第一話

第三章一言の会話では足りなくなるから

 ミルチェは今、王宮の一角、薬草園のある区画に来ていた。

 傍らには護衛兼道案内としてハーディルがいる。正しくは、王宮へと訪れたミルチェとたまたま遭遇した彼に、事情を話し連れてきてもらったのだ。

 事情、とは今日の午前、ミルチェが引っ張り出したあの本に起因する。

 あれは、ミルチェが故郷から持ってきた数少ない荷物のうちの一つ。ミルチェがその年まで両親から学んだ知識を書き留めた資料だった。

 というのも、ミルチェの両親は村では唯一の診療所を営んでいた。ミルチェは医者の父と薬師の母に育てられ、簡単な心得は授けられていたのだ。

 そうして思い出した薬草の調合法を使って、傷薬でも作れないかと、ミルチェは思ったのだった。

「ここですよ。」

 ハーディルの言葉にミルチェは、眼前にそびえる建物を見上げる。

 硝子張りの温室。白く塗られ華奢に見える鉄筋に、硝子が嵌められ、中の様子が見える。地面を這うようにして生えるものから、人の身長の何倍もありそうな大木まで。外から見える分だけでも、ミルチェが見たこともないような色や形をしたものが沢山あった。

 ミルチェはハーディルが開けた扉を潜る。すると、冷えた身体が温まりほっとした。

 中は外気を遮断しており、とても暖かい。中の薬草を守るため、年中気温が一定に保たれているのだ。研究の為に、と持って来られた植物は、この国には自生しないものもあり、貴重なものが沢山あった。

 物珍し気に温室を見渡しているミルチェに、ハーディルはここの責任者に話を付けてきてくると、暫し側を離れていった。

 一人になったミルチェは周囲にある薬草を、しゃがんでしげしげと眺める。

 綺麗な花が咲いているものもあり、ミルチェの手が思わず伸びる。だがそれに触れる直前でその手が止まった。

 触るのも危険な薬草があることを思い出したのだ。ミルチェにはそれが、何の花か分からなかったため、大人しくその手を引っ込めた。

 今も村にいれば、これが何かくらいわかったのかな、とミルチェは少し悲しくなった。

 そうこうしている内に、ハーディルが戻ってくる。ミルチェの探している薬草を用意する間、少し待っていてほしいとの事だった。

 大神殿へと届けられると、そこの人間に見とがめられて、追求されても困る。なので、ミルチェはその言葉に素直に従う事にしたのだった。

「導師に薬学の心得があったことには、驚きました。」

 そう言うハーディルに、ミルチェはぽりぽりと頬を掻いた。

「聞きかじり程度ですから。ただの自己満足ですよ。」

 王のために何かしたい、そう思っていたミルチェは、思い出した薬学の知識に飛びついた。

 とはいえ、ミルチェが持っている知識は、八つの子供が知っていても危険の無いものばかりだ。王宮に仕える医師や薬師が作るものと比べれば、もはや民間療法の域に違いない、ミルチェはそう思っていた。

 それでもミルチェはキースの為、何かしたかった。

 まあ、効かない事はあっても、害にはならないだろうし!

 ミルチェはそう思う事にして、さっそく行動に移したのだった。

 使う薬草は、ミルチェが勝手に変えて予期しない変化をしても困るので、母に習ったものを忠実に再現している。村で母の傷薬はよく効くと評判だった。

 そんなわけで薬草を少しばかり分けてもらおう、というわけだったのだ。

「そういえば昨日、陛下にハーディル様との思い出話を伺いましたわ。」

 待っている間暇なミルチェは、何か話題はないかと、思考を巡らせる。そしてミルチェが思い出したのが、昨日キースから聞いた、彼とハーディルが木剣で戦った話だった。

「ああ……、懐かしいですね。」

 ハーディルはミルチェがキースから聞いた内容を告げると、懐かしそうに目を細める。

 だが、その懐かしい思い出を嬉しそうに話したキースとは違い、その横顔はどこか寂しげなように、ミルチェには見えた。

 前髪が陰になって、そう見えるだけだろうか。

「ハーディル様…?」

 心配になったミルチェが呼びかけると、ハーディルはこちらを向いて笑う。その表情からは、先程までの寂しさはない。

 やはり見間違いだったか、とミルチェは胸を撫で下ろした。あの哀愁ともいえるような雰囲気は、ミルチェの胸をざわつかせた。

「私が陛下に負けた時の話でしょう? 少し、恥ずかしいですね。」

 ハーディルはミルチェの内心を、知ってか知らずか、穏やかな顔で話を続けた。

「あの時はかなり衝撃でしたよ。本気でやれば同年代には負けない、と思っていたので。」

「そうなんですか?」

 近衛師団長を祖父に持つ彼は、かなり幼い頃から実践的な訓練を積んでいた。幼い時分ならば特に、その経験年数は大きい。ゆえに、同い年ならばなおのこと、彼が本気を出して負けたことがなど、なかったのだ。

