第一話

第一章王と導師

「ああ、もう、なんでよ!」

「ミルチェ様、お気持ちは分かりますが……。」

 少女、ミルチェは苛立ちも露わに、目の前の彼女より少々年嵩の女に怒鳴った。いや、正しくは彼女に怒っているのではなく、彼女の持ってきた知らせにミルチェは憤っていた。

「そうは言ってもね、ハンナ。これを怒らずにいられる?」

 事件が起こったのは昨日のこと。

 昨日に行われた儀式の中、王が矢で射られるという事件が起こった。幸いにして彼の命に別状はなかった。

 だが怪我の影響により、それから半日以上が経過しているにも関わらず、彼はまだ目覚めていなかった。

「射られてたのは私だったかもしれない…。それを救ってくれた人のお見舞いにも行けないって、どういう事よ!」

 そう彼女、ミルチェは導師としてあの場にいた、当事者の一人であった。

 ミルチェは苛立ちをぶつけるように、部屋にあるソファにドカッと腰を下ろした。その衝撃をふかふかのそれが吸収する。

 ミルチェ自身もそれによって、幾分か気が済んだのか、もう怒鳴り散らそうとはしなかった。その代わりミルチェは、手で顔を覆って長い溜息を吐いた。

「しかも、理由が導師がうろつくのは危ない、とかならまだしも……、慣習、慣習って、バカみたい……。」

 ミルチェとて見舞いを許可されない理由が納得できるものなら、ここまで怒りに震えることはなかっただろう。だが帰ってきた答えは、慣習の為、容認できないという、ミルチェにしてみれば理由にもならないような理由だった。

 王と導師が並び立つ、そんなものは今は昔。

 大昔は王と導師は手を取り合い、背中を預けあって国を統治していたというが、いつからか王と導師は隔離され、一生のうちで相見えることなど、儀式の時のみ。そしてその時ですら、言葉を交わすことすら許されない。そんな状況になっていた。

「非常時だからこそ、そういった馬鹿げたものに拘りたいのでしょう。……貴族の愚かなところです。」

「ハンナ……」

 ハンナは困ったように笑う。

 一体、どういう気持ちで言っているのか、ミルチェには想像もつかない。ミルチェが憤るこの決定を下したのは、ハンナの父をはじめとした高官達だ。その笑みには自嘲も込められているよう、ミルチェはそんな気がした。

「貴族、か……。私には、わかんないや。」

 ミルチェは溜息交じりに、自分の左手の甲を撫でる。そしてミルチェは、それを光に透かすかのように腕を上げて、まじまじと見つめた。

 この左手に刻まれた印が現れた日のことをミルチェは、よく覚えていた。

 左手に焼けつくような痛み。

 それは一瞬の事だったが、何の前触れもなく訪れたそれを、ミルチェは昨日のことのように思い出せる。そして痛みが引き、彼女が目を覚ました後、まるで初めからそこにあったかのように、その印は現れていた。

 そして、今もそれは存在し続けている。

 王の右手、そこにも同じものがある、らしい。ミルチェが確認したことはない。

 ただ、もしそこに無かったとしても、自分には分かるだろうと、ミルチェは思っていた。初めて彼のその姿を見たときから、いや、それよりもずっと前から、ミルチェは彼の存在を感じていた。

