は、この世界には存在しません」

 その言葉の意味が、沙奈にはよく分からず、首をかしげて聞き返す。

「日本、なくなっちゃったの?」

「そうではなくて……、そうですね、例えば、本の中の世界に入ってしまった。……そんな状態ですかね」

「本のせかいっ?!」

 沙奈の表情が、ぱぁっと明るくなる。沙奈がずっと、ずっとあこがれていた、「おひめさま」のいる世界だろうか。心がうきうきとする。

「ええ、そのようなものです」

「じゃあ、おじちゃんも本の人?」

「おじちゃ……、いえ、まあ、そう思っていただいて、いいですよ」

「?」

 どこかショックを受けるような顔に見えたが、気のせいだろうか。沙奈は、はてと首をかしげる。

「そういえば、おじちゃん、お名前は?」

「…ラルフ、と言います」

「へえ! 外国の人みたいね!」

 沙奈はきゃっきゃとはしゃぐ。

(ほんとうに、本のなかみたい!)

 ラルフが急に近しい人になったような気がして、沙奈はその側に座りなおすことにした。

「おじちゃんは、どうしてここに?」

 ラルフのとなりから、その顔を見上げる。さっきはあんなに「こわい」と思ったそれが、よく見てみると、とても優しい事に気が付いた。

 沙奈はそんな小さな事にも、うれしくなる。

「私は、旅をしているんです」

「たび?」

「そうです。少し前、あるのろ…、いえ、少し厄介(やっかい)な体質になってしまいまして。それを解くために」

 ラルフは少し悲しそうに笑った。沙奈の目には、どこか体調が悪いようには見えず、よく分からなかった。

「……たいしつ?」

 ラルフはうなずき、説明をはじめた。

 それによると、ついさっき沙奈がおそわれそうになったケモノを、おびき寄せてしまうというものだそうだ。

 なんでも、あの黒いケモノは、この世の「澱み(よどみ)」から生まれる「魔獣(まじゅう)」というもので、ラルフは、その「澱み」を引き寄せてしまうのだそうだ。

 もっとも、それらは少々難しい話すぎて、沙奈には前半部分しか分からなかったのだが。

 ともあれ。

 その体質をなんとか出来るかもしれない「聖女」という人に会いに行くための旅なのだと、ラルフはしめくくった。

「それで、なんですが。一緒(いっしょ)に行きませんか、姫様?」

「どうして…?」

「聖女なら、あなたを元の世界に返せるかもしれない。……ママさんの所に(もど)りたくはないですか?」

 ラルフの言葉に、沙奈ははっとする。このままここにいたら、大好きなママに会えないことを思い出したのだ。

 それならば、沙奈の答えは一つだった。

「うん、行く!」




 聖女様の住むという聖地という場所は、意外にもここから近いらしい。今いる森をぬければすぐの所だそうだ。

 もっとも、「近い」とはいっても、沙奈(さな)の足ではかなりの日数がかかってしまう。しかし、ラルフの体質の事もあり、長居は危険だった。そのため結局、沙奈はラルフのうでに、だきあげられる形で、移動する事となったのだった。

 そうして、ラルフと沙奈が初めて会った日から早数日。

 沙奈はラルフの事がすっかり大好きになり、最初の態度がウソだったかのように、にこにこと、そのうでに収まっていた。

「おじさま。あと、どのくらいで『セイチ』につくの?」

「聖地ですか? そうですね…、明日の昼(ごろ)には、おそらく。――という事で、(ひめ)。今日はこの辺りで早めに休みましょうか」

「うん!」

 いつもはもう少し陽がかたむくまで歩くのだが、今日はまだまだ明るい。ラルフにそっと地面に降ろしてもらった沙奈は、明るい森を自分の足で歩けるのがうれしくて、きゃっきゃとはしゃぐ。