「あの頃は、我ながら驕っていたと思います。……まぁ、そのおかげで。それ以降は訓練に一層打ち込むようになったんですけどね。」

 あの時に鼻っ柱を叩き折られておいてよかった、とハーディルは語った。それにへえ、とミルチェは相槌を打つ。

 本気でやれば負けない、と思っていたとハーディルは言った。ということは、キースが勝率は五分と語っていた、それ以前の木の棒のチャンバラごっこは、正しく遊び、だったのだなと、ミルチェは思っていた。

「その試合は、それきりだったのですか?」

「いえ、それからも何度か。二度目は私が再戦を申し込み、三度目からは陛下が。今も仕事の息抜きで、たまに御相手しますよ。」

 何でも、ハーディル以外の多くの者は、相手が陛下だと恐縮してわざとらしく負けてくるため、キースはそれが不満なのだという。結果、護衛という形で側にいることも多いハーディルに白羽の矢が立つのだと、ハーディルは言った。

「ふふ…、大変ですね。」

「いえ……」

 ハーディルは静かに首を振った。

 だが、その困ったように笑うその顔が、一瞬、ほんの一瞬だけ、また陰りを見せた気がしたのは、ミルチェの気のせいだったのだろうか。




 その日の夜、ミルチェは人知れず傷薬を作り終えた。

 ハンナに用意してもらった保存容器にそれを移し替えたミルチェは、明くる日、その薬を手に意気揚々と王宮へと出かけた。

 キースがそれを使うかは分からないが、ミルチェはこのまま渡してくるつもりだ。

 ミルチェが乗っていた馬車が、城門を潜り抜ける。

 はじめは導師が王宮へと来ることに懐疑的だった門兵達も、連日訪れるミルチェに慣れはじめ、笑顔で迎えてくれるようになっていた。その事に、ミルチェも馬車の窓の隙間から、よしよしと気をよくする。

 このまま訳の分からん慣習など無くなってしまえ、とつい思うミルチェだが、そう易々と無くなりはしないというのも分かってはいた。

 なぜなら、時折すれ違う、特に年のいった官吏達は、ミルチェに頭を垂れながらも、その目は冷ややかだったからだ。

 ミルチェはいつもはない、その薬の容器をそっと握った。こうして訪うことが無くなった後、何か形になるものを置いてほしかった。そんな打算的な気持ちに、ミルチェは今更ながら気が付いた。

 会えない頃は、一目会えたら、って思ってたのになぁ。

 ミルチェは自嘲の笑みを零す。それが聞こえたのか、前を歩いていた案内の兵が振り返る。ミルチェは何でもない、と首を振った。

 そうしているうちに、ミルチェは目的の場所へと辿り着く。開けてもらった扉を潜り、ミルチェはキースに挨拶をした。そして彼女が顔を上げると、その視線の先に思わぬ人物がいた。

「あら…、アイミティア様。」

「………ごきげんよう。」

 明らかに嫌そうな顔でアイミティアは呟いた。

 やはり、どうにも嫌われているらしい。

 キースはそんな彼女を困った顔で眺めるが、アイミティアは、ふんとそっぽを向いた。

「アイム……。ミルチェ、彼女も一緒で構わないか?」

「私はかまいませんが……」

 ちらとミルチェはアイミティアの方を窺うが、彼女は相変わらずそっぽを向いたままである。だが、出て行こうとはしなかった。ならいいか、とミルチェは気にしないことにして、いつものように彼の側のソファに腰を下ろした。

 今まで、ほとんど二人きりだったため、ミルチェは少し変な感じがした。

「お加減はいかがですか、陛下?」

「ああ、大分良くなった。明日からやっと、ベッドを出て生活しても良いのだそうだ。」

 はじめの数日にあった毒の影響や、傷による発熱も治まり、肩の傷も表面上は塞がりはじめている。治癒魔法が使える王は、自身に治癒魔法がかけられないかわりに、自己治癒力が高いと言われているだが、キースもその例にもれないらしい。