 魂の片割れ。

 遠く、遠く離れていても、誰よりも近い存在。

 それが、王と導師。

 常人には理解できないものだった。それでも、そういうものなのだ、と王に初めて会ったとき、ミルチェは思った。

 たとえ、彼と言葉を交わしたことがなくとも。

「はぁ……。」

 腕を下ろしたミルチェは、ソファの上で身体を丸め、膝に顔を埋めた。

 要するにミルチェは今、怪我をした彼のことが心配で心配で、堪らなかった。

 命に別状がないという事を聞いたミルチェだったが、この目で無事を確認しに行きたくて我慢ならなかった。

 怒りが収まり、だが意気消沈しているミルチェ。その様子に、先に折れたのはハンナだった。

「〜〜〜もう! 分かりました、とりあえず、私がもう一度父に連絡してみます!」

「ハンナ…。」

 ミルチェは顔をあげ、ハンナを見上げる。だが、そのまま出て行くのかと思われたハンナは、思い出したようにミルチェに向き直った。

 そして、ミルチェの鼻先に指を突きつけ、少しだけ顔をしかめたる。

「いいですか? 私が戻ってくるまで、勝手な事、しちゃだめですからね?」

「う、うん……?」

 ハンナの迫力に気圧されるように、ミルチェが頷く。それを確認したハンナは、もう一度「絶対ですよ」と念を押して、部屋を出て行った。

「………ダメ、って言われると、だよね。」

 そして、ミルチェも立ち上がった。




「よっ!」

 ミルチェはそんな掛け声と共に、窓に足をかけて、その傍にある木へと飛び移った。そして彼女は、するりとその木を器用に降りて、服に引っかかっていた小枝や葉っぱを払い落とした。

 今のミルチェは長い金髪を帽子の中に押し込んで、動きやすい服に着替えている。いつも導師として着ているような、ひらひらふわふわした服は、こうして動き回るのにはどうしても不向きだ。

「えーっと…、王宮はここからだと……」

 ミルチェはきょろきょろと辺りを見渡す。

 早くしないと、誰かに見つかって連れ戻されてしまう。それは大変まずい。ハンナに怒られる。

 同じ怒られるならば、目的を遂行してからだ。

 そんな事を思いながらミルチェは、辺りに人がいない事を確認する。

 王宮へは今ミルチェがいる場所からだと、山を少し下ればとりあえず王宮の敷地には辿り着く。ミルチェは空を見上げ方角を確認し、身を隠しつつ走りはじめた。

 今ミルチェがいるのは、俗に「大神殿」と呼ばれる、国教の総本山である。多数の神官と魔術師、それを統括する「導師」がおわす場所。それが大神殿であり、事実、ミルチェがそこに住んでいるのはその通りなのだが、ミルチェは内部事情にはそれほど詳しくはない。

 いつからか宗教と結びついた導師が、そこの統括として、縛り付けられている場所、というのがミルチェの印象だ。

 要するに、お飾りなのだ。

 事実、王宮の一角で行われる儀式の時を除き、導師は基本的に神殿の外には出られない。そのため、外に出たければ、下りる見込みの無い許可を待つか、こうして脱走するか、の二択になる。

 とはいっても、窓から脱出する導師なんて、私くらいだろうな。

 ミルチェは内心ぺろりと舌を出しながら、王宮を目指す。勿論、目的は王の無事を一目確認するためだ。

 斜面を滑り降りると、王宮の裏手に出る。大神殿と王宮の間には、城壁などは存在しないため、はっきりとどこからが城の敷地内なのか、ミルチェには分からない。だが、もう少し林を抜ければ、建物が見えるはずだと、ミルチェは木々を縫うように走った。

 記憶を辿りつつ、ミルチェが道なき道を進むと、程なくしてそれはあった。ちゃんと目的の場所へと辿り着けた事に、ミルチェはほっとして胸を撫で下ろす。

 だが、城の壁を見ただけでは意味がない。問題は、彼が何処にいるか、だった。

 自室に行けば、いるかな……?

 まだ意識が回復していないというから、医務室のような部屋だろうか、と一瞬考えたミルチェだが、彼女は暫く考えて首を振った。

 そもそも、この城の内部について、殆ど知らなかったわ……。

 医務室があったとして、ミルチェには場所がわからない。仕方なくミルチェは、あそこを目指そうと決めて、歩き始めた。

 彼女が目指すは、王の自室。

 まぁ、場所が変わってなければ、だけど。

 というのも、ミルチェが王宮に忍び込むのは、これが初めてではなかった。

 とはいえ、もう五年以上は前の話なのだが、王都に来たばかりの頃のミルチェは、王の顔見たさに何度か、今回と同じように忍び込んだことがあった。その時に、いくつか偶然が重なって、ミルチェは彼の自室と思しき部屋を発見していた。本当にたまたまだ。