 陽のあるうちなら、魔獣(まじゅう)をはじめとした危険なケモノ達は、ほとんど出てこないため、沙奈が走り回るのを、ラルフも静かに見守っていた。

 沙奈は、いつも高い位置から見下ろしていた森を、間近で見られる喜びで、目の前のものに夢中になっていた。

「あれ……?」

 そして、気が付いたころには、辺りにラルフの姿がなくなっていた。




 どの道を通ったのか、沙奈(さな)は分からないながらも、どうにか帰ろうと試みた。

 しかし、どれだけ歩いてもラルフはいない。そうしている間にも、空はどんどんと、あかね色に染まってゆく。

「おじさま……、どこ?」

 大きな声を出すと、(ケモノ)刺激(しげき)してしまいますからね。

 そんなラルフの警告を、沙奈は健気に守って、ひたすらその姿を探す。

 だが、いない。

「おじさま……」

 泣きそうになるのを必死にこらえて、森を一人歩く。

 このままでは夜になってしまう。

 夜になったら、また―――

 沙奈の中に、ケモノの赤い目が思い出され、足がふるえた。

 そしてその時また、あの時のように、ガサリと木々がゆれた。

「おじさ――、ひっ!」

 ラルフであってくれとの必死の願いは、無情にも消え去る。

 そこにいたのは、あの日と同じ、いやそれ以上に大きな、魔獣(まじゅう)だった。




 沙奈(さな)はにげた。

 必死に走ったが、相手はそんな沙奈の様子を楽しむように、ゆったりと追いかけてくる。

 もう息が上がって、苦しい。

 沙奈はとうに限界をこえていた。

 足がもつれて転ぶ。

「あっ!」

 べしゃっと、たおれこんだ。起き上る体力は、もう残されていなかった。

 足音で、魔獣(まじゅう)がすぐ側までせまっていることを知る。

 沙奈を、おおいかくすような大きな魔獣のカゲが落ちた。それは、沙奈を食らおうと、大きな口を開けている姿だった。

「たす、けて……」

 たおれたまま、沙奈はついにさけんだ。

「助けて! ――おじさま!!」

(ひめ)!」

 声と共に、その気配が現れる。

(きてくれた!)

 こわくて周りを見ていなかった沙奈には、どうなったのか、よくは分からない。だが、気が付くと、ラルフにだき起されていた。

「よかった、怪我(ケガ)は……?」

 沙奈がふるふると首をふると、ラルフはほっとしたように表情をゆるめる。

 沙奈の位置から、はっきりと見る事は出来ないが、魔獣はラルフによってたおされたのだろう。地面に横だおしになっている魔獣の足だけが見えた。

 危機は去った。

 二人とも、安心しきっていた。

 しかしその時、急にケモノがほえた。

 そしてその魔獣は、最後の悪あがきのように、するどいツメをラルフにふり下ろす。

「おじさま!」

 悲鳴をあげる沙奈をだいて、ラルフはそれを、さけようとする。だが一歩間にあわず、そのツメが当たって、二人もろとも、ふき飛ばされた。

 ラルフがしっかりと、だきとめてくれていたので、沙奈はかすり傷一つないが、ツメの切っ先がもろに当たったラルフは、そうではなかった。

「っ――」

 その表情が痛みにゆがむ。だがラルフは、心配させぬようにと沙奈に笑って、地面にそっと降ろすとこう言った。

「しばらく、目をつむっていて下さい」

 ラルフの有無を言わせぬような、その言葉に、沙奈が大人しく従うと、その気配がはなれていった。

 目を閉じている沙奈には何が起こっているのか分からなかった。

 だが、ドオンという地面をゆらす音で、魔獣が今度こそ、たおされたのだと知る。そして、再びラルフの気配が側にもどってきて、沙奈をだき上げた。

 そのまましばらく歩いて、ようやくラルフは沙奈を地面に降ろす。

「目を開けていいですよ」

 その声に沙奈がまぶたを、おし上げる。

 そこには――

「おじさま?!」

 そこには、苦しげな顔で地面に横たわるラルフがいた。

 おじさま、おじさま、と沙奈が呼びかける。だが、その反応は、どんどん弱くなっていく。

(このままじゃ、おじさまが死んじゃう!)