 もっともキースは、まだ通常の生活に戻るのは早いと、侍医にきつく言い含められており、まだ仕事には戻らないのだが。

「それはよかったです。」

 それなら、まだこうして側にいられるだろうか。

 そんな自分勝手な気持ちを振り払い、ミルチェは微笑んだ。今は無事に平癒へと向かっている事を、喜べば良いじゃないか、と。

「あ、でも…、塞がってきているのなら、無駄になってしまったかもしれませんね。」

 そう言ってミルチェは、持ってきた傷薬を出した。

「何ですの、それ。」

 ミルチェが出した小さな容器に、一番早く反応を示したのは、それまで不満気な顔で黙っていたアイミティアだった。

「かばっていただいたお礼に、というと大袈裟ですが…。傷薬を作ってみたので、持って参りました。」

 容器を開けると、草の匂いが広がる。ミルチェには、懐かしく心が安らぐ香り。だが、アイミティアのお気には召さなかったらしく、彼女の眉間に皺が寄る。

「作ってみた、って…、貴女が、ですの?」

 信用ならん、と顔に書いてあるアイミティアの隣では、キースは感心したように、その薬をしげしげと眺めている。

「へぇ……、昨日薬草園に行ったのは、この為か。」

 昨日、ミルチェはキースにその話を言わなかった。大方、ハーディル辺りから聞いたのだろうとミルチェは推測する。

「はい。よろしければ、どうぞ。」

「ああ、ありがたく頂こう。」

 キースは意外なほどあっさりと、それを受け取ろうとする。が、そこで待ったが入った。

 当然、アイミティアである。

「陛下! そんな得体の知れない物を、軽々受け取るのはどうかと思いますわ!」

 得体の知れない物、というのはミルチェも些か心外ではあるが、アイミティアの言い分は正しい。ミルチェ自身、渡しておいてなんだが、もう少し警戒した方が良いのではないかとは思わないでもなかった。

「アイミティア。我が導師が、私を害する物を渡すわけがないだろう。」

 アイミティアの言葉に手を引っ込めはしたキースだが、溜息交じりのその言葉は、どこか冷たい。

「そ、それは、そうかもしれませんが……」

 キースの静かな怒りに、アイミティアの声もどんどん小さくなっていく。俯いて小さくなるアイミティアに、キースは肩を竦めた。

 すまないな、というキースの謝罪の言葉を聞きながらも、そのアイミティアの姿があまりにも不憫で、ミルチェはつい助け船を出した。

「いいえ、アイミティア様のご心配はもっともかと……」

 そこまで言ってミルチェは、はたと我に返る。こう言った以上、どうにか安全性を保証しなければならない。

 どうすれば、アイミティアの納得する、安全性が示せるだろうか、と未だ手の中にある傷薬に目を落とし、ミルチェは首を捻った。

「そう仰るなら、安全だという証拠はありますの?」

 先程より声の勢いは弱いが、多少気持ちを持ち直したらしいアイミティアは、今ミルチェが考えていたままの質問をぶつけてくる。

「ええ……、そうですね、食べてみましょうか。」

「食べ……?」

 ミルチェがにっこり微笑んで、アイミティアを見返すと、その返しは予想外だったのか、ぽかんとしている。隣を見れば、キースは面白そうに成り行きを見守っていた。

 今回使っている薬草は、全て体表面に塗るのは勿論、食べても害の無いものばかりだ。食べても平気なら、多少は証明になるのではないかとミルチェは思ったのだ。

 そしてミルチェは、言うが早いか、傷薬を人差し指で少量掬い取り、口に含んだ。そして、唖然としているアイミティアに、それを差し出す。

「アイミティア様も、確認されますか?」

 ぐっと言葉に詰まったアイミティアだったが、おそるおそるそれに手を伸ばし、ミルチェがしたように口に含んだ。

「!! にがっ!」

「まぁ、食用ではありませんから……。」

 かくいうミルチェも、喉の奥に残る渋さに辟易している。

 ミルチェの知る薬は、まだ幼かったというのもあり、その殆どが生のまますり潰しただけのもの。

 そもそも薬というものは、相場不味いと決まっているが、これは口に入れる事さえ考慮されていないのだから、当然だった。

 ともかく、これで文句はないだろうと、早速キースの方を向くと、彼は俯いて肩をふるわせている。

「あ、あの、陛下……?」

 どこか痛むのだろうか、とミルチェは焦って声をかける。ついさっきまで普通にしていたのに。

 喉の苦みに顔を顰めていたアイミティアも、一転して不安げな表情でキースを見た。

 そうして二人でおろおろとしていると、その様子についにキースは、もう耐えられない、と笑いはじめたのだった。

「へ、陛下……。」

 ミルチェが、なんだ笑ってただけか、と呆れ混じりの視線をキースに向けると、彼はなおも楽しそうに笑い続ける。

「あ、ああ…、すまない。ただ、二人のやり取りが面白くて、つい。」

「陛下! 笑うなんて、ひどいですわ!」

 けらけらと笑うキースに、アイミティアが恥ずかしさか、顔を真っ赤にして怒る。それを、すまないすまないと宥めるキースに、ミルチェもつられる様に笑った。

「もう、貴女まで!!」

 そうして怒鳴るアイミティアの声と、二人の笑い声は暫く続いた。




 結局その日のミルチェは、夕方の遅い時間まで三人で過ごした。

 キースがミルチェの方を見ると、アイミティアがミルチェを凄まじい顔で睨んでくる以外は、いたって平和で、ミルチェもついつい帰るのが遅くなってしまったのだ。

 昨日までなら、日の高い内には大神殿へと戻っていたのだが、今日は時間が時間のため、ミルチェの迎えにハンナが来ていた。

 現れたハンナを伴って、ミルチェがキースの元を辞したのは、つい先程のことだ。

「随分、楽しかったようですね。」

 ミルチェはそれに満面の笑みで頷き、今日喋ったことを話して聞かせる。

「―――それで、楽しかったんだけど、たまに…アイミティア様が、もの凄い顔で見てくるんだよね?」

 今日は割と普通に喋っていたアイミティアだが、やはりミルチェに対してはどこか言葉にとげがある。何か恨まれるような事をしただろうか、と首を捻るミルチェに、ハンナは生暖かい視線を送った。