 決して、後をつけたわけではない。

 その時、誰かの話し声にはっとして、ミルチェは慌てて身を隠した。

 近くにあった垣根の後ろにしゃがみ込んで、その声の主をやり過ごす。相手はミルチェに気付かずに通り過ぎていった。

 危ないところだったと、ミルチェは冷や汗を拭い、そろりと垣根から顔を出して辺りを確認した。

 とりあえず行ってみよう。ここに居続ける方が危険だわ。

 ミルチェは一人頷くと、出来うる限り気配を殺して、移動を開始したのだった。




 ハンナは扉を開けて愕然としていた。

 思わず膝から崩れ落ちなかったのは、ハンナ自身、どこかでこの状況を予期していたからかもしれない。

「勝手な事はするなと、あれ、ほど……!」

 込み上げた怒りを少しでも発散させようと、ハンナは大きくを息をついた。

 彼女の怒りの原因は勿論、ただ一つ。

 何故だか、もぬけの空となっているこの部屋の主に対してだ。

 クローゼットから、ぴらりと服の端が挟まって顔を覗かせている。ハンナはその扉を開けて、その乱暴に詰め込まれた、先程までミルチェが着ていた服を取り出した。そしてハンナはそれの皺を簡単に取った後、丁寧にかけ直す。そして、風になびいているカーテンを見て、眉間に皺を寄せた。

 また窓から脱走したらしい。

 ハンナは窓から外を見下ろして、その下に不自然に葉っぱと小枝が落ちているのを確認し、それを確信した。

 この窓からあの木に飛び移って、その時に引っかけた枝葉をあそこで落としたのだろうと、ハンナは当たりをつける。風で吹き飛んでしまっていないところからして、ミルチェの脱走から、そう時間は経っていないに違いないと、ハンナは思った。

 ハンナは溜息をついて、窓を閉めた。

 ここ数年大人しく導師の役割をこなしていたから、油断していたのかもしれない。ハンナはそう思った。

「やっぱり、縛り付けてから出てくるべきだったわ。」

 そんな事をしても、きっと抜け出してしまうのだろうけれど。

 そんな冗談とも本気ともとれない呟きをしつつ、ハンナはゆっくり部屋を整えていた。朝に置かれたままになっていた本を書棚に戻し、よく使うショールは綺麗に畳んで椅子にかけておく。