 沙奈は失われようとするその命に、ぞっとした。

 おじさまがいなくなるなんて、想像もつかない。そしてそんな、おそろしい事、起こしてはいけない。

 沙奈はラルフの手を包むように、ぎゅっとにぎって、そして、決意した。

「おじさま、ちょっとだけ、まってて」

「ひめ……、なにを……?」

 沙奈は最後にもう一度だけ、ラルフをふり返ると、意を決して、その場を走り去った。




 沙奈(さな)は難しいことを考えていたわけではなかった。

 明日の昼ごろには着くとラルフが言っていた聖地。そこに行けば、大好きなおじさまを助けられるのではないか。沙奈はただひたすらそれだけを胸に、走った。

 だがそこは、ラルフの足で半日かかる場所。沙奈の足ではもっとかかるだろう。だが、沙奈はそんな事どうでも良かった。

 どうにかして、おじさまを助けたい。

 沙奈にあるのは、ただそれだけだった。


 どのくらい、そうして走っただろうか。

 沙奈は暗い森の中に、何か明るいものあチラつくのを見つけた。

「あか、り……!」

 沙奈はそれに向かって、さらにスピードを上げる。その明かりもこちらに向かっているのか、思ったよりもはやい速度でその光は、どんどんと大きくなる。

 近くまでくれば、それがどうやら何かの行列のようなものだと気付いた。おおよそ、森というこの場所に、似付かわしくないキレイな装束の人物たちが、何人も歩いている。

 「こんな暗い中で何を」という、そんな当然の疑問さえ、今の沙奈の心には、うかばなかった。

 沙奈は、声が届きそうな位置まで、必死に走る。

 そして、ついにその集団の前まで来た時には、足から力がぬけた。

 急に現れた子供に、その集団がどよめく。

 だが、沙奈は構わなかった。

「おじさまを、助けて――!!」




 後から聞いたところによると、その集団は、「聖女様」の集団だった。異界の人間、つまり沙奈(さな)が現れたことを察知し、保護に出向いていたのだそうだ。

 いずれにせよ、そのおかげで、ラルフも一命をとりとめ、沙奈は一安心した。そして、そのラルフをなやませていた体質も、その「聖女様」が消してくれたのだという。

 そうこうしてラルフが回復してしまうと、沙奈がここに残る理由がなくなってしまっていた。

姫様(ひめさま)、もう帰らないと、ママさんが心配なさるでしょう?」

「で、でもぉ……」

 元の世界に帰るための魔法陣(まほうじん)の上で、沙奈はぐずっていた。

 ラルフとお別れになるのが、とてもさみしかったのだ。お別れがイヤだ、と沙奈が言うと、ラルフも困った顔でだまってしまう。

 だが、いつまでもずるずると居続けるわけにもいかず、最終的には説得に応じた。

 沙奈もママに会いたい気持ちはあるのだ。

 そうして、ついにこの日が、沙奈の帰る日だった。

「おじさま、もう、ケガしちゃだめだよ?」

 なみだと鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、沙奈は言う。ラルフはハンカチでその顔をキレイにぬぐった。

「ええ、分かってます。姫様もどうか、お元気で」

 沙奈はまた、にじみだすなみだを、そででぐしぐしとこすって、うなずいた。

「準備はよろしいですか?」

 ラルフの後ろに立っていた人物が沙奈に声をかける。沙奈は強がって、もういいよと答えた。

 ラルフが、沙奈の足元の魔法陣から一歩はなれる。心細さに、沙奈の胸がきゅっとした。やっぱり、はなれがたくて、沙奈は自然とラルフを視線で追う。

 ラルフと目が合う。

「――姫様。最後に教えてくれませんか」

「何を……?」

「あなたの、お名前を」

 沙奈は初めの日に、知らない人には名前を教えないと、そう言ったことを思い出す。

(もう、「知らない人」じゃ、ないのに……)

 沙奈は答えようと口を開いた。

 だがその時、ぱぁっと足元が光って、キラキラとしたものが雪のように降る。そして、沙奈は自分の手がすけはじめている事に気が付いた。

 もう、時間がない。

(でも……これだけは、伝えなくちゃ!)

 沙奈は、消えゆく中で必死にさけんだ。

「さな! ――わたしの名前は、沙奈!」

 白んでゆく視界に、ラルフの姿が見える。

 沙奈の大好きな笑顔が見えた。

「また、いつか。沙奈――――」




「んぅ……?」

 沙奈(さな)はもどってきた視界にはっとして、はね起きた。

 うすい布団がふわりと、ゆかに落ちる。ピンクのカーテンを開けると、空はとても天気がよく、真っ赤なランドセルに朝の光が反射した。

 よくよく見慣れた、そこは沙奈の部屋だった。

「ゆ、め……?」

 沙奈はきょとんとして辺りを見わたす。

 いつもの朝と何の変わりもない。

「ゆめ、かぁ……」

 沙奈はほっとして、ほっとしたらお腹が空いてきてしまった。

「おじさまのスープ、おいしかったなぁ」

 夢だったはずなのに、その味は今も、はっきりと思い出せる。

 沙奈は、お気に入りの真っ白なタンスから、服を引っ張り出して立ち上がった。

「ママ! おはよう、今日の朝ご飯はなぁに?」

「あら、沙奈。今日は一人で起きられたのね」

「そうなの、わたし、えらいでしょう? それでね、今日ね、ゆめで――」

 沙奈は満面の笑みで、ママに今日見た不思議な夢の話をする。

 その後ろに落ちた、「夢」で見たキラキラのつぶ。

 それが落ちている事に、沙奈は気が付かないのだった。

(完)

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