「気付いてないんですか?」

「なにが?」

「………いえ、なんでも。」

 何か知っているらしきハンナに、ミルチェは説明を求めるが、何度聞いてもハンナは黙って首を振るだけだった。

 何、その「気付いてないのはお前だけだ」みたいな目は……。

 解せぬ、とミルチェは口を尖らせるが、ハンナは何も言ってくれなかった。

 ミルチェはその不満を訴えようと、口を開こうとした。だが、ミルチェは声を発する前に口を閉じた。そして、ミルチェは何かを探すように、きょろきょろと辺りを見渡す。

「ミルチェ様?」

「ねぇ、何か……聞こえない?」

 小さな中庭に面したこの外廊下からは、そこに植わっている植木と、反対側の廊下、そして、暗くなりはじめた空が小さく見えるだけだ。時間故か人気もなく、今はハンナとミルチェの二人きりだった。

 二人は立ち止まって、同じように辺りを見渡す。

 その時。

「―――! ………っ!」

 風向きか、人の声、らしきものが聞こえた。

「……何か聞こえましたね。」

 ハンナにもそれは聞こえ、ミルチェは彼女の声に頷いた。

 どうやら口論のようなものをしているような声に、二人は顔を見合わせて頷き合うと、そろりと声のする方へと足を向けた。

 声が近くなる、だが未だに何を言っているのかは分からなかった。だが二人は、植え込みの陰に人影があるのを見つけた。

「あれ、だね。多分。」

「みたいですね。」

 ミルチェは声を落とし、ハンナに確認する。

 口論をしている、というより、片方が一方的に激高している、と言うべきか。片方は声を荒らげていたが、もう片方は、冷静なようで、二人の耳には殆ど何も聞こえなかった。

 これなら、人を呼ぶような自体にはならないだろう。なら、巻き込まれる前に、退散した方がよいと、二人はその場を離れようとした。

 だが、ミルチェはふと足を止めた。

「ミルチェ様、行きましょう?」

 立ち止まったミルチェは、口論をしている二人、特に声を荒らげている男の方を、じっと見つめている。

「ミルチェ様。」

 決して盗み聞きが目的でない二人だが、様子を窺っていた所を見つかるのは、都合が悪い。ハンナはミルチェを急かす。だが、ミルチェは、動こうとはしなかった。

「待って、ハンナ。………あれ、ハーディル様じゃない?」

「え?」

 薄暗いため、よくは見えない。

 だが、二人の内一人は、確かにミルチェにも見覚えのある顔をしていた。

 ミルチェの言葉に、ハンナもよく相手を確認した。

「あ……、本当ですね。」

 一体、誰と言い争っているのか。

 気にはなった二人だが、これ以上近づくと見つかってしまう。ミルチェはハンナに言われるまま、いったんその場を離れた。

「あれは何だったの?」

「さぁ……?」

 ハンナと二人首を捻る。あんな人目を避けるような場所で口論をしているなど、どうしても怪しく見えてしまう。

「そういえば、ハンナ。ハーディル様の顔、知ってたのね。」

「ミルチェ様? お忘れかと思いますが、私、貴族の娘ですよ? 特に高官の子供同士ですから、会ったことくらいはあります。」

「あ、そっか。」

 ハンナの言う通り、ミルチェもすぐに忘れてしまうのだが、ハンナはかなり良いところのお嬢さんである。

 宰相に次ぐ地位の大臣で国でも有数の大貴族、その娘。

 本来なら、ミルチェの世話をするどころか、される側の人間なのだ。とはいえ彼女は、ミルチェの世話を楽しそうに焼いているので、今更ミルチェもどうこう言うことはないのだが。

「特別仲が良いわけではありませんが……、クソ真面…いえ、とても誠実な方なので、評判はまぁまぁいいですね。」

 ハンナに言わせれば、ハーディルは真面目すぎるきらいがあるらしい。クソ真面目、って言いかけたよな、とミルチェが生温い目で見ると、ハンナは素知らぬ顔をした。

「ただ、ですね……。」

 ハンナは声を潜め、神妙な顔で呟く。ミルチェが首を傾げる。何か心配なことがあるらしいハンナは、そこで言葉を切り、口を噤む。

「何か、あるの?」

「そうですね。……大神殿に戻ってからにしましょう。」




 薄暗い路地裏を進む。

 エルムはちらりと、色が赤から次第に黒へと変わりつつある空を見上げ、歩調を速めた。

「エルム様、こちらです。」

 二人の護衛に挟まれるように歩きながら、前を行く一人の指し示す方へと道を曲がった。

「エルム様……、大丈夫ですか?」

 後ろを守るもう一人が、エルムにそっと声をかけた。

「…大丈夫だよ。」

 ここは王都の、だが表通りから大きく外れた路地裏の中だ。

 通常ならば、貴族の子息として育った彼が、おいそれを歩くような場所ではない。まだここは比較的綺麗な部類の場所ではあるが、こういった場所に足を踏み入れたことのない彼にとっては、それでもここは十分に恐怖の対象だった。