 他人が見れば、導師が逃走したのだから、もう少し慌てるなりして探しに行け、と言われそうな行動だが、ハンナは落ち着いたものだった。

 この程度で動揺していては、ミルチェの付き人など出来ないのだ。

 ここ数年こそ大人しいミルチェだったが、彼女がここに来た頃など、もっとひどかった。ハンナはまだミルチェが幼かった時分の事を思い出す。

 そうハンナにとって、ミルチェの部屋からの脱走など可愛いものだった。そんなもの、ハンナは数え切れないほど見てきた。逆に勤めを嫌がって、部屋に閉じこもった事も。

 それどころか一度だけではあるが、ミルチェは王都さえも抜け出して、故郷の村まで帰ろうとした事まであったのだ。

 ハンナはもう何年も前になる、当時のことを思い出す。あれはミルチェが十になる少し前のことだった。

 あの日もミルチェはこうして、窓から脱走していた。

 その時にはもう既に、その状態が慣れっこになっていたハンナは、いつもミルチェが隠れて膝を抱えている辺りを探した。

 いつもならそうすれば、ハンナはミルチェをすぐに見つける事ができた。だが、その日はいつになっても見つからなかった。

 それでも大抵、ミルチェは夕方になれば部屋に戻ってくる。ハンナは神殿中を探しつつも、仕方なくそれを待つことにした。

 だがその日は、それでも帰ってこなかった。

 そうして夜になり、ようやくミルチェが完全に失踪した事を皆が理解したのだった。

 神殿の関係者総出で彼女を探すが、それでも見当たらない。

 ついには誘拐か、とまで言われ始めた三日目。

 ハンナをはじめ、誰も想像すらしなかった場所から、情報がもたらされた。

 そうして半信半疑のまま、その場所に捜索隊が向かうと、本当にミルチェはそこにいた。

 その場所というのが、当時ハンナを初め、捜索に関わったおそらく全ての人を驚かせた。

 王都を出て一つ目の山を越えた麓の村。

 そんなところにミルチェはいたのだった。

 捜索隊に加わってミルチェを迎えに行ったハンナも、その目で確認した。しかも、ミルチェは存外元気そうだった。ハンナはそれをよく覚えている。

 だが本当に大変だったのは、むしろその後のこと。

 追っ手を認識したミルチェは、あらゆる策をこうじて逃走を図った。

 その時の暴れようはすさまじいものだった。それまで、彼女なりに大人しくしていたのだと、ハンナ達一同が思い知った事件だった。

 幼い子供ががどうやって王都の検問を抜け、山を越えたのか。

 それは未だに謎である。

 ハンナは懐かしさに少し頬を緩めた。

 それに比べたら、王宮に忍び込んで王の様子を見に行きたい、だなんて可愛いものだとハンナは思う。

 が、ハンナの表情がすっと冷える。

「とはいえ……。見逃せる訳ではありませんわ。ミルチェ様。」

 ハンナはここにはいない主の名前を呼んで、にっこりと微笑む。だが、目が笑っていなかった。

 ハンナは怒りを胸の内に、ゆっくりと部屋を出て行った。




「……、ここだったはず、なんだけど。」

 ミルチェは意外にも障害なく、王の部屋、と思しき場所の真下まで辿り着いていた。あまりにあっさり辿り着く事ができ、正直なところミルチェは拍子抜けだった。

 確かにミルチェは、人通りが少ないであろう城の裏手から、部屋のベランダを見上げる位置まで来た。だがそれにしても、あまりにあっさりだった。

 襲撃の翌日なのに、いいの……?

 ミルチェは、王宮の警備体制を少しだけ心配しつつ、自分にとっては都合が良かったと無理矢理に納得することにした。

 ミルチェは真上にあるベランダから視線をはずし、辺りの様子を窺った。

 人は……、いない! よし!

 ミルチェはぐっと拳を握った後、壁にある小さな凹凸に指をかける。そしてそこにミルチェは体重をかけ、簡単に崩れたりしないかを確かめた。どうやら、大丈夫そうだと、ミルチェは確認して手を離した。

 そして、壁の頑丈さに安心したミルチェは、もう一度手をかけ、そして身体を持ち上げた。次に足をかけて、今度はもう少し高いところへ手を伸ばす。

 それを何度か繰り返せば、ベランダの欄干に手が届く。はずなのだが、それはなかなか近付いてこない。

 何度か足が滑り、ミルチェは落ちそうになった。

 もっとも、ここから落ちたところで、ミルチェならばそうそう怪我はしないだろう。だがミルチェは、痛いのは嫌だし、何より登りなおしは御免被ると、なんとか踏ん張り、落下を阻止した。

 そうこうする間に、手に擦り傷を沢山作りつつも、ミルチェの手はベランダの縁を掴む。そして、もう片方の手で欄干を掴んで、ミルチェはどうにかベランダまで辿り着く事ができた。

 そこまできてようやく、ミルチェは息を大きく吐いた。

 や…やっぱり、昔より、体力落ちてる、な……。

 なかなか整わない息と、傷だらけの掌。

 それを見て、ミルチェは嘆息した。

 昔ならこれの半分以下の時間で登れただろうに、と。

 柵の外側に立ったまま、ミルチェは休憩がてらに部屋の様子を窺う。

 カーテンには隙間があり、薄暗くはあるが中を見る事ができた。

 一見しただけでも、貴人の部屋であるのは間違いないようだった。部屋にある調度品はもちろん、そもそも窓を半ば覆っているこのカーテン自体が、かなり良い品だ。少なくとも平民の、使用人の部屋ではない。

 またミルチェが目をこらしてみると、窓から少し離れた壁際に大きなベッドがあった。それをミルチェがよくよく観察すると、ベッドの中央部分に盛り上がりがあるようにみえた。