 だが、それを悟られぬように、気丈にも笑みを浮かべて、エルムは頷く。後ろの護衛は、その表情を信じたのかそうでないのか、エルムには分からなかったが、彼らがそれ以上追及してくることはなかった。

「エルム様、あそこです。」

 前を歩いていた護衛が足を止め、死角となる場所から、とあるあばら屋を指差した。壁にへばりつくように隠れながら、遠巻きに彼らはそれを見つめる。

 その家は、小さく、今にも崩れそうな壁で、エルムの目には非常にみすぼらしく見えた。だが、その両脇の家も、さらにその次も、いや、この辺りの全てが、そういった家ばかりだった。一人では見つけられなかったかもしれないと、エルムは思った。

「あそこが……」

 エルムはごくりと唾を飲み込んだ。

 エルムは酷く緊張していた。

 今、エルムが目の前にしているあの家は、此度の事件で、矢に塗られていた毒の出所となったとされる商人の店だからだ。

「様子を見てきます。」

 護衛の一人がそう言って、その店の方へと走っていく。エルムはそれを見送りながら、考えていた。

 発端は、今朝方の事。

 あの店の商人と貴族たちの関係を洗った報告書が上がってきたのだ。

 何かを買ったのか、それとも売ったのか、取引をしたのか、そこまでは分からない。ただ、ここ数ヶ月で出入りしたと思しき人物、そのリストだ。そこに挙がった名前は、かなりの数になっている。

 全てが事件に関わっているわけでも、キースに何かしようとしているわけでもないだろう。何も、あの商人から手に入れられるのは、毒薬ばかりではない。

 だからきっと、関係ない。

 そう思いつつも、その中に一つだけ、エルム達には見過ごせない名前があった。

 それを見たエルムは、いてもたってもいられなくなった。だから、無謀にもこうして、自ら現場に乗り込もうとしているのだ。

 褒められた事ではないのは、エルム自身分かっていた。だがそれでも、エルムは動かずにはいられなかった。

「ディー………」

 「ハーディル・ベルリーズ」の名を見た、その時から。

 彼は、彼の父や祖父の美徳をよく受け継ぎ、とても真面目で高潔な人間だ。

 普通ならば、このような場所は忌避し、人身売買も行われるようなこの場所を、彼は決して許さない。

 決して、このような場所に足を踏み入れるような人物ではなかった。

 だから、何かがあったのだと、エルムもキースも思った。

 キースにこの件を報告した時、二人は揃って首を傾げ、そして、そういう結論にいたった。そしてキースは、ハーディルが語るのを待とうと言った。だが、エルムはただただ待つという事は出来なかった。

 だから、エルムはここまで来た。

 商人が毒をどこへ売ったのか、それはエルムも勿論気になる。だが、エルムとしてはそれ以上に、ハーディルがここで何をしていたのか、そちらの方が気にかかっていた。

 商人を捕らえる事が出来れば、それも聞くことが出来るだろうか。

 エルムはそう思い、ここまで来たのだ。

 だが、事はそう上手くは運ばなかった。

「エルム様!」

 様子を見に行っていた護衛が、慌てた様子で戻ってくる。それにエルムは、どうしたのかと尋ねれば、彼は悔しそうに唇を噛み、俯いた。

「一足遅かったようです。逃げられました……。」

「何だって……」

 エルムはその店へと走った。その出入り口の扉に手をかけると、それは抵抗も無く開いて、エルムはその中へと入った。

 だが、そこに物がない。

 いや、机や椅子といった調度品はある。だが、棚や机の引き出し、何かが入っていたと思しき場所全てが、空っぽ。物品は何一つ残っていなかった。

「………」

 その様に、エルムは呆然と立ち尽くす。

 周辺を嗅ぎ回っていた事、それを商人に悟られたのだ。だから、安全に商売が出来るところを求めて、出ていってしまった。

 エルムは歯噛みした。

 だが、ずっとここに立っていても仕方がない。

「何か残っている物が無いか、調べて。」

 きっと何も無いだろうと思いつつ、エルムは護衛二人に命じた。

 ディー、一体君はここで何を……?

 その問いに答えるものはいない。




 大神殿へと戻ったミルチェは、ハンナから改めてハーディルに関する説明を聞いていた。

 王都に住んでいる彼の家族は現在、彼と妹の二人であること。それ以外の、両親、祖父などは領地の方に住んでいること。彼らの治めるウェルクライン伯爵領は、昨年の飢饉で大打撃を受け、現在もその影響が残っていること、などだ。

「―――というのが、私が知りうる限りのハーディル・ベルリーズに関する情報ですね。」

 なるほど、と頷きつつ、ミルチェは手に持っていた一枚の紙に目を落とす。

 内容はエルムが入手していた闇商人と取引があったとされる貴族の一覧と同じ物だ。

「ところでハンナ。これ、どうやって持ってきたの。」

 調査途中の資料など、当然、機密文書。

 特に導師の政治介入が厳しく制限されている現状、導師の名前では手に入らない。いや、逆に秘されてしまう。それをあっさりと手に入れてきたハンナに、ミルチェが訝しげな視線を送ると、ハンナは、えっへんと胸を反らして、満足げな顔で微笑んだ。

「あら、ミルチェ様。この私を誰だと思ってるんです? 機密文書の置いてある部屋だろうが、大臣の娘を追い返せるわけないでしょう!」

 ハンナはふふん、と得意気だ。要するに、父親の名前を出して部屋に侵入し、名前を書き写してきたらしい。

「そ、そう。」

 バレたらかなりまずいのでは、と思ったミルチェだったが、ハンナのあまりにも自信満々な様子に、何も言えなかった。

「それで、ハンナ。ハーディル様は、この件には関与してないのよね?」

「さあ、それは何とも。……まぁ、陛下方はそう思ってらっしゃるでしょうね。」

 そのもったいつけたような言い方に、ミルチェの顔が曇る。

 陛下方は、という事は、ハンナはそう思っていないのか、とミルチェは思ったのだ。そんな思いが顔に出ていたミルチェに、ハンナははっとする。そしてハンナは、ミルチェを宥めるように言葉を繋いだ。

「いえ、私も彼が、とは思っていませんよ?! 彼が陛下をどうこう、と思ったなら、あんな狙撃じゃなくて、二人になった時にでも、後ろからグサッとすれば良いんですから!」

 ね、そうでしょ、とハンナが慌てて言う。その言葉に、ミルチェも確かにそうだと息を吐いた。

 そうだ、彼らは友人同士。その上、ハーディルはキースの護衛もしているのだから、二人きりになることもままある。もっと確実な方法があるのだから、あの事件をハーディルが起こすことはありえない。

「そう、だよね。よかった…。」

 笑顔を浮かべたミルチェに、ハンナもほっと息を吐いた。

「でもミルチェ様、彼が何か…、面倒事の渦中にいるのは確かだと思いますよ。」

「? どうして?」

 暗殺事件には関わっていないのに、一体何に巻き込まれているというのか。首を傾げるミルチェにハンナは、考えてもみてください、と説明をはじめる。

「だってですね、あのウェルクライン伯爵家の人間が、闇市に顔を出している、ってだけでも怪しいですけどね。それより彼の母親、御当主の奥方様ですね。彼女、今年になって、一度も外に顔を出してないんです。」

 ハーディルの母親は、元々病気がちで、あまり頻繁に表に出る方ではない。

 だがそれでも、年に数回はパーティーに出席をし、体調の良いときは、領地内の見回りをする当主に同行していた。

 だが今年、年の瀬も近い今をもって、未だに一度も顔を出していないらしい。

「元々丈夫な方ではないらしいですけど、その分、動けるときは動きたがる方らしいのですよ。」

 子供の頃は病弱なのにお転婆で、無理をしては高熱で倒れる、という生活をしていたらしい。

 活発なところに気が合いそう。

 ちょっと、仲良くなりたいかも、と思ったミルチェだった。

「そんな人が出てこない、ってことは、ひどい病気なの?」

「おそらく。……ただ、噂に過ぎません。それに、お屋敷では元気にしている、とご当主は頑なに仰ってますし。」

 何かの理由で、病気を秘匿しているというのが大方の見方だ。だが、元々病弱で通っている人の病気を、隠す必要性が分からない。

「うーん…、ということは、闇市にはその人の薬を探しに、とか?」

「かも、ですね。けど、闇市に行かねば手に入らない薬を探している、という時点で……」

「あー、それで、面倒事。」

 ハンナは肩を竦めて頷く。

 そう考えると、先程の口論も、その関係なのだろうかと、ミルチェは首を傾げた。

「それはそうと、彼の他にもう一人、男がいましたよね。あの人……、どこかで見た事ある気がするんですよね。」

「そうなの?」

 どこで見たのかしら、とハンナは考え込む。

 ミルチェにはさっぱり見覚えはなかった。だが、ハンナが見たことがある、という点がミルチェは気になった。

「うーん、それじゃあ……、とりあえず、ハーディル様の側から調べてみたら?」

「何か気になりますしね…。そうします。」




「良いお天気ですね、陛下。」

「ああ、そうだな。」

 冬の柔らかい日差しに目を細めながら、ミルチェは微笑む。隣にいるキースも、同じように微笑んだ。

 先日、キースが侍医から、部屋からの外出許可をようやく得ることが出来た。

 その翌日。ミルチェは、寝てばかりで鈍った身体を動かしたい、と宣ったキースに散歩に誘われたのだ。散歩、といっても警備の関係もあり、城内の庭をまわるというだけのものだったが、ミルチェは二つ返事で了承した。