 これは…当たり、かな。

 ミルチェは、ふふふ、とほくそ笑みながら、ここが王の部屋であると確信する。

 こんな真っ昼間に、この場所で寝ている人間など、そうはいるまい。

 あとは、少しだけお顔を拝見して、見つからないうちに帰ろうと、ミルチェは考えた。

 ふうと息を吐いて、ミルチェは柵に足をかける。

 もう少しだ、そんな気持ちにより、ミルチェの緊張はかなり緩んでいた。

 だからミルチェは、異変に一瞬気が付くのに遅れた。

 ミルチェははっとして窓の方を見る。もう、彼女の身体の半分は欄干を乗り越えていた。

「………。」

 もう片方の足を床のある方へ持ってくれば、ミルチェはベランダに立てた。だが、身体が動かなかった。

 だが、それはきっと相手も同じだったに違いない。

 冷たい汗が背中に流れるのを感じながら、ミルチェ達はただ無言で見つめ合っていた。

 窓の向こうに、二人の男が立っていた。




 ミルチェがそんなふうに危機に陥っていた頃。ミルチェの捜索、いや連れ戻しに出たはずのハンナは、王宮に向かう前に寄り道をしていた。

「神官長様。」

 場所は昨日儀式が行われていた祭壇のある部屋だ。

 大神殿の奥にあるこの場所は、年に二回、昨日の豊穣祈願の祭と新年の祭にのみ使われる特別な場所だった。また、初代の王、戦乙女と呼びならわされる女性と、初代の導師である聖魔導師、その二人の持っていたと伝承されている剣と杖が安置されている場所でもある。

 普段なら、定期的に掃除はされているものの、殆ど鍵をかけられおり、人の出入りのない場所。

 だが、今日は違った。

「ハンナ殿でしたか。どうされました、こんな所まで。」

 祭壇の中央で周りの神官達に指示を飛ばしていた、老齢の神官がハンナの方へと振り返って微笑んだ。

「いえ。…一応、こちらも探してから、と。」

「……………、あぁ、そうでしたか。」

 暫くきょとんとしていた神官長だったが、合点がいったのか頷いた。勿論、ミルチェの脱走を悟ったのだ。

「ここ数年、ありませんでしたのに。……此度の事、よほど堪えたのでしょうな。」

 神官長はしみじみと呟く。ミルチェがよくよく脱走していた頃、ハンナと同じく捜索に駆り出されていた一人であるため懐かしいのだろう、とハンナは苦笑する。

 ちなみに、ミルチェが王都外へと脱走したときも彼はそこにいた。

 捜索隊との攻防の末、ようやく捕まったミルチェのその姿を見るなり、むせび泣きながらミルチェを抱きしめた。

 いや正直に言うと、感情が高ぶりすぎて、ミルチェを危うく絞め殺すところだった。

 だがそれによって、どれだけこの老神官に心配させたかを痛感したらしいミルチェは、それ以降、彼に対しなかなか頭が上がらなくなったのだった。

「決定がご不満だったようです。」

 そうハンナが言うと、神官長も、でしょうなぁ、と頷いた。

 ミルチェの窓からの脱走に怒ったハンナだが、ミルチェの気持ちが分からないわけではない。だからわざわざここに寄って、ミルチェが王に会える時間を少しでも確保しようとしているのだから、ハンナ自身かなりミルチェに甘い。

「そうだ、浄化の方は進んでいますか?」

「血による穢れ故、多少かかりましょうな。」

 通常ならば、儀式が終わり次第閉じられるはずのこの場所で、今も神官長はじめ大勢の神官達がいるのは他でもない、昨日の暗殺未遂騒ぎのためだ。

 事件自体も問題だが、今回は流血沙汰となった。神を祀る場所での血の穢れは嫌われる。それゆえに、神官達が総出でこの場を清めている、というわけだ。

 それが終われば、導師による仕上げ、祓えを行う手筈となっている。前例のない事のため、全て昨日の夜半に決まったことだ。

「明日の朝にでも、導師様に祓えをしていただこうか、と思っております。」

「はい。では、伝えておきます。」

 とはいったものの。

 ハンナはふと思った。今ミルチェは大神殿にいない。

 ハンナの予想がはずれていなければ、王宮にいるはずだ。それも、忍び込んでいる。その上、導師は基本外に出ない。そのため、彼女の顔を知っているのは、大神殿所属の者と、それ以外は一部の高官ぐらいだ。