 そもそも大神殿に閉じ籠もらされているミルチェには、それだけでも十分目新しかった。それに、ただただ単純にキースとの散歩、というのにミルチェの心は躍った。

 そういったわけで、いつもより多少動きやすい服に、厚手の上着を羽織ったミルチェがキースの元に現れたのが、二、三刻ほど前の事だ。

 ミルチェが現れると、キースは庭に出る前に、二人で王宮内を練り歩いた。

 もちろん、人々が忙しく働きまわっている所は避けて、歴代の王と導師の肖像が飾られている区画や、美術品が飾られている回廊などだ。一つ一つキースの説明を聞きながら、ミルチェは彼に先導され歩いた。

 ある代の王と導師の恋物語、壁に掛けられた剣のかつての持ち主の冒険譚、果ては夜な夜な動き出す人形の話まで。ミルチェが初めて聞くそれらの話は、とても面白かった。

 そしてようやく城を抜けて、二人は庭へと出る。

 ミルチェはキースに手を引かれるまま、雪の残る地面を踏みしめる。暫く中にいたため、ミルチェには少しその日差しが眩しく感じられた。

「疲れてないか?」

 キースが振り返って、ミルチェに優しく笑む。

 ミルチェはそんな彼にドキリとして、鼓動が早まるのを感じた。空いている方の手で胸を押さえる。

 走ったわけでもないのに、急にどうしたのだろう。

 だがミルチェは、考えても理由は分からなかったので、それを思考の隅に追いやって、笑顔を返す。

「はい、大丈夫です。」

 そう、とふわりと微笑み、キースはミルチェの手を掴んだまま、歩く。

 そういえば、どこへ向かってるんだろう。

 隣を歩くキースをミルチェはチラリと窺う。確かな足取りで歩く彼が、どこかへ向かっているのは明らかだった。

 じっと見ていると、その視線に気が付いたキースが、ミルチェの方を向く。ミルチェは驚いて、ぱっと顔を逸らした。頬が異様に熱い気がした。

「どうした?」

「え、えっと、どちらへ向かわれているのかと……」

 何故こんなにドギマギとしているの分からず、言葉に突っかかりながらも、何とかミルチェは気になっていた事を聞いた。

「もうすぐだ。」

 答えになっていないが、着くまで秘密、という事なのだろうと、ミルチェは聞き返すのをやめて、大人しくついて行く。

 いまだ手は繋がれたまま、広い庭を進む。

 庭、というより林だ……。

 気が付けば、辺りは木ばかり。木々の隙間から城壁が見える以外は、まるで森に紛れ込んでしまったかのようだった。

「ミルチェ。」

 少しだけ不安になったミルチェは、キースの手を握るその手に少し力をこめる。無意識のそれに、キースに名前を呼ばれたミルチェは、はっとしてようやく気が付く。何とはなしに恥ずかしくなったミルチェは、その力を緩めた。

「何ですか?」

「ここだ。」

 目の前に急に開けた土地が現れる。キースに導かれるまま歩を進めると、その先に小さな屋敷が見えた。

「ここは?」

 王城の一角にあったその屋敷は、人の気配こそないが、家もその周りに植えられた草木も、手入れが行き届いている。誰かが住んでいるのだろうか、とミルチェはキースの方を窺った。

「母が暮らしていた宮だ。」

「え?」

 キースの母、言わずもがな先の王妃殿下だ。

 王妃がこんな王城の端で暮らしていた、というのはどういうわけなのか。ミルチェは頭に疑問符を浮かべるが、キースはそれに微笑みだけ返して、ミルチェの手を引く。

 そして彼は、屋敷の傍にあった、二人掛けのブランコへとミルチェを座らせる。彼も隣に腰を下ろした。

「あの……?」

 何が何だか分からないこの状況に、ミルチェが一抹の不安を抱えてキースを見る。

 キースはその不安をかき消すような笑顔をミルチェに向けて、見て、と前方を指差す。

 その先の光景を見て、ミルチェは息をのんだ。

「わぁ……!」

 そこには、真っ赤な薔薇の花が、所狭しと咲き誇っていた。冬の今咲く花は少ない。その中でその鮮烈な赤は、一際目を惹いた。

「冬咲きの薔薇。雪の白には赤が映えるだろうと、母が好んで育てていたんだ。」

 庭いじりが趣味で花が大好きだった王妃。その影響で、ここには一年を通して何かしらの花が咲いている。

 二人が口を噤めば、驚くほど静かだった。時折、風が吹き木々のざわめきが聞こえる以外、何もない。だがその静けさは、どこかほっとするもので、ミルチェにはとても居心地が良かった。

「どうしてここに?」

 どのくらい二人きりで、ただ座っていたのか。ミルチェが不意に口を開いた。

「……ここは、母の別邸だった。元々、それほど身分の高い人ではなかったから、王妃の仕事に疲れると、よくここに籠もっておられた。――いや、多分、ここが母にとっての家で、王宮は仕事場だったのかもしれない。」