 つまり、王宮にミルチェの顔を見知っている人間が、あまりに少ないという、どうしようもない事実がある。

「………神官長様。」

「何ですかな?」

 ハンナは思い至った可能性に、呻きながら言った。

「もし、牢屋に放り込まれてたら、明後日でもいいですか。」

「……………えぇ。」

 あり得ないと言えないのが、悲しいところだった。




 ミルチェは睨みあいをしていた。

 彼女の目の前には二人の男。格好からして、文官と武官だった。王の私室に出入りできるのだからそれなりの高官、側近だろうことは想像に難くない。

 だがそんなことより、ミルチェにとって問題なのはこの状況だった。

 二人がベランダへと出るガラス戸を開けている間に、ベランダに降りることはできたミルチェだったが、動けたのはそこまでだった。

 武官の方に剣を抜かれたから、ではない。そもそも身体がミルチェの意思に反して、動いてくれなくなっていた。

 魔術。

 おそらく、それのせいだろう、とミルチェは思った。

 魔術とは、呪文などを媒体に、いわば超常現象を起こす力だ。火や水を発生させ操ったり、今のように人の動きを止めたり、眠らせるなどもできるもの。

 ミルチェは突き付けられた剣から目を離して、もう一人の文官の方へ視線を動かした。おそらく魔術を使ったのはこちらの方だろうと、ミルチェは考える。

 でも、一体いつ、詠唱をしたの?

 身体が動けばミルチェは首を傾げていた事だろう。

 魔術の行使には基本的に呪文を詠唱する必要がある。

 それゆえに、訓練さえすれば、誰でもある程度使うことが出来るようになるのが魔術だった。

 そして、詠唱をどれだけ短く出来るのかは、才能がものをいう世界だった。

 詠唱破棄が出来る人もいないことはない、のだが、数十年、数百年に一人、という程度の人数だ。しかも、それの殆どはミルチェと同じ導師だ。なお、ミルチェは魔術自体使えないので関係はない。

 だが、魔術を使えないミルチェではあるが、知識がないわけではない。

 さすが、王の側近……ってこと、か。

 ミルチェは内心、嘆息した。

 今、分かっている限りで詠唱破棄できる魔術師はいない。つまり、彼も何がしかをしているはずなのだ。

 だが、ミルチェには全くそれが分からなかった。

 ミルチェが相手の様子を窺う中、文官の男が口を開いた。

「何者ですか。」

「………。」

 だがミルチェは、どうしたものか、と言葉に詰まった。

 考えながらもミルチェは、動きのない武官の方にチラリと視線を投げる。

 きっとこちらも強いのだろう。

 ミルチェには武術の知識が無いため、よくは分からなかったが。

 どちらにせよ、隙の無い彼らを巻いて逃げるという事は、ミルチェには無理そうだ。

 ミルチェは溜息を押し殺し、改めて二人と対峙する。

 しかし、逃げられないとしても、正直に「導師です」と言って良いものか。

 それがミルチェにとって、悩ましいところだった。

 いやそもそも、彼女がそう言ったところで信じてもらえるかが、甚だ疑問だった。

 ミルチェは今、窓から侵入してきた不審者だ。二人の反応からして、彼らが導師の顔を知らない事は、誰の目にも明らかだった。

 言ったところで、不信感が増す結果になりかねない。

 だがミルチェがそうして、どうしたものかと思案している間に、しびれを切らしたのは相手の方だった。

 武官の持つ剣が、ミルチェの喉元すれすれまで近付く。ミルチェが少しでも近付けば、当たってしまう位置にそれはあった。

「何者だ、答えろ。」

 そう言って凄まれては、さすがのミルチェも後が無かった。

 一か八か、言うしかない……!