 突然の昔話に、ミルチェは黙って頷く。

 必要最低限の侍女だけ連れて暮らしていたという王妃。王族が暮らすにはこじんまりとした屋敷の理由に、ミルチェは合点がいった。

 先の王妃は、貴族の出ではあったが、通常であれば王妃になるような身分ではなかった。彼女が王妃になったのは、全くの偶然で、運命のいたずらとしか言えない事情だ。

 先王は四代前の王の長子で、王となれるように育てられた人だったが、三代前、先々王は彼の弟となった。ゆえに、もう王となることはないだろうと思った先王が、気持ちを優先させ選んだのが彼女だった。

 その後は分かるだろうが、何故か王印は先々王の子供ではなく、その兄を選び、今キースへと受け継がれている。印の王の選択基準は全く、謎と言わざるを得ない。

 そんな経緯で、突如王妃となってしまった彼女の気持ちは、ミルチェも多少推し量ることは出来る。慣れない事を突然しなければならなくなったのだから、その心労は推して知るべしだ。特に、導師と違い人前に出ることも多いはずで、一時も気を抜けなかったのだろうと、ミルチェは思った。

「……その関係で、私もここで過ごすことが多かったんだ。」

 キースにとってもここは、家、という意識が強いのだろう。そう語る彼の瞳はとても優しかった。

「私も母に倣って、たまに来るんだよ。」

 今は誰もいないこの屋敷はキースの命によって、その屋敷も庭も、かつてのまま残されている。痛んだ所など一つもなく、今も誰かが暮らしているようにさえ思えるほど。

「ミルチェ、君にも…この場所を知ってほしかったのかもしれないね。」

 いつもの王としての言葉と違う、柔らかい言葉。

 この場所で彼は、王ではない自分に戻れるのだとミルチェは悟った。

 そんな大切な場所に、どうして連れてきてくれたのだろう。

「へい……」

 「陛下」と呼びかれて、ミルチェは言葉を切った。

 そう呼ぶのは違う気がした。

「――――キースさま。」

 初めてミルチェはキースの名前を呼んだ。

 そして、隣に座る彼の肩に彼女は、こてんと頭をもたせかける。

「つれてきてくれて、ありがとうございます。」

「………うん。」

 繋がれた手はそのままに、ミルチェは傍らのぬくもりに目を閉じた。




「ミルチェ……?」

 どうやら、彼女は眠ってしまったらしい。

 キースは彼女を起こそうかと思って、それを行動に移す直前にやめた。

 あまり長い時間になれば風邪を引いてしまうが、今日は季節の割に暖かい。暫くはいいかと考え直したキースは、その規則的な呼吸音を耳にしながら、同じようにキースも目を閉じた。

 今日、キースがミルチェを外に連れ出したのは、大神殿から、それも殆ど自室から出られないという彼女に、彼女が普段触れられないようなものを見せたいと思ったからだ。

 特に、先代導師の死去により王都へと来た彼女に周りの人間は、先代がいないのをいいことに、余計な知識を得ないように、と情報を制限している。

 歴代の王や導師、彼らの関係と、その持つ力についてなど。導師として持つべき知識を、注意深く削られていた。

 知識を付け、神官、魔術師の名目としては頂点に立つ彼女が、事実としてそこに立たないよう、ひいては、政治介入を許さないため。

 政治介入を許さない慣習のため、と言えば聞こえは良いが、実のところ、その結果王と手を取りあうことで、貴族の力が弱体化しては困るからだ。

 ミルチェ自身は、どの程度情報規制に気が付いているのか、キースには分からない。

 だがその結果としてか、本人の素質ゆえかは不明だが、彼女が魔法を苦手としているというのは有名な話だ。

 儀式で空杯を水で満たす、それがギリギリ使える程度。

 真偽は不明だが、彼女はそう振る舞い、周りもそう思っている。

 キースは目を開けて、自分の右手の印を見た。

 彼女の側にいるのがとても心地よい。これが、導師ゆえなのか、それとも別の意味があるのか。

 どちらも、かな。

 キースは隣で無防備に眠る彼女を見つめる。

 もう少しすれば、未だ残る肩の傷も癒え、二人はきっと今までの生活に戻る。

 キースは書類に埋もれ仕事を、ミルチェは狭い世界で祈りを捧げる生活を。

 この機会を逃せば、きっとこうして隣に座って言葉を交わすことなど、二度となくなってしまう。

 キースはもう、ミルチェを大神殿の一室に閉じ込めるような、そんなことをするつもりはなかった。

 どうしてこの数百年の間、歴代の王達はこの片割れを神殿に置き続けることが出来たのか、今となってはキースには理解できない。

 きっとこうして話をすることもなかったから、なのだろうとキースは、ミルチェとこうして会えるまでの八年を思い出す。。

 隣にいてほしいと思う。どういう立場になるかは分からないが、それでも傍に。手の届くところに。

 キースはミルチェと繋いでいた手に、少し力を込める。

 そして、空いていた手で彼女の頭を撫でて、額に口付けた。

「―――。」

 言葉になりきらないその気持ちは、吐息に混じって消えた。

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