 ミルチェは仕方がないと覚悟を決める。

 一度大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。

「―――剣をお引き下さいませ。私の名はミルチェ。導師にございます。」

 ミルチェは突き付けられている剣を意識の外に出し、努めて冷静に身分を告げた。

 導師、という言葉に二人はたじろぐ。

 導師の扱いは、たとえ元の身分がなんであれ、王と同等のものになる決まりだった。つまり、導師に剣を向けているだけでも大問題。怪我でもさせようものなら、首が飛びかねない、ということだ。

 だが、武官の男は剣を構え直す。魔術も解かれる気配はなかった。

「嘘をつくな! 導師が窓から入ってくるわけがないだろう!」

「………。」

 まったくその通りだった。なんにも言い返せない。

 ミルチェ自身、そうだろうな、というのが痛いほど分かっているため、ぐうの音も出ない、というやつだった。

 左手の印を見せれば早いのかもしれない。そうは思うミルチェだったが、なにぶん身体が動かなかった。

 ミルチェとて決して隠しているつもりはないのだが、そもそもこの印自体が小さい。そのため、この距離では、見ろとでも言わない限り、二人はそれを見つける事はないだろう。

 というのも、印がこの国の流通貨幣の一番小さいものを乗せれば、隠れてしまうぐらいの大きさだったからだ。

 見ろ、と言ってみる事もミルチェは考えた。だがこの調子では、「印まで偽造したのか」と言われかねないと思いなおし、ミルチェは口を噤んだ。

 ミルチェは溜息を吐きたいのを、なんとか堪える。

 どうしたらと考えつつも、どうしてもミルチェは、この不本意な状況に苛立ちも芽生えはじめていた。

 そもそも導師の人々のイメージがよくない。ミルチェは少々苛つきながら、ぶちぶちと思う。

 人々の描く「導師」。それは、お淑やかで、優しく、献身的で、いつでも穏やかに微笑んでいる聖母のような人間だ。特にここ何代か、女性の導師が続いたため、この聖母のイメージが強くなっていた。

 だから、手を傷だらけにして、壁をよじ登るような女。つまり、今のミルチェのような女が導師など、彼らにしてみればあり得ないという事だ。

 ミルチェとて、その気持ちがわからないでもない、が、迷惑な話だ。

 八歳までど田舎で育った村娘が、そんな女なわけないだろう。とミルチェはそう思うのだが、世間は違うのだった。

 きっと今前にいる二人も、導師は一人で外も歩いたことがない、箱入りとでも思っているに違いないと、ミルチェはムッとする。

 ミルチェがそうして一人で苛々としている間にも、状況は進んでいた。

「とりあえず、縄を持ってこよう。」

「そうだね。昨日の仲間かもしれない。吐かせないと。」

 ミルチェはその声で現実に引き戻される。

 随分、物騒な話になってきたぞ。

 やはりというか、ミルチェの「私は導師」という発言を二人は、歯牙にもかけていない。さすがのミルチェも、それに些か焦りはじめる。

 やっぱり印を見せて、時間稼ぎすべき!?

 そうすれば最低限、大神殿に確認するまで、無体は働かれない、だろう。多分。

 内心、大焦りで考えを巡らせるミルチェをよそに、二人は話を纏めていた。武官がミルチェから剣をひいて、部屋を出て行こうとする。縛り上げるための、縄を取りに行くのだとミルチェは悟った。

 ミルチェは慌てて、それを止めるために、声を上げた。

「少し、お待ちに―――」

「待て。」

 ミルチェの言葉を遮るように、別の声が重なる。

 武官がピタリと動きを止め、文官も目を丸くしている。ミルチェもはっとして、声のした方向に視線を向けた。

 そこには、もう一人。ベッドの上で、上半身を起こした人物がいた。

 彼と目が合う。

 それは一瞬の事。だが、その一瞬の出来事で、ミルチェは力が抜けた。身体が動いたなら、ミルチェはその場に崩れ落ちていたに違いなかった。

 誰かがその人物に、陛下、と呼びかける。だが、ミルチェにその声は遠く、頭の片隅で、部屋はあっていたのだな、とだけ思った。

 左手があつい。胸の鼓動が早まる。

 こうして、同じ印を授かった彼と目があったのは、はじめてだったのだ。

「それで、お前達は何を?」

 彼はミルチェから視線を外し、部屋から出て行こうとしていた武官、それからミルチェを対峙している文官を見る。

 些か怒気を孕んでいるような。

 そんな声に二人は戸惑ったような顔で、互いに視線を巡らせる。そしてようやく、まさか、という顔でミルチェを振り返った。

 どうやら、ミルチェの言葉を信じる気になったようだと、彼女は困ったように笑った。

 正直なところミルチェも、苛立ちはしたものの、この二人の反応は仕方がないものだという、自覚もあったからだ。

 そしてミルチェは、そろりとお願いをする。

「解術を、お願いできますか……?」

 文官は後ろを振り返る。その視線を受けて、ベッドの上の彼は頭を押さえて小さく頷いたのだった。

 文官が術を解く呪文を唱えると、ようやくミルチェの身体は自由になった。

 本音を言えば、そのまま腕を回したり、凝り固まった身体を解したいミルチェだったが、それを何とか抑え、すぐにベッドの傍近くまで寄る。そしてミルチェは、深く腰を落として王へ対する礼をとった。

「このような格好で、御前に罷り越しました非礼、心よりお詫び申し上げます。私は今代が導師、ミルチェに御座います。」

 本当は無事だけ確認したら、とっとと帰るつもりだったミルチェは、この事態に内心焦りに焦っていた。

 だが、そこは今までの努力の結果と言うべきか、そこにいるのは「導師」だった。

 たとえ、その服やら靴やらが、土と葉っぱで汚れ、手が傷だらけであろうとも、それが気にならぬほどに。そのあまりに美しい所作に、文官と武官の二人は目を見開いて固まっている。

 その中、王は鷹揚に頷く。

「こうして相見えるのは初めてだな、我が導師。私の名はキース。……頭をあげられよ。むしろ、詫びねばならぬのは、こちらのようだ。」

 そう言って、王、キースはミルチェの後ろで固まっている二人を、ギロリと睨んだ。

 何をしているのか、というキースの問いには答えが返ってこなかったが、状況的に何があったのか、彼は察したようであった。

 直立不動のまま動かない、後方二人をミルチェはちらりと視界に入れ、小さく息をついた。

「いえ。私は、その……、無作法にも、そちらのベランダの外から参りましたので、お二人の反応も致し方ないかと。どうか、お咎めになりませんよう、伏してお願い申し上げます。」

 もう一度深く頭を下げて、ミルチェはそろと頭を上げた。

「ベランダ……。」

 キースは目を丸くして、それだけ呟く。

 さすがのミルチェも正直に話すのは、恥ずかしかった。

 だが、ベランダからよじ登ってきたミルチェは、誰が見ても不審者。それを警戒した二人が、あまりきつく罰せられるのは、さすがに可哀想だとミルチェも思った。

 庇うためには、自身の恥を晒すのも仕方がない。

 キースはミルチェがベランダから侵入した件については、ひとまず触れないことにしたらしい。

「………だとしても、導師の顔の見分けもつかぬのは、恥ずかしい限りだ。」

 それに関しては、ミルチェも心から同意しているため、何も言えなかった。

 ミルチェが初めて真正面から向き合ったキースは、怪我の影響か、少し顔色が悪かった。だが、それ以外の不調は、ぱっと見た分に彼女の目には見当たらなかった。

 ミルチェは寝起きの無防備な姿に、少しだけドキリとしたが、彼女はそんな事より、思っていたより元気そうで良かった、と思い直し、その些か邪な思いをかき消した。

 顔を見るだけのつもりだった。それなのに思いがけず、キースと言葉を交わす機会に恵まれ、もう少しここにいたい気持ちになったミルチェだったが、はたと、神殿を脱走してきたことを思い出して、我に返った。

 一刻も早く、帰らなければ。

「では、そろそろお暇させて頂きたく思います。」

 少し名残惜しいが、ミルチェはそう切り出した。

「それでは、ごきげんよう。エルム様、ハーディル様、…我が君。」

 ミルチェは優雅に一礼すると踵を返し、ベランダの欄干を軽々飛び越えてその場を後にした。

 それから大神殿に戻ったミルチェが、ハンナに雷を落とされたのは言うまでもない。

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